再接続 9.マンモス岩の精霊(1)
赤いリボンのロールが目に焼きついている。
少女はロールをクルリとひろげ、自分の長い髪を束ね上げ、頭の後方で一つに結んでみせた。
「さあ、いきましょう」
と、少女は明るい声で拓実と、二人のみつるに言った。
過去を思い出す上で、拓実の始まりはそこにある。小学5年生だった。
赤いリボンの女の子は、少し背が高く、顔立ちのはっきりした女の子だった。
成長も早く、少しだけ胸のふくらみが感じられた。拓実がふざけてボクシングの真似事をしたら、少女の胸にぶつかって、弾力に押し返されてドキッとしたことで、それは明らかな事となった。
拓実には二人の仲のいい同性の友人がいた。
二人とも“みつる”という名前だったが、一人は“充”で、一人は“満”だった。充は「みっち」で、満は「みっちゃん」と呼んでいた。
みっちは背が低く、肌の浅黒い男の子だった。
顔の形が逆三角形で、頭が大きく、顎の細い形をしていた。想像力に溢れていて、同じく空想にふけやすい拓実と気の合うところがあった。
みっちゃんは少しだけ背が高く、ほっそりとして、米粒のような顔の形をしていた。
足が速くて、野球で一番センターだった。いつも野球部だけど、野球に行かない日は拓実とみっちと遊んでいた。
あの頃はまだ田舎だった。今でも拓実の故郷は田舎だけど、今よりも田んぼが多く広がっていた。
『ぼくらの道は田園風景。歩く畦道の先にはお山が見える。町の全てが遊び場』
小学5年生の春休み、少女は、お山の上へと続く道の途中の小屋に越してきた。
お山の上へ続く道は木の陰に覆われて、暗くおばけの出そうな道だったけど、曲がり角の広場にある小屋だけは明るい太陽の光が届いた。小屋には鍵が掛かっていたから、周りの土肌の広がった石ころの転がる空き地で、拓実と二人のみつるはボールを転がし遊んだ。
いつものように、小屋の周りに行ったら、小屋に人がいた。覗いていたら女の子が玄関に出てきた。
「何してんの?」
少女は怒っていた。
「おれらはいつもここで遊んでたのに」
と、みっちが強く言い返した。
「ここは、わたしの家よ」と、少女は言った。
三人はあきらめかけたけれど、
「それなら一緒に遊びましょ。お母さんは夜まで帰ってこないから」
そうしてぼくらは出会ったのだけれど、少女は春休みが終っても、学校には来ない。同じ齢の女の子で、同じ学区内のはずだけれど、少女は学校にはやってこない。
だから学校が終わると、拓実と二人のみつるがお山へ行って、少女を誘って遊びに出掛けた。
「いきましょう」と、少女は言った。
『未来の今へと繋がる、子供だけの世界。
親の知らない場所で、ぼくらは秘密を作って遊んだね。
社会から離れた子供の遊び場。
光り輝く線の上、ぼくがぼくであることの始まりとなったのか?』
拓実ははるか遠くの過去を思い返していた。
始まりは、つむじ風じゃなくて、赤いリボンにあるような気がしていた。
(つづく)
再接続 8.つむじ風にいざなわれて(2)
風はどんどん酷くなっていった。
北風は強く、強く、ビューイ、ビューイと吹いていた。
フュルルルイーと吹いて、砂埃が舞った。
拓実は校舎の玄関口で、砂埃の舞い上がる空を見上げていた。
吹き上がる砂色の空は校舎の3階まで上っていた。
ビュー、ビュー、ビュルルルー、ビュルーイ、ビュルール。
風は何度も何度もやってきて、そして風はくるりくるりと渦巻いた。
校舎の真ん中につむじ風となって、埃を高く巻き上げていた。
「うおっ、すっげーなあ」
体育館側の通路でカセットテープを聴いていた問題児の中学生は驚いて声を上げた。
それはそれは高いつむじ風だった。
二階の校舎から外を眺めていた生徒も校庭に出来たつむじ風に気づいた。
「うぁああ、竜巻だぁ」とボソッと呟いた。
それに反応した生徒が外を見る。
「おおおおお、すげえええ」
その大声を聞いた教室中の生徒が、声を上げた生徒が見る方向を見た。
校庭では校舎よりも高いつむじ風が渦を巻いて、校舎の方に向ってきていた。
ガタガタガタガタ、窓も激しく揺れる。
他のクラスでも似たような光景が起こっている。
「皆さん、危険ですから、窓には近づかないで、廊下側に寄りなさい」
気がかりになった教師はそんな事を生徒たちに言うが、生徒は窓の方へとへばりつき、その光景を眺めている。
すると一人の学ランを来た生徒が校舎の玄関から出て姿が、砂埃の中にふと映る。
「誰かいる」
気づいた生徒がそういうけれど、砂埃が強くて、たいていの生徒はそれに気づかない。
『ぼくはあの時、渦巻く中心へと向っていった』
目を瞑って、拓実は音の強い中心へと誘われいた。
「うぉー、おーーーーーい、なにやってんだ!!」
問題児が拓実を大きな声で呼びかけた。
拓実には微かにその声が聞こえていた。耳の中を風がビュービュー吹き抜ける中、微かな声が何百メートルも向こうから掛けられた声のように聞こえていた。
でも拓実の足は止まらなかった。
つむじ風は拓実の方に向ってゆき、拓実もつむじ風に向っていった。
呼吸が荒くなる。顔に砂粒がひたすらにぶつかってくる。髪の毛がぶるぶると空へ引っ張られる。服もぶるぶる震えている。もう拓実はその場から一歩も進むことが出来ない。体は強烈な風を感じていた。
左巻きの渦が拓実を体をとられた。
ビュルルルルル、ゴーォーーー。
なんだかよくわからない音が響き、体を激しく揺さぶった。拓実は顔を腕で覆い、体が浮かないように両足で踏ん張り防御態勢を取った。
ただ通り過ぎてゆく風の中にいた。
風の中で自分自身も風になってしまったかのようだった。そのまま身も心も風となって、この世界を永遠に巡遊する風となって、生きていくことになるのかと諦めた。
つむじ風は校舎にぶつかり、その先でさっと姿と消してしまった。あっという間の出来事だった。
砂埃はしばらく舞っていたが、数十秒で薄らいでいった。
校庭には一人の学生が立っていた。髪型が左巻きの男の子だった。
砂埃に目を覆っていた問題児がその姿を見ると、わくわくして、左巻きの男の子に走り寄っていった。
「うぉーーー、おまえ、すごいなあ」
拓実は後ろから近づいてくるその声を聞いて、目を開いた。
校舎の窓からはたくさんの生徒が拓実の方をぼけっと見つめていた。
右手から近寄っていた問題児は拓実の肩を抱いた。そして嬉しそうに笑った。
拓実にはわからなかった。
『なぜ、ぼくは、つむじ風に向っていったのか』
ただ、常識的な当り前の出来事が嫌だっただけなのかもしれない。
ただ、その時たまたまそこに向うべき風がやってきただけだったのかもしれない。
あの時の拓実は日々の生活を嫌っていた。その意味ではそこに駆け寄ってきた問題児も同じ心の持ち主だった。当り前の生活を抜け出したいと、拓実はかつてのその頃から心の奥底に秘めていた。
(つづく)
再接続 7.つむじ風にいざなわれて(1)
いつかの光景が思い出される。遠い昔の記憶。
風の強い日だった。中学2年の秋だった。
教室では退屈な授業が続いていた。
国語の教師は教科書を解説しながら、黒板に白い文字を並べる。
生徒は話を聞いていない。
おしゃべりしたり、寝たり、絵を書いていたりしている。
「退屈だなあ、ああ、ここにいるだけでやってらんない」
一番後ろの真ん中の席に座っていた問題児はそう言って立ち上がり、廊下の方へ向かうと教室を出て行ってしまった。
拓実は後ろから二番目の窓際の席に座っていた。
風で窓がガタガタと震える。本当に風が強い。
校庭では風が強いせいか、体育の授業は行われていない。誰もいない広いトラックが広がる。北側は神社の林になっていて、東側にプールがあり、西側には体育館がある。からっぽの校庭は強い風に晒されて、砂埃を撒き散らしている。
友達もいない拓実は、そんな外の風景をただぼけっと眺めていた。
がやがやとうるさい声が周囲では飛び交う。
耳障りな音だ。もっと静かに過ごしていたい。
うるさい、実にうるさい。と、拓実は感じている。
ふと椅子をガッと引いて立ち上がった。
急に立っていた拓実に隣の席でおしゃべりしていた男の子がびっくりして、立ち上がった学ラン姿を見ていた。
その周りの仲間たちもそれを見ていた。
国語の若い教師はそれに気づいたが、気が弱く何も言おうとしない。状況を見守るように窓際に立った男の子を見ながら教科書を読み続ける。
窓際の男の子は席から離れて、廊下のある出口へと向かう。
そして教室のドアを開いた。
「どうしたの?お腹でも痛いの?こがわ君?」
そう尋ねたのは、後ろの出入口傍の席に座る女の子だった。
「トイレか?」
「気分悪いんじゃないの?」
他にもそんな声が聞こえる。
でも拓実は何も答えずに教室を出て行った。
廊下では、他の教室から生徒の声がしていたが、ドアは閉まっていて、廊下と教室には隔たりがある。拓実が歩いている姿は見えない。
廊下を過ぎて、階段を駆け下りて、体育館近くの下駄箱のある出入り口に出ていた。
問題児は体育館と校舎を繋ぐ通路の脇に座って、カセットテープを聴いていた。
その場に現れた拓実の姿に気づいたが、何も話しかけてはこなかった。
拓実は上履きのまま校舎の外に出て、校庭に出る一歩手前に突っ立った。
吹いてくる山からの北風を受ける。
『なぜぼくは、あの時、あの風に向っていこうと思ったのだろう?ぼくは、教室にいる事ができなかった』
風が誘っていた。わずかな運命の転換点が一人の少年を誘っていた。
(つづく)
再接続 6.ケヤキの木の下、ぬかるみの上(2)
ケヤキの木の下、ぬかるみの上の死体。
『たとえばそれがぼくにとっての、未来のぼくの幻影だとしたら、そうだったのかもしれない』
拓実の描いた幻影の未来の姿は石畳の公園で死体となっていた。
でも死体は幻影であって、実物ではない。
死体は魂を持っていて、拓実に意識を送ってくる。『おれに話しかけろ』と言うかのように、意識は拓実の心臓を圧迫する。
公園に人気は無い。薄暗闇で雨の降り出しそうな、何の休みでもない平日午後の公園だから、誰もこんな所にやってこない。
居るのは拓実とケヤキの木の下、ぬかるみの上の死体だけ。
「どうして、あなたはそんなところで死んでいるの?」
22歳の拓実はケヤキの木の根元を見つめて、未来の死体に心の声で尋ねる。
「人は思わぬところで死ぬ。人はいつか死ぬんだ」
死体は拓実の心の中に声を届かせる。「それは急にやってくるかもしれないし、徐々にやってくるかもしれない。おまえだけじゃない。おまえの家族や、おまえの友人、未来の恋人にも、ふとおとずれ、消え、無くなってしまう。
死は悲しい。人を苦しめる。
誰も死なない方がいい。でも誰もが死ぬ。
そして人の心に痛みを与える。おれは人を不幸にする。人を悲しませ、どこまでも澱んだ世界に周りに生きている人間を追い込んでゆく」
「あなたは突然の、予想もしていなかった不幸で、死んでしまったんですね。そして、家族や友人を悲しませた」
「おれは死ぬつもりなんてなかった。まだ生きていたかったんだ」
未来の先で、拓実は思い出す。
『あれはぼくじゃなかったんだ。でもあれは今となってはぼくなのかもしれない』
遠い未来から過去の思い出を探っている。拓実の意識は秋の夜の都会から、秋の夕暮れ前の公園に向っている。
その頃の拓実に生きたいなんて思いはなかった。その時期はいつ死んでも構わない頃だった。
「あなたは幸せですね」
「どうして、そんな事を言う?」
「あなたは、生きていて欲しいと願う人がいて、そうならなかった事に苦しんでいる。
でもぼくにとってそれは幸せなことだ。ぼくが死んでも、誰もさほど悲しむことはないだろう。ぼくの死はあなたのように人を傷つけない。
それだけぼくには生きる価値がない。あなたは生きる価値を持って生きていた。周りの人に思われて生きてきた日々はあなたにとっては幸せだった」
ぬかるみはじわじわと広がって、石畳を崩し、拓実の足元まで延びていた。
ぞっとして悪寒がし出す。
「おまえは死を知らなすぎるよ。一人の人間の死が、どれだけの悲しみを人に与えるか。それは死を知って初めて気づくんだ。おれも死というものを知らなすぎた。おれが死んで、おれは死の重さに気づいた」
拓実は失った一年を思い出していた。親や周囲の人間が心配していた事も知っている。三つボクロの彼女や親の為に、生きていかなくてはならないことはわかっていた。
「それでもぼくには生きる意味がわからない。ありふれた生活、当り前の毎日、そんな未来を生きるなら、死んでしまいたい。ぼくには憧れの姿として、あなたの存在が映る」
ぬかるみの上の幻影は、未来の憧れだったのか。人から生きていて欲しいと望まれて死んでしまった存在は、何の意味も感じず生きている若者にとっての憧れなのかもしれない。
社会という現実を未来に控えた若者は、幻影に捕らわれたくなっていた。
ぬかるみは若者を捕らえてゆく。
『あの瞬間、ぼくは今度こそ、確実に死ねるのかと考えていた。幻影の怒りを買って、ぼくは死に誘われたものだと感じ、ほっとしていた』
ぬかるみは拓実の足を覆い、徐々に体中を宿り木のように包み込んでいった。泥に包まれた体は完全に自由を失っていた。
動くことも声を出すことも出来なくなっていた。
ケヤキの下にあった死体はそのぬかるみの泥に溶け込み、ぬかるみを伝って、拓実を覆い尽くす泥となって体にまとわり付いて姿を現した。
そして、がさついた声で拓実の心に話しかけてきた。
「おれが生きたかったように、おまえの体で生きさせてはくれないか?人は死を知って、初めて生きたいように生きようと思うものなんだよ。おまえが思うほど、おれの人生はよかったものなんかじゃなかった。おれは周りの人間の悲しみよりも、自分の情けなさに悔やんでいる」
「でも、生きたいようになんて生きられるのかな?人は限られた運命の中で、限られた空間に包まれて、生きてゆかなくてはならないものなんじゃないのかな?ぼくの能力、運、環境からしては限られた常識ある生き方しかできないのじゃないのかな?」
現れた泥の幻影は、社会を目の前にして、ありきたりの未来が来る事に諦めている若者を誘い、笑った。
「人は限られた運命の中で生きなくてはならないのか、その可能性を覆せるかどうか賭けるため、その為に生きてみたっていいだろう?
死んだおれが言うんだ。
人生の可能性に賭けるんだ。
何が出来て何が出来ないか、そんなおまえの人生を、おれにも見させてくれないか?」
どうせ未来のない身だったから、拓実はその死体の泥に体を許し、にこりと笑み返した。
すると泥は鼻の穴や耳の穴、口にへそに、あらゆる毛穴から、体の中に入り込み、拓実の中に含まれていってしまった。
『宿られたのか、奪われたのか、奪ったのがぼくなのか、宿られてぼくとなったのか、今のぼくという存在。ぼくは様々なものに含まれて、ぼくになってゆく。そのずっと過去から、いつからか、ぼくは様々な幻影に奪われていた』
遠い過去が記憶に連鎖している。
(つづく)
再接続 5.ケヤキの木の下、ぬかるみの上(1)
古川拓実(こがわたくみ)は1年留年して、大学1年生となった。
東京での一人暮らし。
知り合いはいない。
拓実が高校を1年留年した大学生である事を知る人はいない。
誰も高校の一留なんて考えないから、大学で出会った同級生は皆拓実が一浪だと考えた。だから拓実も話の流れで一浪だと話す事とした。
そこに僅かな壁が生じる。秘密のようになってしまった一留の事や、話したくはない失った1年間の事実が作る周りとの距離。
学生に紛れ込み、楽しんでいるふりをしているかのようだ。
わいわい、がやがや。
楽しくないわけではないけれど、心の芯を包み込むガラスの球体が人との接触を拒んでいた。
人の笑い声に笑い返しているようで、笑っていない。
そこで出会った友人たちは悪い奴らではない。比較的心地よい間柄だ。友人たちは拓実を少し根暗で変わった奴だとくらいに見ていた事だろう。
誰も、拓実の芯には触れてこない。
それはそれで、良かったはずなのに。
東京での一人生活は孤独を深めるような、孤独を包み込むような、苦しみと優しさの両面を持って、拓実に接する。
人混みの中で、行くあても無くよく歩いたものだ。
学生の人混みに触れた一年が過ぎた。
拓実は少しずつ周囲と距離を置き始めるようになる。
そして三年の頃にはいつも一人で歩いていた。
『描いた未来はどこにあったのか。
あの時のぼくの未来を絶望色が包み込んでいた』
どんより暗闇、雨も降らない灰色空、冷たい風、いつの季節かさえ忘れてしまう。
訪れた絶望。
死。
『そう。ぼくは幻想の死に出会い、心臓を抉られた』
石畳の公園、ケヤキの木の根元の土の上に倒れ込んでいた死体の幻影。前日の雨で泥濘(ぬかるみ)となった土の上に転がっていた。
冷たい空気が肌を伝う。
ボロボロに汚れたスーツ姿の腐食した体。
幻影は終っていなかった。ずっと昔に始まった幻の世界が、あの時はまだ確かな姿として残っていた。
拓実はその事を確かな記憶として憶えている。
(つづく)