記憶の記録 31.七年春
花粉の飛散が多い、ほんわかとした春の日に、
ホテルに併設するカフェに呼ばれてやってきた。
「よく晴れているな」と彼は言った。
いつか私に自己のサクセスストーリーを依頼しにきた男は、
最初はさばさばした様子で現れた。
ガラス窓の大きいカフェの外では花々が咲き誇っていた。
赤いチューリップに
黄色いパンジー、
青いスイセン。
カフェの外側には公園がある。
そこには色とりどりの花が植えられた花壇がある。
わたしはそんな外の様子を一瞥してから話し始めた。
「今日はどういったご用件でしょうか?
以前、お渡しした本の件で話があると伺っていますが、それだけでは理解できなかったので」
50代の社長は頷いた。
「以前、あなたに書いてもらった私の物語なんだが、廃棄して、新しく書き直せないかな?」
彼は以前に比べて、だいぶ物腰が柔らかい話し方をする。
ここ最近は彼のドローン運送業界も乱立していて、経営が難しくなってきていると聞く。
そのせいだろうか。以前のような少しおごり高ぶった様子が失せたようだ。
「残念ながら、一度発行した物語を取り消すことはできません。ご承知のように、社長の物語は一般向けにも販売され、多くの方が購入されています。それだけという訳ではないのですが、発行した書物はこの世から完全に抹消しきらない限り、無くせません。それを行うことがいかに難しいかはご理解いただけるかと思います」
彼は大きくため息を付いた。
「何か?問題でも?」とわたしは尋ねる。
社長は少し悩んでから口を開いた。
「後悔している。特に、最後に加えた文には」
最後に、学生時代の彼の友人が裏切った話を付け加えた。その友人が自分を馬鹿にしたことが、彼の原動力の源だったはずだ。
「ひょっとして、会ったんですか?」
彼は私の問いかけに、縦に首を動かした。
「本を読んだと言った。君の言うとおりだと、彼は言ったよ」
「それなら、文は正しかったわけですし、発行を取り消さずともよろしいのでは?」
彼は口に手をやりとり、少し考えてから、再び口を開いた。
「でも彼は、『私と友達でいたかった』と言った。私は彼を見返すつもりでがむしゃらにやってきたけど、彼は『私と楽しい学生生活を送りたかった』と言っていた」
学生時代に彼の友人は『勉強するのは、彼が馬鹿だからだ』と言って、彼を傷つけた。それは本心じゃなかった。本当は、勉強なんて程々にして遊ぼうと、その友人は言いたかったのだろう。
「私は恥ずかしい。今は友達もいない。たくさんいるようで、皆、ただの損得勘定に振り回される連中だ。最近は風向きも怪しく、少しずつ私から距離を置くようになった。そんな時に、彼に会った。友達でありたかったと言われた。私はどれだけの人間を失うのだろう。あの時から失っていた。せめて、あの本の彼に対しての言葉くらいは、消してしまいたかった。私はやはり馬鹿なのだろう」
「消すことはできません。ただ、再編することはできます。もう一度、あれから起きたことと今を、付け加えて、社長の気持ちを文にすることは可能です」
人生は戻らない。
だけど生きている限り、やり直すことはできる。発行した書物も同じだ。
ストーリーは変えられない。でもその後の物語は付け加えることができる。
私はその事を社長に伝えた。
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
社長は感謝の意を述べて、深々と頭を下げた。