西条(神尾楓珠)が見る「恋の光」は、「発情」した女性が放つ光であり、「フェロモン」であり、「恋=本能」を表する光である。恐らく童貞の西条にとってこの光は、まぶしくて「映画」が見れなくなる「とにかく邪魔なもの」であり、怖い存在でもある。美しくはあるけれど「邪魔なもの」。ここで言う「映画」が本作そのものであることは言うまでもない。
つまり、セックスを恐れる童貞くんの物語。
西条が近づく女性たち、北代(西野七瀬)と東雲(平祐奈)からはセックスやその肉体性が排除されている。彼女らと西条との間には常に一定の距離が保たれ、決して触れ合うことはない。もちろん彼女たちから「恋の光」が発せられることもない。彼女らを捉えるカメラは柔らかく、白っちゃけ、彼女たちの肌にはシワひとつなく、肉体の生々しさを払拭している。
「発情」が可視化されていながら、しかしセックスが禁忌となっているこの世界で、三人は恋愛について語ることになる。
気持ちが悪い。中年後期が観る映画ではない。
ところがこれが次第に面白くなってくる。
肉体の感じられない世界で、唯一西条が「おっぱいに惑わされ」る「苦手な」女性、宿木(馬場ふみか)が物語に介入し始めるからだ。
パジャマパーティーをしようと(「パジャマパーティでもいかがすか?お嬢さん」!)北代が東雲の自宅を訪れる。古い日本家屋に一人で住む東雲は、北代に入るよう促す。玄関をくぐる足元のアップを挟んで、シーンが変わる。宿木が西条の下宿に入ってくるロングショットがつながれる。
この足元のショットは唐突で、しかも誰のものであるかを錯誤させ、シーンとシーンをスムーズにつなぐ役割を放棄している。
こうして宿木は本格的に物語に介入する。
もちろん彼女は本作のファーストショットから登場する。しかもジュースを頭から浴びるどアップのスローモーションで登場し観客を驚かせる。しかし彼女は西条と北代を映画に紹介する役割のみを担い、ひとまずは映画から退場してしまう。
その後も幾度かは顔は見せその存在感を示すのだが(特に彼女が西条にフラれるシーンの客観ショットは秀逸だった)本格的に物語に参入するのは、この(誰とも知らぬ)足元のアップショットからである。
続いて、北代と東雲が縁側で座りビールを飲むパジャマパーティーのシーンと、西条と宿木がカウンターで語らうバーのシーンが、その台詞をシンクロさせながらカットバックして展開する。
宿木は自分が「人の彼氏が欲しくなる」体質であることを告白し、「あんたなんか好きでも何でもないからね」と言い放つ。
このアップに続いてシーンが変わり、北代は実は西条のことが好きであると東雲に打ち明ける。
彼女の告白で物語が大きく変化する。これまで北代が見せた会話の中の一瞬の間や逡巡は、彼女が西条に恋をしていたからであることが判明する。
宿木のアップショットが彼女に告白を促したのだ。
さらに宿木は西条にキスをする。宿木はこの映画に肉体的な接触を初めて導入する。
もう一つの物語の重要な転換点にも宿木は大きく貢献することになる。
2回目のパジャマパーティーで三人の女性が一堂に会する。このパーティがなぜ開かれたのか、なぜ宿木も参加しているかについての説明は一切なく、唐突に縁側からのロングショットが挿入される。
ここで宿木は、これまでの物語を無効にするように、「恋の光」を「何かの宗教?」と茶化し、東雲を「ポット出のキャラ」と馬鹿にする。「少女漫画じゃ彼氏の幼なじみをポット出のキャラが奪うのよ」とこれからの物語を予測する。ここで言う「少女漫画」が本作の原作漫画であることは言うまでもない。
さらに彼女は「恋は光」ではなく「恋は戦いじゃん」と宣言するのだ。このアップには震えた。このアップで、物語は再び大きく変わる。
ホン・サンスである。 「事件は、只今、進行中」とご機嫌ななめなソニは語るのだ。
彼女のアップが、二人の女性に告白することを決意させる。
そして二つの告白シーンを挟んで、ようやく西野七瀬は神尾楓珠とのささやかな肉体的な接触に成功する。その「嬉しくて楽しくて恋する乙女」の表情、しかしどこか恋に戸惑っているような表情が感動的だ。映画はこの西野七瀬のアップで終わる。
複雑な感情をシンプルに示すこと、あるいは、シンプルな感情を豊かに示すこと。
しかし、映画はここでは終わらない。
宿木こと馬場ふみかのアップショットで映画が終わることはもはや必然だ。しかも馬場ふみかは新たな物語の始まりを宣言する。素晴らしい。
いい映画は常にアップで終わる。