再接続 24.遥かなる過去の記憶(3)
東京のビル群を歩き回っていた拓実は、ある建物に誘われた。
ずっと忘れていた幻影がその建物に入ってゆくのが見えたのだ。
入口のガラス扉は閉まっていて、引いても押しても開かない。
どうしようかと考えていると、インターフォンのマイクから声がする。
「はい、何か、ご用ですか?」
「え、あ、はい」
慌てて答えると、扉のロックは解除された。
建物に入ると階段が2階、3階へと続いている。
拓実は人のいない階段を2階へと上ってゆく。外は見えず、あたりは壁しかない。壁には何も張ってなく、模様もない。2階へ着いても中の見えない扉が一つあるだけで、表札もない。
扉は閉まっている。3階へと上る。同じく表札のない扉がある。扉は閉まっていて開かない。
4階か5階まで続いている。
さらに上る。
4階の扉を引くと、やはり閉まっている。だけどガタンと鳴った音に反応して、中から人の声がする。
コンコンとノックすると、ドアは開いた。
中から髭を生やし、メガネを掛けた40歳くらいの男が顔を出した。
「あ、すみません」と、拓実は思わず謝った。
「どうしてここに来たのかな?」と、男は尋ねてくる。
「いや、その」
『建物に入ってゆく幻想を見て追ってきた』なんて言えない。
「まあいい、入りな」
男は気軽な感じで拓実を部屋に招き入れる。
部屋の中は閑散としているが、机やイス、小さなベッドに、リクライニングシートがあり、個人のマッサージ店のように見える。
「そこに座って」
男は拓実をリクライニングシートに座らせる。
「ゆったりして」
言われるがままに体をだらんとして楽にする。
「さて、君がここに来た理由だが、君は何かを見た気がして、ここに来たのだろう。その何かが気になって仕方がなかった。それは何だろう?」
リクライニングを軽く倒された状態で、男は横に立って尋ねてくる。
拓実はドキリとした。自分の行動を見ていたというより、自分の脳の中に入り込まれたかのような恥ずかしい気持ちにさせられた。
そこまで当てられたら答えないわけにはいかない。
「そうです。僕はここに入る誰かが気になって、その姿を追って、ここに入りました」
「ふん、やはりそうか。君はその何かを昔から見るのか?」
拓実は少し迷う。何かと言われると微妙だし、いつからかと言われるとよくわからない。
答えずにいると、男が先に話し出す。
「まあいい。ただ、君は今、ずっと何かを求めている。それは、遥か昔から求めていたもの。君はそれが何なのかを知らないとならない。そうしないと何を求めているのか、わからないままに君はそれを追い続けないとならない」
ずばりその通りだった。その男が何者なのかはわからないが、男の言う事は拓実の考えている事と一致していた。
自分が求めているものが何なのか、それが本当は百合恵ではない事も薄々気づいていた。ただ求めなくてはならない何かを、人として置き換えた時に百合恵がいただけだから。
「そうです。確かにあなたと言う通りです」
と、拓実は答える。
「じゃあ、遥か過去に帰ろう。昔から君が追い続けているものに出会おう。君にはその必要がある」
男がそう言う。
そして拓実は遥か過去に誘われていった。
(つづく)
再接続 23.遥かなる過去の記憶(2)
幻想の終りを求めて、東京のビル群に吸い込まれる。
人工の建物に囲まれた公園で、人の手に植えられた木々がすくすくと育っていた。
東京を探し回ったけれど、百合恵の姿はどこにもない。
東から西まで、これが東京という大都市なのか。一ところにまとまることのない大都会は一人の人間の存在を完全に消し去ってしまう。
東京、新宿、渋谷、有楽町、人は溢れていて、一人の人は米粒一粒のように何の意味も持たない。
「命とは、何の意味も持たないものだろうか」
疑問の声が小さな呟きになって現れる。声は人々の足音に消されてゆく。
百合恵は幻の旅の終りにいて、現実の東京にいるはずだ。彼女がこの世界にいる事は拓実にとっての現実そのものだと信じている。
でも、彼女は拓実の前から姿を消して、二度と彼の前に姿を現すことはない。
東京に暮らし始め、休みのたびに拓実は駅から駅へと求め歩く。池袋、上野、銀座、六本木、でも、百合恵と再会することはない。
ふと再会したのは、幻の旅で会った別の女の子。その子は地下鉄の出口で光のシルエットを作っている。
「こんにちは。あなたにまた逢えて嬉しいな」と、その子は言う。
「きみはぼくに、確か、たくさんの幸運を与えてくれた」
「いいえ。あなたがわたしにたくさんの楽しみをくれた」
この東京の米粒みたいな二人をいったい何が結びつけたというのだろう。遠い過去の繋がりは二人を呼び寄せる力があったのだろうか。
唯という、その背の低い女の子は、拓実より9も若い女の子だった。現実的に29と20の歳の差は、とても大きな差がある気がした。彼女の声は拓実に足りない。
拓実にとって、幻想の終りに立っているのはあくまで百合恵であると考えていた。
一方的な愛、他方的な愛、例えば愛があったとしても結び合うものが足りなければ、二つの線が結ばれることはない。
「実は、ぼくは探しものをしているのだけれど、きみはそれを知らないだろうか」
拓実は唯に尋ねる。
「ここにあるものがあなたの探しているものではなかったの?」
「いや、そうじゃないはずだよ」
「そう、じゃあ、残念ね。わたしはあなたに何もあげられない」
唯はシルエットのまま、拓実の前から姿を消した。
そしてそこには何も残らなかった。
『ぼくは思うんだ。いつも現実に惑わされていたのは、ぼくの方だ。幻想のような現実を避けずに、現実を受け入れることができたなら、幻想は終り、現実が見つかったことだろう』
世界はいつも幻想のような現実に溢れている。誰かの幻想に気づいて触れ合えば、そこに現実は生まれるだろう。
(つづく)
再接続 22.遥かなる過去の記憶(1)
「あなたは生まれてくるずっと前の事を覚えている?記憶は定かではないかもしれない。言語も定まらないし、文字も読めない。はるか遠い過去の事なんて、人はすぐに忘れてしまうわ。でも、確かにあったはずなの。その過去があなたにも、わたしにも」
「ぼくときみは、遠い過去で繋がり合えていたのかな?それとも今この場で繋がり合えているだけなのかな?いつの知らない人たちに囲まれてばかりいる気がする。ここは初めて住む知らない人ばかりが住む島だ」
「はるか遠い過去に繋がっていた人でも、はるか昔はみんな知らない人同士だったのよ。みんな知らない人同士で、知っていても、仲が良かったわけじゃないかもしれない。みんな孤独。過去も未来も、人はずっと孤独。あなたが望む過去は誤りで、どこにもそんなものはない」
「そうかな?ぼくはそう思わない。いや、きみの言う通りであっても、過去が知りたい。過去に出会いたい。過ぎ去った過去と再び繋がり合いたい。今の世でも、前の世でも」
「あなたはわたしの知り合い?ずっと前の世で?とっても親しかった?あなたが一方的に好意を持っていただけ?今も?これからも?一方的に好意を持ったり、持たれたり」
「はるか昔から、一番好きだった人に、もう一度出逢うこともできるかな?」
「あなたにとって、それがお婆さんであっても、男であっても、愛する事はできるの?」
「密かな想いはあるかもしれない。もし、ずっと過去に最も愛した女性であったのなら。でも今、ぼくの周りにそんな人はいない」
「じゃあ、わたしはあなたにとって、だあれ?」
「きみは昔のぼくのお母さん。今は一つ歳の違う女の子」
「なんだ。じゃあ、わたしはあなたが、とっても愛していた人ではないのね」
「いや、とても、愛していた。愛していた、お母さん」
29の春に、拓実は前世のお母さんに出会った。彼女はそれを認めなかったけれど、拓実はずっと昔から知っている人だと、その人の事を思っていた。
春なのに夏のような印象を持つ、その女性との関係は長い期間にはならなかった。百合恵(ゆりえ)という名前のその女性は東京の洋服屋で働く、拓実の一歳年下の女性だった。
『あの時、ぼくは彼女に幻想の終りを求めていた。幻想と現実が繋がって、そうすれば幻想が終って現実が始まるはずだと信じていた』
(つづく)
再接続 21.幻想に散ずる(4)
夏の始まりにはまだ早い海だった。
海の家の完成にはまだ早いが、半袖で過ごしてちょうどいい暑い一日、拓実は前髪の長い19の少女と海までやってきていた。
家族や学校の遠足以外でこんな風に住んでいる町を離れて海までやってくる事は今までに一度としてなく、感情はふわりと浮いているかのように落ち着かない。
「ねえ、海に行きたいの。一緒に来てくれてもいい?今度の日曜日、1時に駅の改札口で待っているから」
拓実の断ろうとする声も聞かず、彼女はそう言って別れていった。
その数日後の日曜日、電車にガタゴトと揺られて海までやってきた。
それは町からは遠い海で、拓実が知っている浜辺とは異なっていた。波の荒い海で、泳ぐには危険なように見えた。
砂浜までは下りずに、コンクリートの堤防に足をぶらぶらさせて座ってた。
『ぼくはあの時、あの人と何を話したことだろう。彼女は何かを話していた。ぼくについてあれやこれやと聞いていたのかもしれない。そっけない返事をして、彼女はまた別の質問をする。そんな事を繰り返していたにちがいない』
「ここの海は初めてだよ」
そんな風に拓実は答えていたことだろう。
「暑いね」
「そうですね」
きっとごく当り前に会話は、単調に続けられていて、どこかで少女が切り出した。もう夕暮れも迫っている感じがするような空を下に、彼女が言う。
「わたしね、付き合っている男の人がいたんだ」
拓実は何も答えず、黙って少女の声を耳にしていた。だから少女の声が続く。
「彼はこの海が好きで、いつもサーフィンをしに来ていた。でもわたしは知らないんだ。海も好きじゃなかったし、遠くまで来ようとも思わなかった。だから彼とはいつも街でデートしてた。映画を観たり、おいしいものを食べたりしてね。でも、友人が私に教えてくれた。彼には別に付き合っている女の人がいるって、その人と海に行って、サーフィンをするんだって」
19の少女は声を詰まらせた。心臓がバクバクしてくるのを拓実は感じていた。人の話なのに、隣に座る女性の胸の傷みを強く感じる。
「でもね。わたしは彼に聞けなかった。そんな人がいるの?なんて、聞けなかった。だからいつもニコニコ笑っている彼をただ見ていた。でも胸が苦しくて、つらくて、きっと聞かないとダメなんだと思っていたの」
突如冷たい海風が吹き出して、砂埃が二人の顔にあたってきた。彼女の前髪は強く吹かれておでこが出るまでに後ろに吹かれていた。
可愛らしい顔だな、と拓実は思った。
「彼に聞こうと思った。聞かないといけないと思って、彼に会うことを考えたの」
今度は先ほどまでの風が嘘のようにおさまって、静かな浜辺へと変わる。
「彼は死んでしまったの。この海で、波にさらわれて、死んじゃった」
そして少女は大学を辞めた。住んでいた街も引っ越して、実家のある町へと戻った。そして雷に撃たれて、誰かに会うのを待っていた。
「彼にはね、別の彼女がいたんだと思う。でもね、わたしは聞きたかった。『私の事を好きだったの?』ただその事だけが知りたかった」
『あの時ぼくは、とてもばかばかしい話をされている気がした。別の女を作るような男に自分が好きかって聞くなんて、なんてばかばかしいんだろう、って思ったんだ』
「ありがとう」
19歳の前髪の長い少女は拓実にそう言って、泣いて、微笑んだ。
拓実には何も答えていない自分にどうして「ありがとう」と言ったのかわからなかったけれど、そのお礼を素直に受け取った。
その後の事は定かでないが、拓実は一人電車の中にいた。暗い夜の電車に揺られて家まで帰って行った。そしてそれ以降、その少女に会うことはなかった。
幻の出来事のように、当時の思い出は曖昧だ。
『でも確かに、ぼくの記憶が残っている。きっと彼女はどこかに生きていて、その記憶を共有しているにちがいない。忘れてしまっただろうか。多くの事は忘れてしまっても構わない。ぼくはこの記憶を何の為に使おうというのだろう。こんな記憶が何の役に立つというのだろう?』
からみ合った線と線がほどけない。過去の一部で繋がって、また別の方向へと伸びてゆく。そしてまた別の線とぶつかり合って、からまる。記憶を辿る。広々とした過去の闇の中に、瞬く光が拓実をまた別の過去へと連れ去っていた。
(つづく)
再接続 20.幻想に散ずる(3)
喫茶店で会った女は20歳になる前の19歳で、レディーというにはまだ早いガールであったが、中学3年生の男の子である拓実には十分に大人の女性であった。
「見えるんだね」
彼女は拓実にそう話しかけて近づいてきた。
長い間、拓実はその言葉を返さず、ただ女性の方を見ていた。前髪が長く、目に掛かって見えないくらいまであって、口が横ににっこりと広がっていて、鼻がポチャンと小さい感じの、丸顔の女性だった。背は低く、全体的に小さいイメージだ。
『返す言葉が見つからなかったんだ』
遠い未来で、拓実はその時の事を思い返していた。女性の顔もおぼろなイメージだ。
『返す言葉はきっとなく、ただ女性の次の言葉を待っていたに違いない』
「来て」
彼女はきっとそう誘ってきた。
喫茶店を出ていく彼女、拓実はその後ろを追う。急な出来事のように。
外は今にも雨が降り出しそうだったけど、雨は降っていなかった。
雨が降っていたのは絵の中の世界だけで、現実は喫茶店に入る前も後も、ずっと曇り空のまま。来た道を同じように戻っていく。そして川沿いの土手に出る。
土手の上で、南風に吹かれて、彼女はじっと立ったまま。川向うにある森が見える。冷たい風が吹いている。
冷たい、冷たい、強い風。もうすぐ雨も降りだす。
さっと稲光が西方の森の向こうで輝いた。
「ねえ、雷に撃たれたことはある?」
拓実は首を横に振る。
前髪の長い女性はその髪の間から除く目で拓実を見つめる。
「そう。じゃあ、違うのね」彼女は言う。「私はね。雷に撃たれたの。この川原で、強い、雷が降ってきて、ぶつかった。そして天国に行くかと思ったんだけど、私はなんともなかったの。救急車も必要なかった。誰もいないところで、私は一人。だから夢だったかもしれない。ただそれから私はこうなったの。雨の中にずっと一人、静かに迎えに来てくれる人を待っているの」
しばらく黙っていた。沈黙が続く。彼女も話し出さない。
拓実は重い口を開く。
「違う。君に会いたかったわけじゃない」
『あの時、確かにもう会わないはずだった』
その女性には大きな隔たりがあると、少年ながらになんとなく感じていた拓実は距離を置こうとしていたのだけど、そうはいかなかった。
「せっかく会ったのよ。これはきっと運命なのよ。わたしも君みたいな子が来るとは思わなかった。何を待っていたのかもわからない。でも、長い間待っていて、君が来た」
それからどんな時間を送ったことだろう。やがて雨が降り出して、彼女は言った。
「また会いましょ」
拓実はその誘いを断れなかった。そしてその約束をした頃には、互いはよりにこやかに話せていた。ほんのわずかな時間だったはずなのに。
(つづく)