癖と強迫性障害と習慣 | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

あさイチ やめられない癖、調べてみたら・・・ - NHKプラス

佐藤二朗が公表した「強迫性障害」の症状・原因・受診の目安を医師が解説(Medical DOC) - Yahoo!ニュース

先日のあさイチのテーマは「やめられない癖」についてであった。その日に俳優・佐藤二朗氏が「強迫性障害」だったことを明かしたニュースもあった。番組内でも「癖」を治すために呼ばれていたのは「強迫性障害」の治療経験のある精神科医であったが、これに「習慣」を足して並列させることで見えてくるものがあると思うのである。

 

ここで言う「癖」とは、例えば貧乏ゆすりであったり、爪を噛む行為であったりのことである。また、強迫性障害は過剰な手洗いだったり、過剰な(鍵を閉めたか等の)確認行為である。番組によると、実は「癖」についての専門的な研究はあまりなされていないそうだが、関連分野からの意見は次のようなものであった。

 

心理学からは「刺激がなく退屈な時間を意味のあることに変えたいのではないか」、行動分析学からは「特定の場所や時間によって出て来る、何らかのメリットのあるものではないか」、脳神経の見地からは「たまたまやった行動が落ち着きや好パフォーマンスを与え、それが定着したのではないか」とのことである。

 

なるほど、この程度のことなら素人の私でも充分に説明出来そうだ。何故なら、几帳面なメランコリー親和型性格であるし、先の定型的な症状ではないが、一時的な強迫性障害の診断も受けたことがあって切実な問題としていたからだ。そんな私が思うことのまず第一は、癖も強迫性障害も基本的には同じものだが、その社会的評価による差が名称の違いになっているに過ぎないということである。

 

「やめられない癖」とは、みっともない程度のことであり、何か支障があっても簡単なフォローで対処できる問題である。それが強迫性障害になると過剰な行為によって社会生活が送れなくなる面が出て来る訳だ。約束の時間に間に合わなくなるとか、アトピー性皮膚炎なのに、ステロイド治療薬も洗い流すことになって一向に治すことが出来なくなるとかである。

 

みっともないも社会的評価ではある。それは当人がその若干の恥ずかしさを許容すれば済む話だとは言うものの、その癖をやってしまいたい衝動の”強度”が弱い訳ではないと思うのだ。それは社会的評価の”高い”癖というものを並べるとよく分かる気がする。それは習慣だ。”良い習慣をつける”というように、それは肯定されるものを意図的にしようというものだが、実は私はこれも「癖」のうちだと感じている。

 

先述したように私は几帳面な性格である。度が過ぎるとこれも問題行動とされるだろうが、幸い適度な範囲なので社会的評価は良いと感じている。例えば、かつて従事していた食品製造の現場では手洗いの励行を命じられていたが、習慣化させる以前にそれが面倒だと感じなかったのである。たぶんそれは、何が口に入ると良くないかを判別する癖があり、自分の健康を守るための自然な行動が、食品製造の衛生基準と合致していただけのことに思えるからだ。

 

こんな良い習慣を身に着けているかに見える私だが、他の良い習慣、例えば一定の睡眠習慣のようなものは努力しても全く出来ない。それは就寝すると考え事が浮かんでくるという悪い癖によって妨げられるのだ。だから習慣も癖も同じで、本当は癖に過ぎないことを、あたかもやろうと努力して出来るようになったと思い込んでいるのが習慣なのだと思っている。

 

癖も強迫性障害も習慣も、なんらかの衝動(ストレス回避か、快感への欲求という裏表)による行動があるだけなのだ。それぞれの呼び名は、社会的評価におけるその功罪を意識するに過ぎないい。少なくともこう考えれば、それを病だと憂える人への客観認識には資するだろう。