記憶の記録 34.八年冬
その冬は、悪天候と流行風邪が蔓延し、実家にも帰らない年越しを迎えていた。
家でジッとしてっとして、年越し蕎麦をすすって食べた。
外は雪ではなく、暴風雨が響いていた。
「これは帰ってこない方がいいって知らせだよ」って電話越しで
母は心配そうに言ってきた。
テレビ電話でしか澄音に会えないと残念がっていたけれど、
それ以上は求めてこなかった。
父は夕食を食べたらすぐに寝てしまったそうだ。
テレビ電話には登場してこなかった。
澄音も10時を過ぎると寝てしまった。
「どんな夢を見ているんだろうね?」
ベッドの上に横になってすうすう眠る息子を見て、みかげ君はわたしに尋ねた。
わたしには澄音の見る夢なんて想像もつかなかったから、
澄音が好きな絵本の話をした。
「きっと星に顔の書いてあるキャラクターに囲まれて、
宇宙の王子さまにでもなってるんじゃないかしら?」
みかげ君はじっとわたしを見ていた。なぜだかその表情に少しドキッとした。
そんなに深い意味はないのに、何か意味を求めてしまったみたいだ。
夜も過ぎてみかげ君も眠りに就き、わたしは一人嵐の夜空を見上げていた。
暖房も消していたから、異常気象といっても、冬はやはりけっこう肌寒い。
なぜだか眠れない夜だった。
なぜだか、何か、過去を思い返そうとする自分がいた。
ああ、あれはいつの話だったろうか。
・・・
「恋人は身勝手な人でした」
乙女チックな女子はわたしにそう語り始めた。
「彼は私を愛していないと言いました。それでも私をデートに誘ってくるんです。
そして映画を観たり、ランチをしたり。
時にはお酒を飲んで、良いムードになる夜もありました。
でも彼は、私との未来なんて考えていなかった。
彼はどこかで別の誰かを探していたみたい」
ストレートヘアの長い髪が綺麗な女性だった。
20代後半だったけど、彼女はまだ10代の少女のように乙女だった。
「ううん。それは、私の想像でしかなかったのだけど、
彼の目はいつも私を見ていなかった。
いつも、私はモジモジしていて、ただ気持ちに気づいてほしいと願っていただけ。
彼の気持ちがこっちに向くのを待っていただけ」
彼女はテーブルの上のグラスを手に取りオレンジジュースに刺さったストローをすすり、
喉を満たしてからまた語り出す。
「あれは雨の降る夜だった。とても強い雨で、風も強く吹いていた。
クリスマスも近い冬だというのにそんな台風みたいな悪天候。
彼とのデートも台無しの夜。
傘も持たずに歩いていたから、急に降られてびしょ濡れで、
慌てて近くのビルに駆け込んだ。そして彼とキスをした。
彼は心を落ち着けたかったのかもしれない。
私は一線を越えた気がした。
でもそのまま私たちは地下鉄に乗って、互いの家に別れて帰った。
翌日、彼からメールが来た。
君とはずっと友達でいたい。そういう内容のメールでした」
そう言って、少女は泣いていた。
・・・
なぜ今、わたしはこんな話を思い出したのだろう。
そしてどこか切なく、悲しい気持ちにさせられた。
あの時、私は切なくなかった。
むしろ、そういう恋愛をしていた彼女を羨ましく妬んだ。
あれは確か、また私が20代の頃だ。
あの女性は、全く別の物語を望んでやってきたのに、
その話をして、物語を作るのを止めた。
強い瞳で、止めますと言っていた。
新しい彼氏との物語を綴ろうとしていたのに、
昔の恋人が忘れられなかったのだろう。
今は一人で暮らしているのだろうか。はたまた幸せを掴んだのだろうか。
冷たい冬の雨が、あの記憶を思い返させたのだろう。
でもそれだけではない。
この、流れていく時に、わたしは何か大切なものを失い続けている気がする。
その不安が、あの記憶を、
さらにわたしを追い込み、切ない気持ちにさせたように感じる。
記憶の記録 33.七年秋
もうすぐ12月になる。わたしは今日も清々しい朝を迎えている。
幾日の時が流れ、
今こうしてまた、新しい朝を迎えて、珈琲の香りが漂っている。
みかげ君がダイニングテーブルに座り、一人で珈琲を飲んでいる。
澄音はリビングカーペットの上でブロックのおもちゃをいじっている。
結婚して約四年半、澄音が生まれて約二年半が経つ。
私たち夫婦と親子は大きな問題もなく、平和な時を送っている。
社会は大地震や台風の自然災害に脅かされ、
諸外国の脅威に不穏な空気を漂わせているけど、
この家庭の中に至っては平和な時間が流れている。
「恐れてはいけませんよ。
だって恐れてしまったら、平和が失われていってしまうから」
わたしはみかげ君のお母さんにそう言われたことがある。
その言葉を大切にしている。
澄音の育て方がうまくいかないとき、わたしはどうなってしまうのかと少しパニックになったことがある。その時、彼の母に言われたのがその言葉だ。
家族を壊すのは、夫でも子供でもない。わたし自身の中にある不安だ。
そう気づいたとき、恐れはすっと去っていった。
それからも子育てと仕事の両立への苦労は無くならかったけど、いつも立ち向かって強気で乗り越えてきた。今は少し慣れた。
みかげ君はいつも変わらないように見える。朝早く出ていって、夜遅く帰ってくる。
仕事もあるだろうけど、どこかで息抜きをしていることも、わたしは感づいている。
土日は子供の相手をしてくれているから、そこはそおっとしておいてあげる。
・・・
この生活には慣れた?
慣れた。
僕はきっとそう答える。
時は流れた?
時はまだ、流れていない。
僕はまだ、何かやりたいと心のどこかで考えている。
日々、パソコンに向き合うシステムの仕事は複雑で面倒だ。
自分は知識さえあればできる仕事を繰り返している。
いつか自分だけのバーチャルワールドを完成させたい。これはめぶきにも言えない。
僕にはもう一つの自分がいる。その世界では、自分と向き合い、自分の時間を過ごしていられる。
田舎の川で釣りをしているように、その世界で僕は魚が来るのを待っている。
気ままな時間がそこにはある。
老後はその世界を拡げて遊びたい。
今は、今ある生活も大切にしている。息子が成長するのを楽しみにしている。
三人で買い物したり、子供の遊び場へ出掛けたり、
ここにある生活は、僕のバーチャルワールドを作る糧になっている。
めぶきは知らない。僕のもう一つの世界を。
・・・
「ただいま」
夜になって、みかげ君が会社から帰ってくる。
秋の夜はすぐにやってくる。今日のみかげ君は元気な感じで意気揚々としている。
「おかえり」
澄音が生まれて、私たちの生活は少し単調になったかもしれない。
デートなんてしてないし、ディナーに出掛けることもなくなった。
澄音だけでなく、お互いの両親との時間も増えて、家族と過ごす時間ばかりが増えた気がする。
この平凡な日々は、みかげ君にとって少し窮屈だろうか。
自分の時間、私の時間、それぞれの時間。
どこかで自分の時間を作って帰ってくる。
わたしは怒らない。気にはなるけど、そっとしておこう。
少しずつ澄音が大きくなっていく。また新しい遊びを覚える。また新しいテーマパークに遊びにいく。きっとこれからも楽しみはたくさん待っている。
今日は平凡な日。またいつか、わたしたちの時間もやってくるだろう。
それも楽しみに、今は今の生活を楽しもう。
「ビール飲む?」
「ビールにします」
わたしたちは笑う。
『今はそれで、充分だ』
記憶の記録 32.七年夏
日々、生活は穏やかだ。何があっても今は平和な毎日を送れている。
今年の夏もまた暑い。蝉がジンジン泣いて、汗が吹き出て、額が濡れる。
ワンピースの脇に汗がたまるほとで、今日は特に蒸し暑い。
空にはドローンが飛んでいる。人々は自動運転で自由に町を行き来する。
今日はみかげ君と澄音を置いてきた。
父は歳だからもう旅行には行けないかもしれないと言っていた。
昨年秋の旅行も皆には付いていけず、大半どこかで休んでいた。
だから最後の家族旅行になるかもしれないと暗に思って両親を連れ出すことにした。
移動には最近人気の自動運転代行サービスを使う。
免許のない私たちを旅行先まで遠隔操作で運転してくれる。
ほとんど自動運転だけど、
免許の持たない人だけで車移動してはいけないのが世のルールだ。タクシーとは違うから車とガソリン代はまた別にお支払する。
自動運転車は私たちを湖の畔にあるホテルへ運んだ。
ここは両親が結婚したときに泊まったホテルで、私も時ある毎に、ここへ連れてこられたのを覚えている。
秋の紅葉には賑わうこの行楽地も、夏の緑に覆われた森では人もまばらだ。空気は都会と比べて少し涼しい。
とはいえまだ夏まっさり。
ホテルに入るとボーイさんが来て私たちの荷物を運んでくれた。
ダブルの部屋をトリプルにしたから、一つだけベッドが少し小さい。
私はそこに腰かける。
「そこでいいの?」と母が言う。
父親は何も言わずにすんなりと窓際の一番いいベッドに座っている。
ちょっとそういうところがある。
「私が二人の間なの?何か子供みたいじゃない?」
「あら、めぶきはいつでも私たちの子供でしょ」
母は真顔だけど、わたしは笑って避ける。やっぱり二人の間は恥ずかしい。
「いいから母さん、真ん中ね」
「わたし、イビキうるさいよ。イヒヒ」
部屋から少し離れたところにある温泉で一っ風呂浴びて、母より先に出てきた。
ホテルをうろうろしてティーサービスをしているラウンジに行った。
父は一人深林を眺めて、コーヒーを飲みながら座っていた。
「お父さん」
とわたしは言って側に座った。
皺の多くなった顔で振り向いた。
「やあ、めぶき。あそこに飲み物があるから」
「ああ自分で取ってくる」
立ち上がろうとした父を遮って、わたしティーサーバーのある場所へ向かい、カモミールティーを入れて、父の側に戻った。
「すみとは大きくなったか?」
「ええ、とっても元気に動き回ってるよ。ママパパあれこれしゃべり出してね」
「一番手の掛かる頃だな。大丈夫か?」
「うん、わたしはまあ。今日は、みかげ君心配だけど、向こうのお母さんも来てくれてるからね」
父は優しく頷く。
「子供は心配しながらも、どんどん大きくなる」
「そうね」
「あのな、めぶき。
命って、いつかどこかで終わるんだよ。いろいろな命があって、育たない命もあるし、
育っても突然亡くなってしまう命もあるんだ。
命って、いつどうなるかわからないけれど、
生きているうちは毎日、少しずつ記憶に残っていくものなんだよな」
「どうしたの?父さん、急に」
「さあな、何か、めぶきに言わなくちゃいけないと思ってたことがあったんだけど、
なんだったかな?何が言いたかったのかな?」
父はそう言って照れ笑いをした。
「ああら、こんなところにいたの?二人して置いていっちゃうんだから」
そこへ母がやってきた。
そして何だか少しだけ騒がしくなって、何かをを言いたかった父の時間が終わった。
ディナーはそのホテル名物である虹鱒料理を頂いた。
母だけは肉が食べたいと、牛ヒレ肉のステーキを食べていた。
こうしてこうやって特別な時間を過ごす。そういった時間は
もう二度とやってこないのかもしれない。いつか必ず、そういう時が来るのだろう。
記憶の記録 31.七年春
花粉の飛散が多い、ほんわかとした春の日に、
ホテルに併設するカフェに呼ばれてやってきた。
「よく晴れているな」と彼は言った。
いつか私に自己のサクセスストーリーを依頼しにきた男は、
最初はさばさばした様子で現れた。
ガラス窓の大きいカフェの外では花々が咲き誇っていた。
赤いチューリップに
黄色いパンジー、
青いスイセン。
カフェの外側には公園がある。
そこには色とりどりの花が植えられた花壇がある。
わたしはそんな外の様子を一瞥してから話し始めた。
「今日はどういったご用件でしょうか?
以前、お渡しした本の件で話があると伺っていますが、それだけでは理解できなかったので」
50代の社長は頷いた。
「以前、あなたに書いてもらった私の物語なんだが、廃棄して、新しく書き直せないかな?」
彼は以前に比べて、だいぶ物腰が柔らかい話し方をする。
ここ最近は彼のドローン運送業界も乱立していて、経営が難しくなってきていると聞く。
そのせいだろうか。以前のような少しおごり高ぶった様子が失せたようだ。
「残念ながら、一度発行した物語を取り消すことはできません。ご承知のように、社長の物語は一般向けにも販売され、多くの方が購入されています。それだけという訳ではないのですが、発行した書物はこの世から完全に抹消しきらない限り、無くせません。それを行うことがいかに難しいかはご理解いただけるかと思います」
彼は大きくため息を付いた。
「何か?問題でも?」とわたしは尋ねる。
社長は少し悩んでから口を開いた。
「後悔している。特に、最後に加えた文には」
最後に、学生時代の彼の友人が裏切った話を付け加えた。その友人が自分を馬鹿にしたことが、彼の原動力の源だったはずだ。
「ひょっとして、会ったんですか?」
彼は私の問いかけに、縦に首を動かした。
「本を読んだと言った。君の言うとおりだと、彼は言ったよ」
「それなら、文は正しかったわけですし、発行を取り消さずともよろしいのでは?」
彼は口に手をやりとり、少し考えてから、再び口を開いた。
「でも彼は、『私と友達でいたかった』と言った。私は彼を見返すつもりでがむしゃらにやってきたけど、彼は『私と楽しい学生生活を送りたかった』と言っていた」
学生時代に彼の友人は『勉強するのは、彼が馬鹿だからだ』と言って、彼を傷つけた。それは本心じゃなかった。本当は、勉強なんて程々にして遊ぼうと、その友人は言いたかったのだろう。
「私は恥ずかしい。今は友達もいない。たくさんいるようで、皆、ただの損得勘定に振り回される連中だ。最近は風向きも怪しく、少しずつ私から距離を置くようになった。そんな時に、彼に会った。友達でありたかったと言われた。私はどれだけの人間を失うのだろう。あの時から失っていた。せめて、あの本の彼に対しての言葉くらいは、消してしまいたかった。私はやはり馬鹿なのだろう」
「消すことはできません。ただ、再編することはできます。もう一度、あれから起きたことと今を、付け加えて、社長の気持ちを文にすることは可能です」
人生は戻らない。
だけど生きている限り、やり直すことはできる。発行した書物も同じだ。
ストーリーは変えられない。でもその後の物語は付け加えることができる。
私はその事を社長に伝えた。
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
社長は感謝の意を述べて、深々と頭を下げた。
記憶の記録 30.七年冬
毎年のようにクリスマスがやってくる。
ジングルベルの曲が流れたり、その年に流行ったクリスマスソングが流れたりする。
年を越す前に最高潮となって、このシーズンに入り込む。
わたしはこの季節が苦手だった。
街を飾るイルミネーションとそれを楽しむ恋人たちのイメージは、
わたしの思い出にはなく、
心虚しくさせるからだ。
近頃になって、このシーズンがやってくるのをやっと楽しめるようになった。
クリスマスは恋人同士でなくて、家族団らん過ごせばいい。
アメリカ帰りの従姉妹もそう言っていた。
わたしは100円ショップでたくさんの飾りを買って、家の中をクリスマス色に染める。
ほんとはツリーが欲しいのだけれど、
こればかりは一年中どこに置くつもりかと、みかげ君に反対された。
「仕方ない」
わたしはあきらめて、雑貨屋で見つけた大きめの作り物のツリーを買った。
一歳半の澄音よりは大きい。
「壊しちゃダメよ!」
少しばかり動き回るようになった澄音は最近いたずらが激しい。
ありとあらゆるものをいじくり回し、噛みつく。
家にはネズミが住んでいるのかと思うように、あちこちに噛みついた痕が見つかる。
床に敷かれた組立式のクッションマットはボロボロだ。
そしてこの冬が来て、澄音とのクリスマス飾り対決が始まった。
わたしがツリーにサンタやトナカイ、星やお家の飾りを付ける。
澄音が取る。
そして噛る。
わたしが止める。
澄音が泣き出す。
わたしが玉の飾りを飾る。
さらに紐にぶら下げて、Merry Christmasのブロックを飾る。
澄音が手を伸ばす。
届かない位置に置く。
澄音が泣く。
散々苦労したけど、澄音の手の届かない範囲は飾りつけが完成した。
お陰で買ってきたツリーは裸のツリーになってしまったけど、
天井近くの壁には、たくさんの星が並びサンタがトナカイのソリに引かれて家に向かう、
綺麗な飾りつけが完成した。
夜にはみかげ君が帰ってくる。
「ジングルベル、ジングルベル、すっずが~鳴る~」
歌を歌ってパーティー。
・・・
帰ってくると、妻がパーティーの準備をして待っていた。
日々はうまくいかないことばかりで、今日も仕事のあれこれを引き摺っている。
家には明かりで付いていて、
妻の声と、
何を喋っているかわからないけど
言葉のような言葉ではないような息子の声が耳に入ってくる。
「ただいま」
そう、小さな声で、家に上がる。
妻は笑顔だ。
髪も短くして、丸眼鏡をかけて、理由もなく、母親らしくなったな、と感じる。
「今日はクリスマスだから、ケーキも準備してあるの」
そして嬉しそうにニコッと笑う。
一日中、システムの問題点を解消する方法を考えていても、
少しの答えを見つけることはできるかもしれないけど、
結局たいして進みはしない。
いったん気分転換。
ここに来れば、それが待っている。
「あ、ダメだよ。そこ噛っちゃ」
父として息子に怒る。
家に帰れば帰ったで、やらなくてはいけない子守りが待っている。
妻が料理始めて、父は子供の相手をする。
そしてご飯を食べさせ、お風呂に入れる。
これを作業と言えば作業だけど、楽しみだと言えば楽しみだ。
・・・
乳幼児用のプラスチックで出来た人形をいじって、
澄音とみかげ君が遊んでいる。
わたしはそれをカウンターを挟んだキッチン側から、
夕食を作りながら眺める。
チキンはすでに用意済みだから、
後はシチューを煮るだけだ。
毎日は忙しい。
瞬く間に過ぎていく。
この瞬間、この時間、この毎日を大切にしたい。
わたしはそう願って、二人に向かって微笑んでいた。