冬薔薇(ふゆそうび) | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

阪本順治の「冬薔薇(ふゆそうび)」。

私は阪本順治の良い観客ではなく、「KT」以降の作品では「大鹿村騒動記」しか観ておらず、しかも面白いと思ったことがない。あの評価の高い「トカレフ」ですら全然ダメだった。だから、本作も全く期待しなかった。

 

ところが、本作はこれまで私が観た、乾いた情念で無理くり物語をねじ伏せる、みたいな阪本順治ではなかった。

最も思い出したのが、ホン・サンスであり、ロメールであり、ジャームッシュであった。

 

しかも本作の役者たちは、彼らのように素のママに話す体ではなく、皆、しっかりと台詞を喋る。現実を踏襲したような台詞ではなく、物語を語る、映画の言葉としての台詞を話すのだ。小林薫、余貴美子、石橋蓮司、伊武雅刀、笠松伴助ら、練熟の役者たちが素晴らしい。彼らが話している姿だけで楽しい。

 

この映画はそんな役者たちと、若き演技者らの会話から成る群像劇なのだが、次第に、一人一人の個が際立ってくる。

家族、船長と船員、夫婦、「ダチ」、恋人、様々な関係で成立する小さな社会はやがて緩み始め、社会から与えられた役割から個が浮かび上がる。

 

小林薫と余貴美子の夫婦喧嘩には泣いた。息子の行状に悩み、自分たちが彼にしたことについて、しなかったことについて二人は言い争う。二人の言い分は噛み合わないまま「夫婦」という関係が緩んでいく。

「夫婦」と言う関係のリアルなあり方と、それを映画として示すこと。

余貴美子の「じゃ、別れる?」という「夫婦関係」を壊す言葉に、小林薫は絶句する。言葉を放った女の孤独と、男の孤独が浮き彫りになる。

 

決して際立たず、目立たず、ただ普通に役者たちを捉える笠松則通のカメラが素晴らしい。役者たちをことさらに動かさず、ただ台詞を喋る彼らを見つめる演出が素晴らしい。芝居を観る映画、役者を観る映画の楽しさ。

 

機械的に繰り返される船とトラックの動き、不安定なタラップをするすると上り下りする船員たち(新参者の眞木蔵人は転んでしまう)、船長の操船、プロフェッショナルな仕事ぶりを丁寧に描くこと。

そして船長と船員らが集まる賄いのシーンが最初と最後に繰り返される。最後の食事では、既に彼らの関係が瓦解することが示されている。仲間の一人はすでにいない。船長が嫌いな海老が話題に上る。

この普通さと、しかし、決して現実の延長ではない、映画的な虚構が描く楽しさと悲しさ。

 

正直、若手チームのドラマは作為的でノリきれなかったのだが、若手陣も頑張っている。永山絢斗の冷静な怖さや、伊藤健太郎の憎めないダメさと居場所のない感じ。唯一の「ダチ」である佐久本宝との会話が痛い。彼は家族や「ダチ」という関係を求め続け、しかしその関係に入りきれないままラストを迎える。その虚しい無表情。

 

ハッピーな映画では全然ない。幸せな者は誰一人登場しない。

しかし楽しい。映画を観ることはこんなに楽しいのだ。私は映画が好きだ。

 

 

 

こう撮るしかねーだろ。じゃなく、こう撮るんだと。

 

 

あおりがいい。これしかない感じ。