小説と未来 -10ページ目

メキシコ回想記43.オルボッシュ

チキーラの波止場でフェリーを待つ。
空はまだ暗闇の中にあって、波の音だけが聞こえる。とても静かな朝だ。人工の音のない場所。自然の音とわずかな人の声だけが耳もとに届く。
やがて海辺に光が現れる。遠くからフェリーがやってくるのだ。小型のフェリーが水面を揺らし、波紋を作ってやってくる。少しずつ辺りは景色がわかるくらいの明るさへと変わる。まだ太陽は上っていない。
小型フェリーはコンクリートの船着場にゆっくりと揺れながら近寄ってきて、やがて壁とぶつかって止まる。
一人の船員が下り、数人の乗客が下りる。今度は波止場で待っていた人々が集まってきて、フェリーに乗り込む。小さな亀甲型のずんぐりむっくりした船は波に揺られている。
僕は船に乗り込むと甲板の手すりに捕まり、フェリーが出発するのを待っていた。

やがて船は動き出す。暗い海をフェリーが走る電動音が響く。海鳥が鳴いて、水面をフェリーの波紋が流れてゆく。海面は赤みを帯びて、波の波形が綺麗に映し出される。東の空が朝焼けに染まる。もうすぐ太陽が昇ろうとしていた。
その光景はとても美しいものだった。


オルボッシュには車が走らない。ゴルフカートがせいぜいの乗物で、後は皆歩いている。砂洲の南側の船着場に着いてから、北側の海辺へと歩てゆく。空は明るさを増し、静かな朝を迎えている。人のいない中央広場を通り過ぎ、北側の白い砂浜に覆われた道を歩いてゆく。辺りは南国の木々に覆われていて、まだ北側の海辺は見えていない。

木々を抜けるとそこに白い浜辺が広がり、青い海がその先に見える。波は穏やかに寄せては返し、小さなボートが杭に紐を括り付け、波に揺らされている。
白い砂浜は東の方向にどこまでも続いて見える。その先に青く透き通った海がどこまでも続いていて、遠くに昇りかけの太陽が顔を出している。
『はあ、ここまで来たな』

白い砂浜にあるペンションに顔を出し、部屋が空いているか聞いた。部屋は空いていて、今日の寝床が決まった。白い砂浜の上にあるだけあって、どこも砂だらけ、ベットも砂だらけだけど、砂があって当たり前のような場所。それを汚れているとは言わない。


旅の終り。僕の旅は今度こそ終りだ。運命の人を探していた。その旅も終る。夢を見たいとやってきた。夢は夢のままだった。僕が見てきたのは現実だった。夢を望んだ時間は、現実の思い出として過ぎてしまった。思い出だけが僕の記憶に残った。探しものは見つからなかった。
アンティグアやチチェンイツァーで感じた不思議な空想はただの空想のまま、僕の人生を返るような運命を与えてはくれず、一人ここで現実に佇む僕を置く。僕は僕のまま、良い思い出と悪い思い出が作られた。
少しだけ、アイデンティティーが作られた。

東の海へと歩いて行った。エメラルドグリーンに輝く海があった。遠浅の海を恋人同士が歩いていた。美しい絵画を観ているようだった。低木に隠れて抱き合う男女がいた。天国にでも来てしまったかのようだった。
足下を見下ろすと砂浜は貝殻に敷き詰められていた。自然が創りだすものには見えないほど、貝殻でいっぱいだ。ずっと海辺が続く。
強い日差しを浴びて、上半身を裸になって、太陽の恵みを感じていた。男は遠浅のエメラルドグリーンの海にただ浮いていた。
僕は歩いて、写真を撮る。白い海鳥が白い砂浜を歩く。木々を飛び交う小鳥も楽しそうに歌い続けた。海辺にはカブトガニが打ち寄せられていた。まだ生を持っていた。持ち上げて、海辺に戻してあげる。僕はそこでゆっくりと時間が過ぎるのを待った。

長い時間が過ぎて、西の空に太陽が沈む。海に沈む夕陽はその向こうにもう一つの世界へと入り込む入口を作っているかのように海面に大きく浮かんでいた。やがて夕陽は海中に潜り込んでしまい、もう一つの世界へ通じる扉は閉ざされてしまった。
海の中ならまだ入口は開いていただろうか?

何もない夜。早々と眠る。静かな夜。誰もいないかのように、とても静かな夜。
旅も終り、やがていつもの毎日がやってくるだろう。きっと辛い日もあるけど、必ず楽しい日もやってくる。この数か月間、僕にはもう何もやってこないと思い始めていた。僕は上手に流された。否定的だった思いがあった。否定する事を止めようと思った。
そして君を探す旅も終りにしようと思う。

翌朝が訪れた。新しい朝の陽ざし。
もうすぐ新しい日々が始まる。

メキシコ回想記42. バジャドリ

2005年2月7日朝8時に、マァウアルを離れた。
9時半にリモーネに戻り着いて、乗り合いバスでカリージョプエルトに戻った。
そこからバジャドリという街に行く予定だったが、ちょうどいい直通便がなかったので、さらにトゥルムまで戻ることとなった。
トゥルムのカフェで2時間ほど時間を潰してからバジャドリに到った。

バジャドリはチチェンイツァーとカンクンの間にある街だ。
その辺りではそれなりに大きな街ではあるようだけど、観光地ではない。
その場所に僕が来た理由はオルボッシュに行くためだ。僕は旅の最後の目的地を、オルボッシュに定めた。結局最後までメキシコを離れないこととした。
キューバにもベリーズにも行かない。メキシコだけでこの旅は終わりにする。そして韓国人のクリスチャンが言っていったオルボッシュに行ってみようと考えた。そこは綺麗な場所だと言っていたから、どうしても行ってみたくなったのだ。

オルボッシュには、バスでチキーラという町まで行って、そこから船で渡る。オルボッシュは、カンクンのホテル地帯みたいに砂洲になっているだけれど、カンクンのように橋も道路も整備されていないから、船でしか行くことができない。
チキーラまではカンクンからバスも出ていたようだが、カンクンまで一度戻って再出発するのはつまらなかったので、バジャドリへと行って、そこからチキーラを目指すルートを選んだ。
バジャドリはただの通過地点でしかないはずだった。だがチキーラ行きのバスは朝早くと、夜中の2時半しかない。

やれやれ。仕方がない。そして真夜中が訪れるまで、その街へ留まるしかない。

夕方前に着いたバジャドリで、まずチキーラ行きのバスチケットを買った。
それからその小さな街のソカロで時間を潰す以外にない。カリージョプエルトもそうだが、特にどこを回っても観て回るような街ではない。
何軒かのお土産屋とレストランだけはあった。ここはチチェンイツァーにも近いから遺跡に関連するお土産屋と観光客相手のレストランが少しだけあったのだ。カリージョプエルトよりは暇を潰せそうだった。
そろそろ日本へ帰る日も近づいているから、お土産を買って帰ることとした。観ていると気に入ったTシャツがあった。青色のシャツにシュールな黒い遺跡のプリントがしてあったやつだ。でも値下げ交渉に失敗し、どうしても値下げしてくれなかったので何だか意地になって買うのを止めてしまった。
結局、別のお店で観光用の子供用のTシャツと民族衣装を買った。それで十分に思えた。
そうやってしばらくソカロで時間を潰していると、民族衣装を身に纏った人がたくさん集まってきた。老若男女がいる。カーニバルが開催されるようだ。
若い男はなぜか女装して、若い女はなぜか男装していた。たぶんそういうおふざけが流行っていたのだろう。お祭りも若者によって、変化するものだ。しばらくはその民族衣装で集まるお祭りを観て楽しんでいた。
お祭りのせいか、街は遅くまで明るく、人に溢れていた。

時間も過ぎて、お祭りも静まって、僕はレストランに入った。中ではギターの弾きがかりが行われていて、そこでビールを飲みながら時間を潰した。ギターの演奏者は予想以上に歌がうまく、聴いていて心地が良かった。疲れている僕の心には歌が強くしみわたり、少し感傷的になっていた。
それからさらに、ソカロで1時間。さらにバスターミナルで2時間、時間が過ぎるのを待った。

やっとチキーラ行きのバスはやってきた。
2等の汚いバスで、トイレは付いていない。僕はこのバスで4時間くらい揺られてチキーラを目指した。
疲れと共に、半分眠りながら、揺れる夜道を進むバスに身を任せた。

そして夜明け前、チキーラに着いた。
2005年2月8日を迎えていた。バスは着き、夜明けが訪れようとしていた。遠くに揺れる波の音が聞こえていたけど、その姿はまだ見えていない。

つづく

メキシコ回想記41.カリージョプエルト~マァウアル

トゥルムを離れて、カリージョプエルトという町にやってきた。
ベリーズとカンクンの間にある町で、通常は誰も立ち寄らない町だ。

こんな町に何をやってきたかということだが、もはや単純に観光地を回ることに疲れたという話だ。カリージョプエルトという小さな町はそんな僕の心を休ませてくれる。問題は観光本がないので、どこにホテルがあるのか、どんな広さの町なのか、地図もないし何もわからないという事だ。
バスを降りて、とりあえず宿を探していた。宿と書いてあったので、そこへ行ってみた。
「おまえは一人か?」と聞かれた。
「ああ、そうだ」と答えた。
「じゃあダメだ」と断られた。
「なぜ?」と聞いたが、それはすぐに取り下げた。見た目には何だかただの安宿に見えたが、要はラブホテルだったのだ。こんな街には観光客もほとんど来ないのだろう。観光用のホテルはないが、町の人のためのそういうホテルはあるという事だ。
そして僕はどこかにホテルを見つけ泊まったのだと思う。だと思うというのは覚えていないからだ。だけど2005年2月4日をここで過ごしている日記だけは残っている。肝心な旅行については何も書いていない。
書いてあることは、『僕は運命を求めて、この国へやってきた。だけどそれは夢のまま終わってゆく。夢のまま終わってゆくけど、この先の未来、僕は小説を書き続ける。2019年まで、僕は小説を書いて、運命の人が僕に気づくまで、そうしてゆく』なんて事が書いてある。
あの頃から遠い未来を想っていた。2016年現在、あれから11年経つが、まだ僕は小説を書き続けている。誰のも届かない小説を今も書き続けている。ここに運命はやってきていない。2019年まではあと3年だ。

カリージョプエルトでは、個人の観光案内所を尋ねた。そこではシアンカーンというマヤ人が住む自然保護区へのツアーをやっていた。僕はこのツアーに参加したいとガイドの人に尋ねたが、人が集まっていないのでもし集まったら連絡するという事で、一夜を待つことにした。
すぐに翌日になった。観光案内所に行ってみたが人は集まっていないという事で、そこへ行くことを断念した。

そして、今度はマーウアルという、これもまた観光本にはない町へと行ってみることとした。行き方を現地の人に聞いて旅に出た。今までとはまた違う旅だ。
バスでリモーネという町まで行く。町というかバス停に休憩所があるだけで何もない場所だった。ここでマーウァル行きのバスを待つ。すると少年がやってきて、「ここでバスを待ってもやってこない」という「タクシーの方が早い」と言う。
そこへタクシーがやってきて、少年はそいつを止めた。
そこには別の客が乗っていたのだが、一緒に乗って行くよう勧められた。
そんなわけでタクシーに乗ってマーウァルへ向かう。ここでも男のタクシードライバーに女の客がいる。このパターンはウァダラハラで味わった悪いパターンだ。だが、値段は距離を考えればものすごく安い。500円くらいで長い距離を走ってくれた。
窓を開けて、何もない荒野を100kmくらいのスピードでひた走る。
バスは待っていればきたのかもしれない。けれど値段とこの爽快さを思えば決して損には感じない。
やがてタクシーは海辺の町、マァウアルに着いた。

マァウアルはカリブ海の町で、観光本には名前も載っていない。アメリカ人はちょっとだけいるけれど、ほとんど現地の人間しかいない。
観光スポットではあるようで、ホテルもあるけれど、カリブ海の海辺の傍に舗装されていない道が一キロくらい続き、そこに幾つかのホテルがあるだけの小さな町だ。
うるさいバックパッカーもいないし、セレブのアメリカ人もいない。ほんの少しの観光客がいるだけ、ホテルも余裕で空いていた。
僕はこの町が気に入った。
レストランは海辺の傍で屋根のないところにテーブルを並べただけの一軒しかない。
だから僕はいつもここで飯を食べた。魚のフライや揚げたバナナ、アボカド、レタス、焼き魚、種類はそんなにないが新鮮でおいしい。
商店も一軒しかなく、ちょっとした食事を買いたいときはそこで買い物をした。

レンタルのシュノーケル屋があって、一日はここでシュノーケルグッズを借りて、海に潜って遊んだ。近場の海は少し泥っぽく濁っていて余りきれいではない。その辺りが観光地として成長していない点の理由でもあるのだろう。でもそこにはエンジェルフィッシュやエイや、大きな魚も住んでいて、そう言った生き物を探して遊ぶ楽しみはできた。
一日はスキューバをやろうと思ったが、お金もかかるし面倒になったので、ボートで海まで出てシュノーケルをやる事とした。これにはティケさんという人がボートを出してくれて、シュノーケル専門のガイドさんが一緒に付いてくれた。
ボートは海へとほんとに一キロ行かないところで停泊した。僕はシュノーケルを付け、海にダイブする。ここのシュノーケルは海の中に入っても空気の入ってこないやつだから深く潜れる。
ガイドさんが深く潜る。水深は5~10mくらいだろう。僕も2~3m潜る。魚の群やイカの群が泳いでいて、僕らはその群れと一緒になって泳ぎ回った。そこは陸近くの海より断然に綺麗で、ここには来たかいがあったなあを思わさせられた。

ここは観光地としては小さな町だ。と思っていたけど、2日目の昼には大きなフェリーが停泊していた。どうやら豪華客船の停泊地になっているようだ。
客船は町から1kmくらい離れた場所に泊まっている。そこから人が下りてくるのか、単なる補給で寄っているのかは不明だった。
2005年2月6日、僕はそんな有名観光地から場所で一人優雅な時間を送っていた。
もはやベリーズに行く気はなくなっていた。ガイドブックには載っていない場所を最後に回ろう。そう想うことが楽しく思えてきていた。
最後の旅が続く。

メキシコ回想記40.カンクン~トゥルム

2005年2月2日、日本人宿のメンバーはガラリと変わっていた。
今までいた人がいなくなって、また新しい人が集まる。こうして日本人宿はまた新しい旅人を迎え入れる。

僕も翌日には出発するつもりだ。
その日は一人でぶらりと歩いていた。カンクンのメイン通りを歩いて、プラサラスアメリカノスという大型ショップへ行った。そしてそこでジーンズを買って帰ってきた。このジーンズはどうしたのだろう?今、僕の家にはない。まったく覚えていない。

日本人宿に戻ると、例のお医者さんがいた。さらに4人組の若い日本人の女の子がいて、さらにカヨさんが起きたので、みんなで昨日お医者さんとカヨさんと行ったレストランに向かった。
僕はもはやカンクンのメイン通りやいくつかの観光スポットも覚えてしまい、皆を案内する添乗員のようになっていた。
28市場のレストランで、皆で料理を頼んで、お医者さんの話を聞きながら食べていたのだが、わずか30分程度で、レストランは終りになってしまった。店のメキシコ人は何も言わず周囲の椅子をかたずけ出し、やがて僕らの食べている食べ物も片づけ出し、追い出されるように出る事となった。さすがメキシコ人、客優先なんて考えない。営業時間をきっちり調べなかったこちらのミスのようだ。
仕方なく日本人宿に戻る。その後、4人組の内の2人とお医者さんで日本人レストランに行ってみることとした。
日本人レストランでは静岡出身の女性の方がアルバイトをしていて、その人が僕らの相手をしてくれた。彼女はいろいろメキシコ話や静岡話をしてくれて盛上った。

日本人宿に戻ると、今度は宿のオーナーがメキシコの歴史話をしていた。何を話していたかすっかり忘れてしまった。4人組の女の子たちがその話を聞き入っていた。


翌日、僕が旅立つ番となった。ここにはもう一度戻ってくるので、大きな荷物は預けて、出かけた。向かうはベリーズの方だ。
僕はお医者さんとベリーズから来たカマさんという方と一緒に出かける事となった。行先はトゥルムだ。ケイ君がいい場所だと言っていた場所で、遠くもないので、是非行ってみることとした。
カマさんはベリーズから来た人だ。僕はベリーズに向かって、せっかく取ったスキューバライセンスを使うことを考えていたが、カマさんはベリーズは良くないと言っていた。ベリーズは黒人の国で、英語圏だ。どちらかというと大きな黒人が大きな態度で見下ろしてくると言う。しかもスペイン語慣れしている僕にはちょっと恐い。少しずつ、ベリーズ行きが遠のいてゆく。

トゥルムに行くバスの中で、韓国人のクリスチャンのおばさんにあった。ジャマイカ人のマークを思い出す。僕はこういった系の方に話し掛けられやすいのだろうか。
彼女はオルボッシュという場所がとても綺麗で良かったと言っていた。その話をスペイン語で話をする。韓国人と日本人、隣どおしの国だけど、お互いの言語は知らない。
その話は少し盛上り、僕もオルボッシュという町に行ってみたいと思った。どんどんベリーズ行きは遠ざかってゆく。

とりあえず着いたのはトゥルムだ。トゥルムは小さな遺跡だが、海辺に残る遺跡として珍しい。それなりの観光地で多くの観光客が来ていた。カンクンからは一番近い遺跡だからちょっと来るにはいいのかもしれない。
遺跡とビーチが隣り合わせにあるような場所で、海で泳いでいる人もいる。入るには特にチケットも要らないので、何ともカジュアルな遺跡だ。
僕らはそんな遺跡を少しウロウロして、それから海辺を歩いた。海辺にはたくさんの貸テントがあって、そこに泊まることができるようだった。
その日僕はそこに泊まることとした。さらに南にはお高いホテルが並んでいた。こじんまりしていてカンクンの砂洲よりはずっといいが、とても泊まれる値段ではない。お医者さんとカマさんはそこに泊まったのか、帰ったのか、僕はよく覚えていないが、そこで別れた。

夜が来て、波の音でも聞きながら、ゆっくり眠りたかったが、周りは若い元気なアメリカ人が酒を飲みながら夜通し騒いでいて、あまり眠ることができなかった。
ここは僕の向いている街ではない。ケイ君のような明るい人が向いている場所のようだ。

そんな風にしてカンクンからの再出発。最後の旅が始まった。

メキシコ回想記39.カンクン~その3

カリブ海の海は綺麗だ。白い砂浜の海は透明度が高い。海の中に沈めば、視界はクリアで、光が透明な海の底まで降り注いでいた。
スキューバのライセンスを取るためのスキューバ実地。ライセンスを取ったら、ベリーズに行って、青い海にダイブしよう、それが新たな目的だった。
僕を指導してくれたのは、タカさんという若いインストラクターだった。なかなかカンクンでライセンスを取る人もいないらしく、完全にマンツーマンで授業が受けられた。

スキューバのライセンスを取るには、実地試験だけではない。筆記試験もある。初日は、カンクンのファミレスでコーヒーを飲みながら授業のみだった。
試験に出るところを中心に教えてくれるから、それを勉強しておけば落ちる事はないという。でも心配性の僕は、初日の授業の後、日本人宿に帰ってからも、問題集をずっと勉強していた。

翌日は、筆記試験と一回目のダイビングだった。
筆記試験は100点満点で98点。
「いやあ、おしい。ここまでいい点とる人いないですよ。だいたい勉強せずだいたいでやりますから」とタカさんに言われた。

そして海に潜る。
まずは潜り方がある。船から後ろ向きに下りる方法と、岸辺からジャンプして飛び込む方法だ。岸辺からジャンプは少し勇気がいる。船から後ろ向きに下りるのは一回転するので少し方向を見失いかける。どっちも若干の慣れが必要だ。
そして海に潜る。いろいろと習ったジェスチャーをして、それが何を言っているか、対応する。そして海の中で、ゴーグルを取ったり、呼吸するマウスを外したりして、その時慌てずに対応する方法を訓練する。
そんな一通りが過ぎる。

最後の日は、スキューバの訓練。前日よりは天気が良くなく、海は若干視界が狭まっていた。でも遠くまで泳いで、いろいろな熱帯魚、カメも浮かんでいたし、エイも泳いでいた。そんな生き物たちと触れ合う楽しい時間となった。

2004年1月30日から2月1日はそうして過ぎていった。

その間、日本人宿では数人の人が入れ替わった。
30日は、キューバ帰りの旅好きの人がいた。残念ながらこの人の事を僕はよく覚えていない。日記には、旅慣れているが比較的おとなしい人だったと書いてある。こんな風に忘れてしまう人もいる。おそらくスキューバの方に頭がいっぱいだったのだろう。カヨさんとアユさんもいて、一緒にお酒を飲みながら過ごしたはずだ。でも、よく覚えていない。

31日は、ケイ君に再会した。数日いなかった。トゥルムというカンクンから少し南に下った遺跡にいたという。いい所だからぜひ行った方がいいと勧められた。夜には、仲良し定年夫婦と再会した。この二人はイスラムへ―レスというカンクン近くの島に行っていた。ここもいいところで、夫婦はぜひ行った方がいいと勧めてきた。

2月1日、ケイ君はドイツに出発し、アユさんも、夫婦も帰り、旅好きの人もいなくなってしまっていた。残ったのは、カヨさんと僕だけだった。宿のダイニングであって、彼女はダイビングをしてきて、僕はスキューバを終えて会った。でも僕は疲れてしまっていて、部屋に帰って眠ってしまった。
それから夕方頃、目覚めると、知らない人がまたいた。麻酔科のお医者さんで、かなりお金持ちのはずだが、ホテルはつまらないのでここに泊まりに来たと言う。カヨさんは看護師だけあって、そのお医者さんと楽しそうに話していた。
3人で食事に行った。28市場というところにある飯屋さんで、エビ、カニ、サラダとシーフードを食べた。とても美味しい料理だった。その日は宿に戻ってからもダイニングで話を続けた。なんだか立派な人に立派な話をされて、僕は少し縮こまった。

それが3日間の出来事だ。

ライセンスは無事に取れた。
これで旅の方向も少し広がるかと考えていたが、実際この後、僕がこのライセンスを活用することはなかった。
僕に教えてくれたタカさんも、この先は日本に帰ろうかと思っているなんて言っていた。なかなかスキューバのインストラクターで生計を立てていくのは難しいらしい。結局ライセンスを取りに来たのも、この期間は僕しかいなかったわけだ。
何になったか、実用性は何もないかもしれない。ただ、忘れもしない楽しい思い出が残った。僕はそれで十分だと今は思える。