メキシコ回想記28.オアハカ(イエルベエルアグア)
プエルトエスコンディードからオアハカへは飛行機で飛んだ。
8~10人乗りくらいの小型のプロペラ飛行機だった。天気はよく、風もなく、よい飛行日和だ。飛行機で移動、というよりは、軽いアトラクション気分だ。
小型の飛行機は軽いので、ジャンボの飛ぶ瞬間の、嫌なGもかからずふわっと浮き上がるように飛ぶ。
プエルトエスコンディードの海辺からオアハカの山地までは1,500mくらいの高低差がある。ジャンボなら何の問題もない高さだが、プロペラ機はそこまで高くは飛べず、飛び出すと徐々に山が迫ってくる。ここまま突き進むと山にぶつかるんじゃないか?というような景色を眺めながら、10人程度の乗客と一緒の運命を辿る。このまま墜落すれば、乗客に日本人が含まれていた模様、と日本で報じられるかもしれない。
でもまあそんな事もなく、遊覧飛行を楽しむかのように(ちなみに一人の乗客は副操縦席に座っていた)、オアハカの空港に到着した。
空港からは、乗客みんなで同じ小型バスに乗って、街の中心まで移動した。
ここでもまた、ユースホステルを使うこととした。
オアハカのユースホステルは綺麗で新しかった。ベッドも新しく、小さな庭があったり、ラウンジがあったり、生活はしやすそうな感じだった。
ただ、ここでも僕にはこれといった出会いはなく、求めていたものはなかった。アメリカ人の観光客ばかりだ。
その日は朝一の飛行機で、着いてからは一日が終るまでは時間があったので街を散策した。サントドミンゴ教会は内部が黄金であしらわれていて、とても神々しかった。そのほかも幾つかの場所に行ったがあまり覚えていない。
その日は暑かったのでかき氷を食べたら、また腹を壊した。やはり正露丸は効かない。
髪が伸びていて暑苦しさを感じた。思い切ってメキシコの理容店に行った。
「短く!」と言って、とりあえず適当に切ってもらった。
予想通り前髪を揃えられ、坊ちゃんがりみたいな感じの変な髪形に仕上がった。周りの客を観るとみんな同じような髪形で、ここで僕はすっかりメキシコ人の仲間入りとなった。もはや、ただの観光客とは一線引かれた感じだ。
翌日は、イエルベエルアグアという石灰岩の流線型の地形をした台地に行ってみることとした。
タスコ以来は何だかダラダラ過ごす日々が続いて観光らしい観光もしていなかった。
『何もすることがなく、考える時間が増えすぎたのかもしれない。観光していると気が間切れる』そんな風に感じていた。
オアハカの2等バスターミナル。とても汚い。トイレは便器にあれがてんこ盛りだし、流れない。ハエがぶんぶん飛んでいて、とにかくそういうイメージだ。
オアハカは貧乏な人が多いようだが、メキシコシティや他の観光地と比べ、貧富の差を感じない。全体的に貧乏人が多いせいかもしれない。
みんな貧乏なら妬みや僻みもなく、暮らしていけるのかもしれない。貧富の差がなければ、世界は幸せなのかもしれない。そんな風に思える。
今、日本でも格差社会になっている。贅沢に暮らせる人もいれば、毎日我慢して暮らしている人もいる。高給取りもいれば、どんなに働いても暮らしていくのがやっとの人もいる。その両方が共存している。そこに歪みが生じる。なんだか人の心を歪ませているみたいだ。いっそみんな貧乏ならまだいいのかもしれない。ふと、そんな事を思う。
それはそれとして、オアハカの2等バスターミナルから2時間掛けて、イエルベエルアグアに向かう。バスは一日一便で、もはやツアーバスみたいなものだ。
だがバスはボロい。結構揺れる。
20人くらいの乗客と一緒にイエルベエルアグアに向かう。途中で降りるメキシコ人もいるが、外国人はみな観光客だ。ドイツ人女性4人組と何組かのアメリカ人カップルや夫婦。一人なのは僕だけだ。
イエルベエルアグアは広大な平野の上にある。石灰質の滑らかな岩石が鍾乳洞の氷柱のように垂れている。
巨大な石灰の塊の上に、僕らは観光客は立っていた。
そこからはサボテンの森が広がる平野が見渡せる。溶けた石灰質が大きなくぼみになっている部分は水が溜まっていて、天然のプールのようになっている。現地の高校生がそこで泳いで遊んでいた。
水着の準備もしていなかったし、少し寒かった気もするから、僕は泳がなかったけど。
だから僕はとにかくその広大な石灰質の岩石を歩いた。石灰岩の断崖から下に下りて、サボテンの拡がる平野を歩いたり、断崖の下から大きな氷柱のような岩壁を眺めた。
数時間そこで過ごし、バスの出発時間が来て、また来た道を戻った。
ガタガタ揺られながら。またバスで帰る。
その日も僕は一人だったが、でも観光を楽しんで、少しは気分が上向いた。
余計な事は考えなくていい。観光をしよう。何しにメキシコに来たか、その事を考えるのを止めて、日々を楽しむこととする僕がいた。
2005年1月14日、僕はオアハカでメキシコ人のようになって、観光客に混じって遊ぶこととした。
8~10人乗りくらいの小型のプロペラ飛行機だった。天気はよく、風もなく、よい飛行日和だ。飛行機で移動、というよりは、軽いアトラクション気分だ。
小型の飛行機は軽いので、ジャンボの飛ぶ瞬間の、嫌なGもかからずふわっと浮き上がるように飛ぶ。
プエルトエスコンディードの海辺からオアハカの山地までは1,500mくらいの高低差がある。ジャンボなら何の問題もない高さだが、プロペラ機はそこまで高くは飛べず、飛び出すと徐々に山が迫ってくる。ここまま突き進むと山にぶつかるんじゃないか?というような景色を眺めながら、10人程度の乗客と一緒の運命を辿る。このまま墜落すれば、乗客に日本人が含まれていた模様、と日本で報じられるかもしれない。
でもまあそんな事もなく、遊覧飛行を楽しむかのように(ちなみに一人の乗客は副操縦席に座っていた)、オアハカの空港に到着した。
空港からは、乗客みんなで同じ小型バスに乗って、街の中心まで移動した。
ここでもまた、ユースホステルを使うこととした。
オアハカのユースホステルは綺麗で新しかった。ベッドも新しく、小さな庭があったり、ラウンジがあったり、生活はしやすそうな感じだった。
ただ、ここでも僕にはこれといった出会いはなく、求めていたものはなかった。アメリカ人の観光客ばかりだ。
その日は朝一の飛行機で、着いてからは一日が終るまでは時間があったので街を散策した。サントドミンゴ教会は内部が黄金であしらわれていて、とても神々しかった。そのほかも幾つかの場所に行ったがあまり覚えていない。
その日は暑かったのでかき氷を食べたら、また腹を壊した。やはり正露丸は効かない。
髪が伸びていて暑苦しさを感じた。思い切ってメキシコの理容店に行った。
「短く!」と言って、とりあえず適当に切ってもらった。
予想通り前髪を揃えられ、坊ちゃんがりみたいな感じの変な髪形に仕上がった。周りの客を観るとみんな同じような髪形で、ここで僕はすっかりメキシコ人の仲間入りとなった。もはや、ただの観光客とは一線引かれた感じだ。
翌日は、イエルベエルアグアという石灰岩の流線型の地形をした台地に行ってみることとした。
タスコ以来は何だかダラダラ過ごす日々が続いて観光らしい観光もしていなかった。
『何もすることがなく、考える時間が増えすぎたのかもしれない。観光していると気が間切れる』そんな風に感じていた。
オアハカの2等バスターミナル。とても汚い。トイレは便器にあれがてんこ盛りだし、流れない。ハエがぶんぶん飛んでいて、とにかくそういうイメージだ。
オアハカは貧乏な人が多いようだが、メキシコシティや他の観光地と比べ、貧富の差を感じない。全体的に貧乏人が多いせいかもしれない。
みんな貧乏なら妬みや僻みもなく、暮らしていけるのかもしれない。貧富の差がなければ、世界は幸せなのかもしれない。そんな風に思える。
今、日本でも格差社会になっている。贅沢に暮らせる人もいれば、毎日我慢して暮らしている人もいる。高給取りもいれば、どんなに働いても暮らしていくのがやっとの人もいる。その両方が共存している。そこに歪みが生じる。なんだか人の心を歪ませているみたいだ。いっそみんな貧乏ならまだいいのかもしれない。ふと、そんな事を思う。
それはそれとして、オアハカの2等バスターミナルから2時間掛けて、イエルベエルアグアに向かう。バスは一日一便で、もはやツアーバスみたいなものだ。
だがバスはボロい。結構揺れる。
20人くらいの乗客と一緒にイエルベエルアグアに向かう。途中で降りるメキシコ人もいるが、外国人はみな観光客だ。ドイツ人女性4人組と何組かのアメリカ人カップルや夫婦。一人なのは僕だけだ。
イエルベエルアグアは広大な平野の上にある。石灰質の滑らかな岩石が鍾乳洞の氷柱のように垂れている。
巨大な石灰の塊の上に、僕らは観光客は立っていた。
そこからはサボテンの森が広がる平野が見渡せる。溶けた石灰質が大きなくぼみになっている部分は水が溜まっていて、天然のプールのようになっている。現地の高校生がそこで泳いで遊んでいた。
水着の準備もしていなかったし、少し寒かった気もするから、僕は泳がなかったけど。
だから僕はとにかくその広大な石灰質の岩石を歩いた。石灰岩の断崖から下に下りて、サボテンの拡がる平野を歩いたり、断崖の下から大きな氷柱のような岩壁を眺めた。
数時間そこで過ごし、バスの出発時間が来て、また来た道を戻った。
ガタガタ揺られながら。またバスで帰る。
その日も僕は一人だったが、でも観光を楽しんで、少しは気分が上向いた。
余計な事は考えなくていい。観光をしよう。何しにメキシコに来たか、その事を考えるのを止めて、日々を楽しむこととする僕がいた。
2005年1月14日、僕はオアハカでメキシコ人のようになって、観光客に混じって遊ぶこととした。
メキシコ回想記27.プエルトエスコンディード
プエルトエスコンディードはサーファーの街として知られる。
とても長いビーチがあり、シカテラ・ビーチにはたくさんのサーフボードに乗ったサーファーが浮かんでいる。
もちろん、僕はサーフィンに興味があったわけではない。この街に来た理由は、プエルトアンヘルからオアハカという歴史都市に行くための経由地としてだけの理由だ。
オアハカ行きの飛行機が出ていて、ここは一気に飛行機でワープすることとした。
しかし慌てていく事もないし、航空券を買っても一日一便しか出ていないので、プエルトエスコンディードで2泊することとした。お腹の調子が悪かったこともある。
2005年1月11日。旅の終りまではあとおよそ1カ月になっていた。折り返し地点も過ぎ、僕は残りの日々を考えていた。
『誰かに出逢うための旅は誰にも出逢えないまま過ぎてゆく。これから先の旅を考える。でもどこへ行くかなんて、ほとんどどうでも良い。この先、どんな遺跡に行こうと意味がない。そんな観光をするために、僕はメキシコに来たわけではない。もっと運命的な出会いを求めていたからだ。このまま終わっていいのだろうか?』
プエルトエスコンディードのユースホステルに一泊する事とした。
日本人はいなかった。ただ、前日にプエルトアンヘルのシュノーケリングで会ったカーニーに再会した。でも、再び挨拶をしただけだった。彼女とのその偶然の再会は特別なものとはならず、終った。
浜辺で、魚フライのハンバーガーを食べた。これはおいしかった。
ココナッツを割ったやつを飲んだ。これはあまりおいしくなかった。見た目だけだ。
小さな観光を楽しむ。
でも僕はいつもながら独りだった。
ふと思えば、日本にいても、僕はだいたい一人だった。
友達も少ない。気の合う友人は高校時代の友人くらいで、その後の知り合いとは希薄なものだ。社会人になるとさらにそうだ。日本にいてもそうなのだから、メキシコに来て、急に特別な出逢いが増えるわけでもない。
社交的な人間でなければ、やはり出逢いは薄い。まして文化も習慣も違う海外で、言葉もままならず、誰かと仲良くなることなどない。
でも同時に、これが自分だと感じた。
アイデンティティーを感じた。社交的ではなく、一人旅をしながら、あれこれと悩み考えて行動している自分が自分らしい。
メキシコ人は明るく見える。プエルトアンヘルでシュノーケリングの案内をしてくれた若者も明るかった。ボートの上からイルカを呼ぶため口笛を吹く。いつもの生活をして、楽しく過ごしている。メキシコ人だから?いや、日本でも明るい人は明るい。
でも、少し大人しく優しいイメージ。それが日本人らしい気もする。
僕は日本人だ。
ありのまま、残りの旅を続けよう。
異国の異質な場所にあり、自分という存在について考えていた。
それでも僕は旅にも出るし、新しい何かを求めていた。
翌日1月12日はプエルトエスコンディードでのんびり過ごした。
長く続くシカテラの海岸をずっと歩いた。
日本人の経営する寿司屋があったので、そこへ立ち寄った。
店員は、「日本人の経営者は今日は出かけていない」と言った。残念ながら日本人と出逢い、そして会話を楽しむことはできなかった。
寿司は握りすぎで、しょっぱかった。日本人が経営しているからと言って、なかなか日本のような寿司が出てくるわけでもない。
シカテラのビーチに夕陽が沈むまで、ずっといった。
太平洋の海辺に沈む夕陽。
日本とは反対側だ。
海辺にもう一つの世界への入口ができたかのように、夕陽は海辺に大きく浮かんでいた。
太陽は不思議と青くも見えた。
深い青の海で、空も深い青に変わる。星が輝く。
もうすぐ夜になる。
僕はユースホステルに帰った。
プエルトエスコンディードの時間は深く考える時間だった。ただそこに答えはなかった。旅はまだ途中だ。答えが出るにはまだ早いのだろう。
翌朝は朝一に、飛行機で内陸のオアハカに向かう。静かな海辺での時間が流れた。太平洋とも暫くお別れた。
とても長いビーチがあり、シカテラ・ビーチにはたくさんのサーフボードに乗ったサーファーが浮かんでいる。
もちろん、僕はサーフィンに興味があったわけではない。この街に来た理由は、プエルトアンヘルからオアハカという歴史都市に行くための経由地としてだけの理由だ。
オアハカ行きの飛行機が出ていて、ここは一気に飛行機でワープすることとした。
しかし慌てていく事もないし、航空券を買っても一日一便しか出ていないので、プエルトエスコンディードで2泊することとした。お腹の調子が悪かったこともある。
2005年1月11日。旅の終りまではあとおよそ1カ月になっていた。折り返し地点も過ぎ、僕は残りの日々を考えていた。
『誰かに出逢うための旅は誰にも出逢えないまま過ぎてゆく。これから先の旅を考える。でもどこへ行くかなんて、ほとんどどうでも良い。この先、どんな遺跡に行こうと意味がない。そんな観光をするために、僕はメキシコに来たわけではない。もっと運命的な出会いを求めていたからだ。このまま終わっていいのだろうか?』
プエルトエスコンディードのユースホステルに一泊する事とした。
日本人はいなかった。ただ、前日にプエルトアンヘルのシュノーケリングで会ったカーニーに再会した。でも、再び挨拶をしただけだった。彼女とのその偶然の再会は特別なものとはならず、終った。
浜辺で、魚フライのハンバーガーを食べた。これはおいしかった。
ココナッツを割ったやつを飲んだ。これはあまりおいしくなかった。見た目だけだ。
小さな観光を楽しむ。
でも僕はいつもながら独りだった。
ふと思えば、日本にいても、僕はだいたい一人だった。
友達も少ない。気の合う友人は高校時代の友人くらいで、その後の知り合いとは希薄なものだ。社会人になるとさらにそうだ。日本にいてもそうなのだから、メキシコに来て、急に特別な出逢いが増えるわけでもない。
社交的な人間でなければ、やはり出逢いは薄い。まして文化も習慣も違う海外で、言葉もままならず、誰かと仲良くなることなどない。
でも同時に、これが自分だと感じた。
アイデンティティーを感じた。社交的ではなく、一人旅をしながら、あれこれと悩み考えて行動している自分が自分らしい。
メキシコ人は明るく見える。プエルトアンヘルでシュノーケリングの案内をしてくれた若者も明るかった。ボートの上からイルカを呼ぶため口笛を吹く。いつもの生活をして、楽しく過ごしている。メキシコ人だから?いや、日本でも明るい人は明るい。
でも、少し大人しく優しいイメージ。それが日本人らしい気もする。
僕は日本人だ。
ありのまま、残りの旅を続けよう。
異国の異質な場所にあり、自分という存在について考えていた。
それでも僕は旅にも出るし、新しい何かを求めていた。
翌日1月12日はプエルトエスコンディードでのんびり過ごした。
長く続くシカテラの海岸をずっと歩いた。
日本人の経営する寿司屋があったので、そこへ立ち寄った。
店員は、「日本人の経営者は今日は出かけていない」と言った。残念ながら日本人と出逢い、そして会話を楽しむことはできなかった。
寿司は握りすぎで、しょっぱかった。日本人が経営しているからと言って、なかなか日本のような寿司が出てくるわけでもない。
シカテラのビーチに夕陽が沈むまで、ずっといった。
太平洋の海辺に沈む夕陽。
日本とは反対側だ。
海辺にもう一つの世界への入口ができたかのように、夕陽は海辺に大きく浮かんでいた。
太陽は不思議と青くも見えた。
深い青の海で、空も深い青に変わる。星が輝く。
もうすぐ夜になる。
僕はユースホステルに帰った。
プエルトエスコンディードの時間は深く考える時間だった。ただそこに答えはなかった。旅はまだ途中だ。答えが出るにはまだ早いのだろう。
翌朝は朝一に、飛行機で内陸のオアハカに向かう。静かな海辺での時間が流れた。太平洋とも暫くお別れた。
メキシコ回想記26.プエルトアンヘル
アカプルコに下ってから、そのまま夜行のバスに乗って、プエルトアンエルへと向かった。
旅にはだいぶ疲れていた。
僕は、何のために、メキシコに来たのだろう?
タスコで過ごした銀細工探しの楽しみも忘れ、また不快な気持ちに溢れていた。
バスの旅に疲れもあったかもしれない。
暗い中で、バスは揺れていた。悪路ではないが、メキシコシティ周辺の道路に比べれば、綺麗な道ではない。暗闇の中、狭いバスの座席で眠りながら、南下してゆくバスに身をゆだねていた。
プエルトアンヘル。日本語にすると、天使の港。ずっと旅をしていた中で、人口の少ない小さな村だ。
山地を下りてきたところから、気温はグンと上昇した。タスコまでは温かくても20度に満たない温度だったが、ここでは30度近い気温になっている。湿度は高くないので暑いというほどではないが、半袖でちょうどいい。
人の少ない村の宿に行く。
海岸を望む高台の宿からはプエルトアンヘルの小さなビーチが見渡せる。数部屋しかない宿は1階建てで横並びになっていて、各部屋の入口の前の小さなラウンジにはハンモックが吊るされてる。
部屋の中は暗くベッドが置かれているだけだが、このハンモックで過ごすことを考えれば、部屋の中に寛ぐ空間は無くても良い。
ここでは何も考えずに過ごそう。
そうでなくてもやることなんてない。ビーチで過ごすしかないような場所だ。
2005年1月8日から3泊4日、このプエルトアンエルという何もない静かな海辺の村で過ごした。タクシーを使って少し行けば、ウミガメの産卵地、ヌーディストビーチなんてのもあったけど、その時に僕には何の興味もなく、ただのんびり過ごしたかった。
1月8日は直ぐに過ぎて行って、9日もビーチへ行って、海の家みたいなところで魚のホイル焼きを食べたくらいしか覚えていない。後はハンモックでダラダラ過ごしていた。
1月10日は、シュノーケリングをした。現地のガイドに、アメリカ人の4人くらいの観光客と一緒になった。おじさんたちの中に一人だけ若い女の子がいた。
「ハーイ、アイム、カーニー」と彼女は名乗った。
カーニーは日本人の僕に少し興味を持っているようだったが、他のおじさんたちとは一切かかわらなかった。彼女とも挨拶程度で、大した話はしていない。
プエルトアンヘルの海は青く、広かった。
ガイドのお兄さんは、僕たちをボートに乗せて、浜辺から人のいないビーチへと20分程度の船旅をして運んでくれた。
途中、イルカが現れ、海をはねていた。ウミガメもいて、海面に顔を出し、ぼぉっと過ごしていた。海にいる生き物は何だか楽しそうに過ごしていた。
肝心のシュノーケルは海が汚れていて、ソーバッドだった。その日が悪かったのか、常にこの辺りは汚いのか、定かではないが、海面の綺麗な青い海に比べて、海中は砂埃で小さな魚くらいしか見えなかった。
無人のビーチで1時間ほど過ごして帰った。
それ自体は楽しい時間だった。
その村では静かな時間を送れたが、のんびり過ごす中、気は休まったが、旅の意味はより不明になっていった。
なぜ旅をするのか?
この旅を運命の旅としていたが、コルテスとモクテスマのような運命はなく、僕は独り、ただ漂っていた。
一人旅をすると視野が広がる。世界を観ると日本の狭い世界での考え方が小さく思える。だから旅をすることには意味がある。
それに強烈な印象の残る思い出もできる。人生の中で、旅をした記憶は深く残る。
それから自由を感じられる。仕事で縛られて過ごす単調な毎日を忘れられる。
でも、その時の僕は、この旅を最後に一人旅はもう二度としないようにしようと結論付けていた。
『旅は孤独で、寂しい。これからは、旅をするにしても、誰かと一緒に旅をしたい。世の中にはいつまでも何度も旅をする人がいるが、僕はそうはならない
運命なんてものはないのだ。その事は、アメリカに着いた時からわかっていた。後はゴールに向けて、ただ日々を過ごすだけだ』
旅もまだ半分だったけど、僕はそう旅の結論付けをしていた。
最終日にはお腹を壊した。
屋台でタコスと一緒に頼んだ、アグア(味と色の付いた水)が良くなったのだろう。
メキシコの食当たりには、正露丸も効かない。きっとその国の食当たりにはその国に合う薬があるのかもしれないが、僕はこの後、一週間ほど、水のような便が続いた。ただ、お腹はあまり痛くなかったので、寝込んで過ごすようなことも無かったので、そのまま旅を続けた。
2004年1月11日、プエルトアンヘルでの休息が終る。
旅にはだいぶ疲れていた。
僕は、何のために、メキシコに来たのだろう?
タスコで過ごした銀細工探しの楽しみも忘れ、また不快な気持ちに溢れていた。
バスの旅に疲れもあったかもしれない。
暗い中で、バスは揺れていた。悪路ではないが、メキシコシティ周辺の道路に比べれば、綺麗な道ではない。暗闇の中、狭いバスの座席で眠りながら、南下してゆくバスに身をゆだねていた。
プエルトアンヘル。日本語にすると、天使の港。ずっと旅をしていた中で、人口の少ない小さな村だ。
山地を下りてきたところから、気温はグンと上昇した。タスコまでは温かくても20度に満たない温度だったが、ここでは30度近い気温になっている。湿度は高くないので暑いというほどではないが、半袖でちょうどいい。
人の少ない村の宿に行く。
海岸を望む高台の宿からはプエルトアンヘルの小さなビーチが見渡せる。数部屋しかない宿は1階建てで横並びになっていて、各部屋の入口の前の小さなラウンジにはハンモックが吊るされてる。
部屋の中は暗くベッドが置かれているだけだが、このハンモックで過ごすことを考えれば、部屋の中に寛ぐ空間は無くても良い。
ここでは何も考えずに過ごそう。
そうでなくてもやることなんてない。ビーチで過ごすしかないような場所だ。
2005年1月8日から3泊4日、このプエルトアンエルという何もない静かな海辺の村で過ごした。タクシーを使って少し行けば、ウミガメの産卵地、ヌーディストビーチなんてのもあったけど、その時に僕には何の興味もなく、ただのんびり過ごしたかった。
1月8日は直ぐに過ぎて行って、9日もビーチへ行って、海の家みたいなところで魚のホイル焼きを食べたくらいしか覚えていない。後はハンモックでダラダラ過ごしていた。
1月10日は、シュノーケリングをした。現地のガイドに、アメリカ人の4人くらいの観光客と一緒になった。おじさんたちの中に一人だけ若い女の子がいた。
「ハーイ、アイム、カーニー」と彼女は名乗った。
カーニーは日本人の僕に少し興味を持っているようだったが、他のおじさんたちとは一切かかわらなかった。彼女とも挨拶程度で、大した話はしていない。
プエルトアンヘルの海は青く、広かった。
ガイドのお兄さんは、僕たちをボートに乗せて、浜辺から人のいないビーチへと20分程度の船旅をして運んでくれた。
途中、イルカが現れ、海をはねていた。ウミガメもいて、海面に顔を出し、ぼぉっと過ごしていた。海にいる生き物は何だか楽しそうに過ごしていた。
肝心のシュノーケルは海が汚れていて、ソーバッドだった。その日が悪かったのか、常にこの辺りは汚いのか、定かではないが、海面の綺麗な青い海に比べて、海中は砂埃で小さな魚くらいしか見えなかった。
無人のビーチで1時間ほど過ごして帰った。
それ自体は楽しい時間だった。
その村では静かな時間を送れたが、のんびり過ごす中、気は休まったが、旅の意味はより不明になっていった。
なぜ旅をするのか?
この旅を運命の旅としていたが、コルテスとモクテスマのような運命はなく、僕は独り、ただ漂っていた。
一人旅をすると視野が広がる。世界を観ると日本の狭い世界での考え方が小さく思える。だから旅をすることには意味がある。
それに強烈な印象の残る思い出もできる。人生の中で、旅をした記憶は深く残る。
それから自由を感じられる。仕事で縛られて過ごす単調な毎日を忘れられる。
でも、その時の僕は、この旅を最後に一人旅はもう二度としないようにしようと結論付けていた。
『旅は孤独で、寂しい。これからは、旅をするにしても、誰かと一緒に旅をしたい。世の中にはいつまでも何度も旅をする人がいるが、僕はそうはならない
運命なんてものはないのだ。その事は、アメリカに着いた時からわかっていた。後はゴールに向けて、ただ日々を過ごすだけだ』
旅もまだ半分だったけど、僕はそう旅の結論付けをしていた。
最終日にはお腹を壊した。
屋台でタコスと一緒に頼んだ、アグア(味と色の付いた水)が良くなったのだろう。
メキシコの食当たりには、正露丸も効かない。きっとその国の食当たりにはその国に合う薬があるのかもしれないが、僕はこの後、一週間ほど、水のような便が続いた。ただ、お腹はあまり痛くなかったので、寝込んで過ごすようなことも無かったので、そのまま旅を続けた。
2004年1月11日、プエルトアンヘルでの休息が終る。
メキシコ回想記25.銀の街タスコ
2005年1月5日、クエルナバカを出て、タスコという銀山の街までやってきた。
街は山の中にあったのを覚えている。日本のように木々に覆われた山ではなく、もっと荒れた短木の生える程度の山だった気がする。
崖沿いにあるバスターミナルを下りて、そこからしばらく移動するとタスコの街並みはなった。ガナファトほどの美しい街並みではないが、白い石畳の古き良き街があった。
こういった街の中に含まれると、心も少し落ち着く。
街をウロウロしていると、おじいちゃんが近づいてきて、「ホテルか?」と尋ねてくる。まだ来たばかりの街では方向感覚さえ定まらない。地図を観てもわからないことが多い。辺りを歩いてゆく観光客に付いてゆくという手もあるが、地元民を役立てる方法もある。このおじいちゃんはチップが欲しいのだろうが、ここは素直に味方につけておこうと思った。
おじいちゃんに連れられて、街の中心地までやってきた。
程好い値段のホテルに泊まる。おじいちゃんはチップを求めているかと思ったがそうではなかった。荷物をおいて出てきた僕を連れて、「銀細工が欲しいだろう?」と話をしてきた。
そして街中を歩く。「ここが有名な店だ。だが高い!」とか、「ここはまあまあいい店だ」とか、そして結局最後は、おじいちゃんの知り合いの店に入る。ぼったくりはないか心配したが、笑われた。「この街にはぼったくりの店なんてない。みんな本物だ」と言う。そして店の人が僕にいろいろと銀細工を紹介してくる。おじいちゃんの目的はこれだった。
でも確かにぼったくりではなさそうだ。高くはないし、見た目もしっかり重量感がある。しかも無理やり売りつけてくるわけでもない。
僕が「今はお金がないんだ」と言うと、「ああ、いいよ。また来てくれ」という感じで、気さくに僕を返してくれた。
タスコでは銀細工を買おうと思っていたので、ここでも何か一品くらい買ってもいいだろうと考え直させられた。わざわざこんな山間の街まで来るのだから、確かにぼったくりはないのかもしれない。
実際にお金が切れていたので、銀行のATMでお金を下ろした。メキシコシティでは年末年始のせいかお金が出てこないことがあり、ちょっといろいろと不安だったが、タスコのATMではちゃんと下ろせたし、変に減ってもいなかった。
そして再び銀細工選びに店を回ったが、その日は目星をつけるだけで、買い物はしなかった。
翌日1月6日、銀細工を買いに出かけた。
有名店は確かに高かった。日本やアメリカで買うよりは相当安いのだろうが、いい物はやはり高い。高級感はあるが、バックパッカーの僕が買うようなものではない。僕は数千円で買えるものを求めていた。
昨日見た中で、別に気に入った店があったので、そこで買うこととした。2千から4千円くらいの値段の腕輪だ。一つは自分用。もう一つは女性物、特にプレゼントする相手は考えてなかったけれど、とりあえず気に入ったので買った。後は千円程度の安い物を一つ買った。
それから昨日おじいちゃんに紹介されたお店にも行った。シンプルなネックレスを一つ。なんだかあまりにシンプル過ぎて、偽物のようにも見えるが、たぶん本物だろう。シンプルでつまらない分、太くて、重量のある奴を買った。それに勾玉みたいなプラスチックの首飾りと、5百円くらいの指輪を買った。勾玉の首飾りは太めのネックレスに入らず、加工するのに4百円無駄に取られてしまった。
午後は、カカワミルパの鍾乳洞という観光地に行った。タスコを訪れる観光客はだいたい行くという大鍾乳洞だ。日本でいう鍾乳洞を考えると規模が違う。幅は十数メートルあり、高さも十メートル以上、深さは何百メートルも続く。暗い場所だが、たしか電灯か何かが取り付いていて、辺りを照らしていた。白い岩肌が奥まで続く。まるで蝋で出来た地底基地のようにその広い洞窟は奥へと続いていた。
案内人がいて、数十人の観光客が行けるところまで案内される。軽いツアーのようになっていて、僕もその中に付いていった。奥はどこまでも続いているようだったが、広い場所を行き着くと、その先には明かりもなく、狭い道が伸びているようだった。
涼しい空気に包まれて、少しだけ異世界にいたかのような時間を体験した。
入口では、「マンダリーナ(みかんいかが)?」と、現地のおばちゃんがみかんを売っている声が響いていて、その声が印象的だった。
夜は韓国料理を食べた。
韓国料理屋の店員に「どこから来たのか?」と聞かれ、「日本だ」と答えるとそれ以上は何も聞いてこようとはしなかった。それでも白い飯や韓国ラーメンに食べ、少しだけ日本に近い食事を味わえた。たまにこういうものを食べないとなんだか元気が出ない。
朝は地元のカフェレストランで、パンとチリソースのオムレツ。それはそれでうまいのだが、たまにコメが食べたくなる。
翌日1月7日、日本人がやっている銀細工の店があるというので、そのお店を訪れた。
日本人方がいて、軽く話をした。しかし何を話したのか、あまりよく覚えていない。日本人作る銀細工は繊細さを感じた。そこでも勾玉の首飾りの代わりの銀の首飾りを一つ買った。
タスコの印象は悪くない。少し沈んでいた気分も、銀細工ショッピングで気分が紛れた。
それに装飾品は一生物だ。高くなくても、壊れずにいつまでも形ある物。とてもいい旅の思い出として、今も家の引き出しの中に仕舞われている。
高速バスでタスコを出たのは昼過ぎだったろう。今度は、海辺のアカプルコまで下ってゆく。久々にメキシコの高地を離れ、海辺まで。マサトラン以来の海が待っている。
街は山の中にあったのを覚えている。日本のように木々に覆われた山ではなく、もっと荒れた短木の生える程度の山だった気がする。
崖沿いにあるバスターミナルを下りて、そこからしばらく移動するとタスコの街並みはなった。ガナファトほどの美しい街並みではないが、白い石畳の古き良き街があった。
こういった街の中に含まれると、心も少し落ち着く。
街をウロウロしていると、おじいちゃんが近づいてきて、「ホテルか?」と尋ねてくる。まだ来たばかりの街では方向感覚さえ定まらない。地図を観てもわからないことが多い。辺りを歩いてゆく観光客に付いてゆくという手もあるが、地元民を役立てる方法もある。このおじいちゃんはチップが欲しいのだろうが、ここは素直に味方につけておこうと思った。
おじいちゃんに連れられて、街の中心地までやってきた。
程好い値段のホテルに泊まる。おじいちゃんはチップを求めているかと思ったがそうではなかった。荷物をおいて出てきた僕を連れて、「銀細工が欲しいだろう?」と話をしてきた。
そして街中を歩く。「ここが有名な店だ。だが高い!」とか、「ここはまあまあいい店だ」とか、そして結局最後は、おじいちゃんの知り合いの店に入る。ぼったくりはないか心配したが、笑われた。「この街にはぼったくりの店なんてない。みんな本物だ」と言う。そして店の人が僕にいろいろと銀細工を紹介してくる。おじいちゃんの目的はこれだった。
でも確かにぼったくりではなさそうだ。高くはないし、見た目もしっかり重量感がある。しかも無理やり売りつけてくるわけでもない。
僕が「今はお金がないんだ」と言うと、「ああ、いいよ。また来てくれ」という感じで、気さくに僕を返してくれた。
タスコでは銀細工を買おうと思っていたので、ここでも何か一品くらい買ってもいいだろうと考え直させられた。わざわざこんな山間の街まで来るのだから、確かにぼったくりはないのかもしれない。
実際にお金が切れていたので、銀行のATMでお金を下ろした。メキシコシティでは年末年始のせいかお金が出てこないことがあり、ちょっといろいろと不安だったが、タスコのATMではちゃんと下ろせたし、変に減ってもいなかった。
そして再び銀細工選びに店を回ったが、その日は目星をつけるだけで、買い物はしなかった。
翌日1月6日、銀細工を買いに出かけた。
有名店は確かに高かった。日本やアメリカで買うよりは相当安いのだろうが、いい物はやはり高い。高級感はあるが、バックパッカーの僕が買うようなものではない。僕は数千円で買えるものを求めていた。
昨日見た中で、別に気に入った店があったので、そこで買うこととした。2千から4千円くらいの値段の腕輪だ。一つは自分用。もう一つは女性物、特にプレゼントする相手は考えてなかったけれど、とりあえず気に入ったので買った。後は千円程度の安い物を一つ買った。
それから昨日おじいちゃんに紹介されたお店にも行った。シンプルなネックレスを一つ。なんだかあまりにシンプル過ぎて、偽物のようにも見えるが、たぶん本物だろう。シンプルでつまらない分、太くて、重量のある奴を買った。それに勾玉みたいなプラスチックの首飾りと、5百円くらいの指輪を買った。勾玉の首飾りは太めのネックレスに入らず、加工するのに4百円無駄に取られてしまった。
午後は、カカワミルパの鍾乳洞という観光地に行った。タスコを訪れる観光客はだいたい行くという大鍾乳洞だ。日本でいう鍾乳洞を考えると規模が違う。幅は十数メートルあり、高さも十メートル以上、深さは何百メートルも続く。暗い場所だが、たしか電灯か何かが取り付いていて、辺りを照らしていた。白い岩肌が奥まで続く。まるで蝋で出来た地底基地のようにその広い洞窟は奥へと続いていた。
案内人がいて、数十人の観光客が行けるところまで案内される。軽いツアーのようになっていて、僕もその中に付いていった。奥はどこまでも続いているようだったが、広い場所を行き着くと、その先には明かりもなく、狭い道が伸びているようだった。
涼しい空気に包まれて、少しだけ異世界にいたかのような時間を体験した。
入口では、「マンダリーナ(みかんいかが)?」と、現地のおばちゃんがみかんを売っている声が響いていて、その声が印象的だった。
夜は韓国料理を食べた。
韓国料理屋の店員に「どこから来たのか?」と聞かれ、「日本だ」と答えるとそれ以上は何も聞いてこようとはしなかった。それでも白い飯や韓国ラーメンに食べ、少しだけ日本に近い食事を味わえた。たまにこういうものを食べないとなんだか元気が出ない。
朝は地元のカフェレストランで、パンとチリソースのオムレツ。それはそれでうまいのだが、たまにコメが食べたくなる。
翌日1月7日、日本人がやっている銀細工の店があるというので、そのお店を訪れた。
日本人方がいて、軽く話をした。しかし何を話したのか、あまりよく覚えていない。日本人作る銀細工は繊細さを感じた。そこでも勾玉の首飾りの代わりの銀の首飾りを一つ買った。
タスコの印象は悪くない。少し沈んでいた気分も、銀細工ショッピングで気分が紛れた。
それに装飾品は一生物だ。高くなくても、壊れずにいつまでも形ある物。とてもいい旅の思い出として、今も家の引き出しの中に仕舞われている。
高速バスでタスコを出たのは昼過ぎだったろう。今度は、海辺のアカプルコまで下ってゆく。久々にメキシコの高地を離れ、海辺まで。マサトラン以来の海が待っている。
メキシコ回想記24.クエルナバカとコルテス宮殿
メキシコシティからの高速道路を進んでいく。メキシコにしては立派な道路だ。そんな景色の見ごたえも無い道を数時間眺めていた。いずれクエルナバカという街に着いた。
ケレタロと同じように、この街の景色が思い浮かばない。ケレタロより、思い出せない。11年前のある一日の風景を覚えている方がきっと難しいのだろう。
クエルナバカには、コルテスの宮殿がある。シティのコヨアカンにもあったが、それよりも大きく、博物館として中を見学できる宮殿だ。
僕はあの日、コルテスについて想い浸っていたことだろう。その宮殿は薄暗く、少し肌寒かった。クエルナバカに明るい印象はない。少し暗かった。
外はよく晴れていた。季節は乾季だ。雨が降りにくい。
コルテス宮殿の光と影、その中にたくさんの家財道具が飾られていた。
これはほぼ想像だ。実際に見たことなんて忘れてしまう。何を観たかなんて忘れてしまう。
じゃあ、僕は、何を覚えているんだろう。
あの場所に行った意味なんてあるのだろうか。旅をする意味なんてあったのだろうか。
僕は誰かに出会いに行った。でも、そこでは誰にも出会えなかった。だから記憶は薄らぎ、消えてしまったのだろう。
翌日、サンアントンの滝を訪れていた。どこかに泊まった記憶もなく、街並みの記憶もない。記録は確かに一泊しているのだが。
サンアントンの滝は、日本の清流の滝を想像すると、それとは大間違いだ。
滝はコンクリートで補強工事された壁に囲まれている。コンクリートの階段を下りて行って、滝壺まで行ける。
滝はどぶ川のような汚い水が滝壺に落ちてくる。その奥にある洞窟からはたくさんのコウモリが飛び立ってゆく。
観光客などいない。山賊の隠れ家ようだ。人などいない。
ただ、濁った水が落ちてくる場所だ。
メキシコシティの楽しい印象は一気に吹き飛んでいた。
どこか暗い。また一人、旅を続けていた。そんな印象しか残っていない。
この街は早めに離れよう。悪い思い出しかない。
メキシコ人にとって、コルテスは侵略者だ。心のない非道な人間なのだ。この街にいた彼は苦しんだにちがいない。私は英雄などではない。呪われた悪魔だと。
勝手にそんなイメージが湧き立つ。
僕はあの日、あの場にいた事も忘れたい。ここには居たくない。
だから、記憶も消えたのだろうか。
その全てが勝手な想像だ。
バスはクエルナバカを離れ、銀山の街タスコへと向かっていた。
そしてクエルナバカの記憶は消えた。タスコの街の事は覚えている。そこに悪い印象は無い。出会いでもない。多少はあったか。この、記憶の差、良いイメージと悪いイメージの差は何なのだろう?思い出そうとすると、不思議とそんな感覚に捕らわれる。
記憶とは、とても不思議なものだ。
タスコの話へと続く。
ケレタロと同じように、この街の景色が思い浮かばない。ケレタロより、思い出せない。11年前のある一日の風景を覚えている方がきっと難しいのだろう。
クエルナバカには、コルテスの宮殿がある。シティのコヨアカンにもあったが、それよりも大きく、博物館として中を見学できる宮殿だ。
僕はあの日、コルテスについて想い浸っていたことだろう。その宮殿は薄暗く、少し肌寒かった。クエルナバカに明るい印象はない。少し暗かった。
外はよく晴れていた。季節は乾季だ。雨が降りにくい。
コルテス宮殿の光と影、その中にたくさんの家財道具が飾られていた。
これはほぼ想像だ。実際に見たことなんて忘れてしまう。何を観たかなんて忘れてしまう。
じゃあ、僕は、何を覚えているんだろう。
あの場所に行った意味なんてあるのだろうか。旅をする意味なんてあったのだろうか。
僕は誰かに出会いに行った。でも、そこでは誰にも出会えなかった。だから記憶は薄らぎ、消えてしまったのだろう。
翌日、サンアントンの滝を訪れていた。どこかに泊まった記憶もなく、街並みの記憶もない。記録は確かに一泊しているのだが。
サンアントンの滝は、日本の清流の滝を想像すると、それとは大間違いだ。
滝はコンクリートで補強工事された壁に囲まれている。コンクリートの階段を下りて行って、滝壺まで行ける。
滝はどぶ川のような汚い水が滝壺に落ちてくる。その奥にある洞窟からはたくさんのコウモリが飛び立ってゆく。
観光客などいない。山賊の隠れ家ようだ。人などいない。
ただ、濁った水が落ちてくる場所だ。
メキシコシティの楽しい印象は一気に吹き飛んでいた。
どこか暗い。また一人、旅を続けていた。そんな印象しか残っていない。
この街は早めに離れよう。悪い思い出しかない。
メキシコ人にとって、コルテスは侵略者だ。心のない非道な人間なのだ。この街にいた彼は苦しんだにちがいない。私は英雄などではない。呪われた悪魔だと。
勝手にそんなイメージが湧き立つ。
僕はあの日、あの場にいた事も忘れたい。ここには居たくない。
だから、記憶も消えたのだろうか。
その全てが勝手な想像だ。
バスはクエルナバカを離れ、銀山の街タスコへと向かっていた。
そしてクエルナバカの記憶は消えた。タスコの街の事は覚えている。そこに悪い印象は無い。出会いでもない。多少はあったか。この、記憶の差、良いイメージと悪いイメージの差は何なのだろう?思い出そうとすると、不思議とそんな感覚に捕らわれる。
記憶とは、とても不思議なものだ。
タスコの話へと続く。