新世界112-運命の幸雲 15-3
〈つづき〉
ニシキは少しウキウキした気分で、沙希の待つ家に帰った。
アパートのドアには鍵が掛かっていた。
鍵を掛けろと言ったのは自分だ。だから掛かっていて当然だ。合鍵も持っていたが、チャイムを鳴らした。鍵を開けてくれる沙希に会いたかったからだ。
でも部屋のドアは開かなかった。チャイムを3度鳴らした。でも沙希は出てこなかった。
物騒だからそれでも安全を考え、開けないのかもしれないと、ニシキは考えた。ドアを叩いて、『俺だよ』と言ってもよかったが、格好悪いので改め、自分の持つ合鍵でドアを開けた。
ドアを開くと部屋の中は真っ暗だった。
寝るにはまだ早い時間だ。靴を脱ぎ、ダイニングキッチンを過ぎ、部屋の中に入る。
沙希はどこにもいない。まさかクローゼットの中に隠れているわけでもない。
一度キッチンまで戻って、トイレのドアを開ける。そこにもいない。暗闇の風呂場にももちろんいない。
彼女はどこかに出かけたようだ。
部屋に戻り、一人テレビを見ていた。何だかよくわからないクイズ番組を見ていた。
ニュースを見る気にはならなかった。ただ時間が過ぎてゆくような番組を見ていたかった。
時間が過ぎても沙希は戻ってこなかった。
部屋を出て、公衆電話に向う準備をした。玄関で靴を履いて、それを思いとどまった。
『彼女は帰ってくる』と信じたかった。帰ってこなければ、何らかの理由で自分の下を去ったのだと考えるべきだと、ニシキは自分の心に言い聞かせた。
実家に一人で帰ったのかもしれないと考えた。
理由はいろいろある。よく考えれば、ニシキが沙希の親に会うのを嫌がっていたから一人で帰ったとか、とりあえず先に一人で帰り後で連絡するつもりだったとか、そういう考えもある。
でも何のメモも残さず行ってしまうことなんてあるだろうか?
いくつかの事が不可解であった。
不可解なたくさんがあった。でも、ニシキはその全てを忘れようと眠る事にした。寒さがニシキの眠りを誘っていた。お腹は減っていなかった。そのまま眠りに就くことはそれほど難しいことではなかった。
まだ暗い時間に目が覚めた。沙希は帰ってこなかった。
翌日に警察が訪れるまで、ニシキには何が起きたかわからなかった。
翌日、警察官が沙希とニシキが2年と少し共に暮らしたアパートへやってきて、ニシキにこう告げた。
「彼女は亡くなりました」と。
若い警察官はニシキに告げた。
強盗を働き、暴走していた車に轢かれて亡くなった。健康保険証を確認したところ彼女だと判明した。身元は会社の社員に確認しているが、あらためて彼女の両親に確認してもらおうとしている。何かの間違いだと困るので一応彼女が住んでいたアパートを訪れた。
淡々とした説明だった。
そしてニシキは尋ねられた。
「失礼ですが、あなたはどのようなご関係で?」
「ちょっとした知り合いです」
「彼女のご遺体に会われますか?」
「いや、その必要はありません」
その若い警察官は深追いしようとはしなかった。忙しかったのかもしれないし、面倒な私用に立ち入るつもりはないと気を遣ったのかもしれない。
警察官が去った後、ニシキは残された現金と、沙希が隠していた(沙希はニシキに知られていないと思っていた)いくらかのへそくりを持って、家を出た。
何が何だか、ニシキにはわからなかった。わからなかったがこれ以上ここにいてはいけないんだとニシキは感じていた。どこへ行くかはわからなかった。行き場なんてなかった。でもそれが当り前だった。いつもニシキには行き場なんてなかったのだ。この2年半がイレギュラーだっただけだ。
ニシキは思った。
『不幸は伝染する。きっと俺が沙希を不幸にしたのだろう』と。
深い悲しみはなかった。ただ昔の笑みがニシキの口元には浮かんでいた。
新世界111-運命の幸雲 15-2
〈つづき〉
ニシキは電車を乗り継ぎ、駅から歩いて、海沿いにあるゴミの山の近くにある昔路上生活をしていた公園にやってきた。
あの頃の自分がいかに歪んだ心の持ち主だったかを思えば、今がいかにまともな人間かを思う。何一つ信じられなかったあの頃の自分を変えてくれた沙希がいかに大切かを考えさせられる。
路上生活をしている全ての人間は寒さに震えながらも、それぞれに上手に生きている。カラスやハトのようにちゃんと生きている人間のおこぼれを貰って生きている。こんな時代になってもそれなりに生きていける事をニシキは感じる。弁当工場を思えばこっちの方が気が楽である事は確かだ。
あの頃の自分を思えば、今の自分が自分なのかわからなくなってくる。ニシキはまるで誰か別の人間が理想を勝手に描いた姿を自分に与えているのではないかと感じる。
その誰かはこう言った。『お金は要らない。地位も名誉も要らない。有名になりたいなんて想いは要らない。ただ当り前の幸せを与えてあげて欲しい』そしてニシキはその誰かの願いに叶えられて、今を生きている。
ゴミの山はずっと向こうなのにとても臭い。漂う悪臭は数年前よりも増しているかのようだ。
ニシキは過去を思い返し、今自分にある立場を大切にしたいと感じる。だからここにもう戻る必要はないと感じる。
再び駅に戻り、電車を乗り継いで、今度は昔、カズさんが住んでいた場所を訪れる。ゴミの山で少しだけ一緒にいた仲間だ。40過ぎのおじさんだったが、ニシキはそのおじさんを唯一気に入っていた。ニシキの心は腐っていたが、そのおじさんだけは敵でも味方でもないと感じていた。なぜそう感じていたかは今でも不思議だが、そのおじさんがいなければ今の自分がいなかった事をニシキは知っている。
訪れた街の訪れたビルの地下0.5階にそのおじさんは住んでいた。小さな子供が一人いた。その子はおじさんの子ではないそうだが、おじさんにどことなく似ていた。
ビルは変わらずに立っていた。数年前と何も変わっていないようだった。
しかし入口のドアは開かなかった。ドアは閉ざされたままだった。
「あんた、そこの人の知り合いか?」と、誰かがニシキに尋ねた。
ニシキはヤバイと感じた。そこにいる人間はニシキが結婚詐欺をやっていた頃に会ってはいけない仕事をしている人間だ。つまりは警察だ。
「んん、ここってしまってるの?」
とっさにニシキは知らないふりをした。
「どう見たってしまってるでしょ?」と、私服の警官はニシキに言う。
「そうか、そうか」
そしてニシキは立ち去ろうとする。
「おい、ちょっと待ちな」
「何か?」
「俺の名前は馬込っていうものだ」
「何か?」
「ここの奴はブルーモンキーと何らかの関係を持っている事を俺は掴んでいる」
ニシキは少しだけピンと来る。左の男の顔がとっさに脳裏に浮かぶ。
「はあ、ご苦労様です」と、ニシキはとぼける。
馬込はじっとニシキの顔を眺める。
ニシキは昔から得意としていた薄ら笑みを浮かべる。
「まあいいか。あんたの顔は覚えておく。今度どこかで会ったら、その時にまた話そう」
「はあ」
ニシキは知らないふりをしてその場を後にした。
時は遥かに動いていた。もう全てが変わってしまった所まで来ていた。
ニシキは全てが過ぎ去ったことを感じた。
『自分は今ある幸せを守るしかない。そのために格好つけている暇もない』
自分にそう言い聞かせる。
もう過去に帰ることはない。ずっと先にまだ見ぬ未来が広がっているだけだ。
新世界110-運命の幸雲 15
2024年1月、治安維持活動のため自衛隊が出動し、国とブルーモンキー団の戦争が始まった。
約80年間続いた平和は外からでなく、国内の内乱により崩れた。
世の中は失業者で溢れ返っていた。強盗や犯罪は日常茶飯事となっていた。
ニシキは現実感のないアパートで日々何気ない毎日を過ごしている。ゴミの山にいたときも現実感のない毎日だったけど、今もまた現実感がない。
ここ最近、沙希は田舎の両親とよく連絡を取り合っている。現状からして田舎の方が遥かに安全だ。実際に田舎に帰ってしまう人は多い。都会の出身者も田舎へ逃げているという。
「わたしたちも田舎へ行かない?会社ももう潰れそうだし、そしたらもう暮らしていくお金もなくなっちゃうし」
沙希のニシキを誘う。
ニシキは沙希の親に会ったことがない。現実の話で言えば結婚だのなんだのの話もある。礼儀とかなんだとかかんだとかもある。
「俺の生まれた家は前も言ったように酷いものさ。もう10年も親には会っていない。そんな俺が君の両親の家にいくって言うのはどうかと思うんだ」
沙希は残念そうにする。
「本当は、ニシキ君も両親と仲良くしてほしいけど、今はいいから、こういう状況なんだし。とにかく私の田舎に一度行こう?」
ニシキは頭をポリポリし、少し考える。沙希の両親と暮らす当り前の幸せな生活にはどことなく慣れない感じがする。ニシキは今の貧乏生活にはどことなくしっくり来るものを感じている。でも世の中は現実感を日々失い続けている。ニシキに欲しいのは少し暮らしてゆくための当り前の幸せだ。ブルーモンキー団には苛立ちを感じる。
「わかったよ。少し考えてみる」
「考えてみるじゃなくてさ!」
そういう沙希の声を振り切って、ニシキはアパートの外に出て行った。
外は静まり返っている。どこでどのような戦争が行われているのか、ニシキは知らない。
「ちょっと出かけてくる。家にはしっかり鍵を掛けとけよ!」
と、ニシキは言う。
「帰ってきたら、答えを出してね」
沙希は歯がゆそうに怒った目でニシキにそう言う。
「ああ」とだけニシキは答える。
ニシキはいくつかの事を考える。何となく過去を振り返りたくなった。その全ての答えを出そうとしていた。
冬の冷たい風が吹いていた。それでも空は青々と晴れ渡っていた。ニシキの目には戦争なんてどこにも起きていないかのような平和な街に見えた。
『当り前の幸せを送るための生活を僕らの社会はいつどこでどうやってなくしてしまったんだろう?』
苛立ちがどこからともなく溢れてきた。うまくいかない歯がゆさがニシキの心を揺らしていた。
新世界109-夢世界 32
2023年8月、蒸し風呂のように暑い一日だ。
ブルーモンキーが世を変えて、もうすぐ一年が経とうとしている。
僕は変わらず毛皮に囲まれた部屋の中にいる。世の中の大悪党のボスである僕がこんなボロッちく汚い部屋にずっとい続ける理由はどこにもないのだが、僕はこの場を離れる気にならない。
どうしてここにいるのか、どうしても理由を答えなくてはならないのなら、それはただこの場にいる事が安全だと、僕自身が感じているせいかもしれない。
ブルーモンキーと誰かが名づけた強盗団は日本中に広がり、警察は各県に対策本部を置いて対応している。それなのに警察はこの場がいまだ見つけられずにいる。
なぜなら僕はもうそのブルーモンキー団という集団とまるで関係のない場所で生活をしているからだ。
僕はブルーモンキー団がいつどれだけの事をやり、どれだけの稼ぎを得、どれだけの金をばら撒いたのか知らない。
僕は知っている団員は今も、僕がボスになる前だった頃と変わらない。
左の男、右の男、顔黒男に、黒縁眼鏡、オタク、じいさん、細い男、だけだ。
僕が人前に出たのは、いつかの集会の時だけだ。そしてあの集会を機に、集団は異様なまでに広がった。広がりすぎて、何が何だかわからない。
「ボス!」
右の男が声をあげ、部屋に入ってくる。
大量の新聞紙を手に持っている。
僕は毛皮の上で横になって、ダラダラ過ごしている。その僕の目の前にその新聞紙を落とす。僕は何枚か目をやる。
『放火』『殺人』『破壊』『爆発』などなど、様々なよろしくない言葉が踊っている。
「これを見ても、何とも思いませんか?我々は破壊の集団じゃない。放火もしない。破壊も爆発もしない。まあ、多少穴を開けるのに爆発する事はあっても、まして殺人などという行為には絶対に及ばない。でもこれら全てが我らの仕業になっている」
僕は溜息をつく気にもならない。
「だからなんだ?それで、おまえは何がしたい?」
そして右の男の四角い顔を見上げる。
「規制をすべきだ!我々が我々であるための線を引く。それを破るものは我々の仲間ではない!」
「その必要はない」
「なぜ?」
「俺らは最初から仲間だのなんだのあったのか?俺らはただ一つの目的を基に集まっただけだ。ルールなんてものは必要ない。金を奪い、分ける。あるとしたらそれだけだ」
「しかし!我らは人殺しの集団と思われるのは、許せない」
「ブルーモンキーとは誰が名づけた?」
「それは、ボスじゃないんですか?」
「いや、俺じゃない。俺はこの集団に名前をつけた覚えはない。俺らは強盗集団だ。世の中に金をばら撒くといった前提を持った強盗集団だ」
「では、ブルーモンキーとは誰が名づけたのですか?それからボスは人殺しを許すのですか?」
右の男は強張った顔で僕に尋ねる。
「今の世の中は理由もなく新しい造語が生まれる。ブルーモンキーは誰かが生み出した誰かの造語だ。それが世の中の一般となった。いつしか金持ちから金を奪い貧乏人ばらまく集団とブルーモンキーがイコールとなった。ただそれだけだ。そして俺はその集団のボスでもない。ただ俺は金をばら撒く集団、数人の強盗団だ。ブルーモンキーはあくまで集団の名前じゃない。『金持ちから金を奪い、貧乏人が金持ちになるための行為をする集団』という造語に過ぎない」
「しかし、あなたは会館で…」
「まあ聞け。いいか。世の中を変える事は数人でできることじゃない。一つの集団じゃない。世の中を変えるのは、一つの同一思考を持った人間たちの集まりだ。その集まりが現在ある常識の全てを打ち破った時に世界は変わる。
ただ同一思考を持った人間にも、そうでない人間にも、極悪非道な奴はいる。わかるか?必要なのは善か悪かじゃない。一部の金持ちと貧乏人の世の中を壊そうと考えている意志を持っているかどうかって事だけだ。俺は集団の頂点に立つ者じゃない。俺は同一意志の頂点に立つ者だ」
右の男は全てに納得しているようではなかった。それでも堅く握った拳を緩め、頷いた。
「わかりました。しかし、この先どうなるか、私には責任が持てない」
僕はにやりと笑った。
「そうだな。そりゃ大変な事になるだろうな。しかし火消しをしていたら、火は弱まっちまうんだ。悪さする火でも燃やさねえと、火は弱まっちまうんだよ」
僕は狂っている。我ながら狂っている。しかし僕の口から出てきた言葉はそんな言葉だった。
夢の僕は身勝手で無責任だ。それが人間の強さには必要なのかもしれないが。
新世界108-運命の幸雲 14
2023年、世の中ではブルーモンキー団という強盗団が世間を騒がせていた。
彼らは金を奪い、奪った金をばら撒いたり、貧しい家に郵送したりしているそうだ。
ニシキはなぜ、彼らがそんな事を始めたのかを知らない。そしてニシキにはそれと関係のない毎日がとても長く続いていたが、そろそろ限界が来ていた。
ブルーモンキーはニシキを助けてはくれない。それよりは世の中は泥棒によって荒らされている。彼らが知っているかいないかは知らないが、世の中は泥棒が許される世界に変わろうとしている。
世の中はいつも何者かの力で変わってしまう。大きな出来事が起き、世の人はそれに左右される。
ブルーモンキーは世を変えた。ちなみに彼らがなぜブルーモンキーと呼ばれるようになったのか、それは誰も知らない。
同じ生活が続き、人はその生活に慣れてゆくものだと、ニシキは信じていた。でも工場に入りたての頃に田中という男が言っていた事の方が当たっていた。慣れるというのは難しい作業が上手になってゆくことで、嫌な環境にいる事に慣れなんてものはない。嫌な環境にいれば、日々ただ嫌になってゆくだけなのだ。
ニシキはもう耐えられそうにない。
「ニシキ君、やつれたね」と、沙希はニシキの顔を見て言った。
ニシキは黙っていた。
「ご飯も進んでないし、わたしの話も聞こえてないみたい」
「いや、そんな事は」
その言葉には反応し、沙希の顔を見つめる。
「いいよ。無理しなくても。辞めちゃいなよ。もう」
沙希はそう言って、ニシキに笑顔を見せる。
ニシキは何も答えられない。
「大丈夫だよ。その方がいいって」
その優しさを無視する事はできなかった。その優しさはニシキが今まで感じたことのない優しさだった。
甘えたかった。とても柔らかい声のする方へ寄り付きたかった。
沙希は自分が辛かったときの事を知っているから、とてもニシキの辛さを理解している。そして自分を救ってくれたのがニシキである事を沙希は知っている。だから今度は恩返しがしたかった。
世の中ではブルーモンキー団が世間を騒がす。
ニシキはそれと関係なく、弁当工場を辞めた。誰も止めるものはいなかったし、誰も残念がる人もいなかった。そこには最初から最後まで希薄な関係しかなかったのだから。
大切なのは家庭だ。帰れる場所がある事が何より幸せだ。
だからニシキの未来は明るい。