映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ともかく私は、映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる壮麗な徴たちの飽和…。(オリヴェイラ)

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「小さな恋のうた」

 

佐々部清という映画監督がいる。拙ブログでは「映画監督という名の恥」として何度も紹介してきたが、私はその映画を一本しか観ていない。「チルソクの夏」という映画でそれについてはリンク先を見て頂きたいのだが、驚くのは意外と評判がいいことだ。

 

もう15年も前になるのか。以来この監督の映画は観る気がしない。観ないとわからんだろという批判は甘んじて受けるが、そもそも映画に対する素養が違う。育ちが違う。映画に求めているものがそもそも違う。どうしようもない。

 

そして令和の世となり、まさかこのナウな時代にこのような映画は制作されまいと思っていたのだが考えが甘かった。「チルソクの夏」と同様の酷い映画だった。

 

主人公の設定はバンドのリーダーでよかったのか、途中で視点が死んだ友人の妹に変わるのだが、そもそも最初から視点を妹にするべきではないのか。友人の死を描くに際してのためにする技巧、音楽劇であるにもかかわらず杜撰な音演出、友人の死で落ち込む主人公への陳腐で紋切り型の演出、演奏に盛り上がるエキストラたちの画一的な動き。

演出もシナリオも稚拙極まりなく、それを技巧で誤魔化し得々としている夜郎自大に怒髪天なのだが、最も問題なのは沖縄米軍基地問題を映画に導入する、その手つきである。

 

まず作者は在日米軍に対するデモ隊を、アメリカの少女と日本人との恋愛を妨げる障壁として描こうとする。

もちろんこのデモ隊は普天間基地の辺野古移設への抗議デモを代替するものだが、その是非はともかく、それをお馴染みのロミオとジュリエット式の恋愛劇に矮小化し、つまり誰もが受け入れるであろう安易な結論(「国境なんかないよね」)に誘導するのだ。

 

さらに作者はひき逃げ事故の被害者の父親を若者たちに敵対する悪者として設定する。

彼は米軍基地で働く何かしらの資格を持っているという人物で、その職業は最後まで明かされることがない(これも変な話だが)。彼が子供達に対しなぜか抑圧的であるという伏線は最初から引かれ、だからなのか被害者の妹は暗く無口(これも変な話だが)。

そして父親は被害者である息子が大切にしていたギターを叩き壊すという暴挙にでる(これも変な話だが)。

若者たちを抑圧する大人(型どおりの教師像を含めて)を設定し、ギターを叩き壊すという絵として面白く、かつわかりやすいシーンを用意し、クライマックスのライブシーンを盛り上げようと図る。

 

この映画が描く「沖縄」メッセージは反動的なネトウヨ的床屋政談でしかないのだが、それはひとまずいい。

多様な人間の感情やそもそもの存在を無視し、画一化し、陳腐な物語に沿うように都合よくわかりやすく提示すること。それはファシストの手つきである。あるいはレイシストの手つきだ。

監督は橋本光二郎という人らしい。「映画監督という名の恥」第二弾である。

 

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映画は冒頭、起こっている事物をぶっきらぼうに、しかし正確に捉え三人のあり様を伝えていく。

その即物的なカッティングがまず心地いいのだが、不意に自制が過去に戻り、塩田は叙情的な湿度を演出しはじめる。

 

クリーニング工場の暑さを伝えるボイラーの蒸気、その中で唐突に門脇麦は「一緒に音楽やらない?」と小松菜奈を誘う。小松菜奈のアップを挟んで、門脇麦の部屋にシーンは転じると、襖からカメラが移動し、二人がギターを弾いているのがわかる。

次いで同軸上にカメラが寄っていき、二人のフルショットへ、門脇のアップへ。切り返して小松菜奈側からの2ショット、小松菜奈のアップへ。

 

門脇麦はなぜ小松菜奈を誘ったのか、小松菜奈はなぜ誘いに応じたのか。それらの心理的な説明を全て省略しギターを教えるショットにつなぐ。端正なカッティングが素晴らしく、これが映画だという演出の自信が素晴らしい。彼女たちはこうしてギターを弾き歌いはじめたのだ。理由はこれからわかることもあるだろうし、わからないこともあるだろう。とにかく二人がギターを弾くショットがあればそれでいい。二人の多様な感情、その何かが観客には伝わる。映画はそれでいいのだ。

 

とりあえず今わかるのは、門脇麦は小松菜奈の保護者的な役割で、小松菜奈は彼女に依存しているような関係にあることだろう。

カレーを作り食卓に運ぶと、小松菜奈はテーブルの対面ではなく門脇麦の隣に座ってカレーを食べはじめる。門脇麦もカレーを食べようとスプーンを手にし、ふと彼女を見る。すると小松菜奈が泣いている。

隣に座る小松菜奈の動き、「ふと彼女を見る」仕草の素晴らしさ。門脇麦にもたれかかる小松菜奈の体の重みと髪の質感。

彼女がなぜ泣くのか映画は説明することはないが、彼女の孤独やこれまでの家庭環境や、彼女を巡る様々が自然と伝わる。映画とはそういうことだと思う。

映画が説明すること、説明しないこと、説明ではないこと。

 

二人は、成田凌が運転する自動車を降りると、即座に違う方向へと歩き出す。彼は二人に「○時に現地で」と声をかける。そのシーンがラストで繰り返される。観客のほとんどは彼女たちが「解散しない」ことを心から願っている。そして塩田明彦は多様な感情を繊細に映し出しながら、しかし絶対的な一つの結論に映画を導く。

 

その結論を導いたのは、音楽を介して門脇麦と小松菜奈の保護、被保護的な関係が次第に逆転していったからかもしれない。

浮浪者が水商売風の女性(刺青!)の肩を揉むエピソードが感動的なのは、門脇麦が小松菜奈の強さに気づくからだし、彼女は私に保護されることなど求めていない、私が彼女に保護されている、あるいは何かをもらっていることに気づくからだ。

 

あるいは二人の歌に感動し、テレビカメラの前で思わず二人の歌を口ずさむ女子高生二人組なのかもしれない。

二人は肩を寄せ合いイヤフォンを共有し「ハルレオ」の歌を聞く。その姿はまるでいつかの「ハルレオ」の二人であって、彼女たちは「ハルレオ」から何かを受け取り二人で共有し、そして何かを「ハルレオ」に届けたのだ。この街にたくさんいるだろう娘たち、その中の1組をふと捉えたかのような函館の夜景が美しい。

 

そうしたあれこれが、映画が設えたあれこれが、門脇麦と小松菜奈に決断させたのだ。違う方向へと歩き出しながら、しかし私たちは同じ場所に戻る。人と人が支え合うこと、あるいは一人で生きていくこと。

盛り上がる。映画の飛躍とはこれだ。高橋洋は「強い高揚感を持って物語は終わらなきゃいかん」と言う。アルドリッチである。素晴らしい。

 

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備忘録的に酷かった映画を挙げる。

 

「マイ・ブックショップ」

ある女性が田舎で本屋を開くが、地域の有力者と反目し本屋を辞める、という話。

 

この話の何が面白いんだ。

しかもラストは憤懣やる方ない。糞映画。

 

で、感想は以上なのだが、あまりにも雑なので、もちょっと話を続けると、まず本屋自体が全く魅力的でないのが致命的。彼女が空き家を本屋に改装するシーンなど意味のない移動ショットを数ショット、オーバーラップでつなぎ、要するにただのイメージ。彼女のワクワク感伝わった?伝わんねーよ。もっと真面目にやれよ。

 

「シンプル・フェイバー」

見はじめてから、原作(ダーシー・ベル『ささやかな頼み』)を読んだことがあるのに気づいた。それは「ゴーン・ガール」にインスパイアされた新人作家のど糞本だった。

 

流石にこれじゃあかんやろと、アナ・ケンドリック演じる主婦をいい人に仕立て上げ、悪役ブレイク・ライヴリーと対立する構造に脚色しているのだが、そもそも彼女は相当気色が悪い主婦という設定なので、いちいち無理が出る。

しかもアナ・ケンドリックの芝居が小賢しい。

肩をすくめる仕草がこんなにウザい女はいねーな。

むしろ小娘アナ・ケンドリックに対するブレイク・ライヴリーの色っぽさに肩入れしたくなるのだが、これは映画としてどうなのか。

 

「バイス」

前に観た「記者たち 衝撃と畏怖の真実」を子ブッシュの副大統領ディック・チェイニーの目から見たような映画で、チェイニーの悪辣な姿をブラックユーモアで描くというもの。

ところが、この悪辣さをユーモラスに描く意味がまるでない。もっと真面目にやれよ。

さらにナレーションを何とか埋めようとする、くだらない絵の羅列で全編ができており、こんなもん映画じゃねーよ。

 

あと物凄い評判はいいが、ダメだったのが

 

「ファーストマン」

これまたイメージの羅列に終始し具体がない。アップと主観ショットだけの映像は見るに耐えず、久々に開始10分で出ようと思った。「何も楽しくない、苦痛、観るのが嫌、そして次第に腹が立ち、月面のパンショットで激怒したのだ」とTwitterには書いたが、もう忘れた。

 

と、相当酷かった4作。

 

次の二作はまぁ楽しめたのではあるが。

 

「ラ・ヨローナ 〜泣く女〜」

幽霊とエクソシストとのバトルが眼目の「死霊館」シリーズの番外編。

最近やけに目にするリンダ・カーデリーニが主演。「シンプル・フェイバー」にも出てたらしいが、映画で観るのは「ブロークバック・マウンテン」以来。何してたんだ。何はともあれ「ER」組の活躍は嬉しい。

それとエクソシストに扮するレイモンド・クルツなるおっさんの顔がいい。

 

映画自体はまぁまぁ。

「死霊館」シリーズのようなミステリー風味もなく、前半は幽霊がいろいろ悪さをするのを見せ、後半はアクションといういつものアメリカンホラー。シンプルなエクソシストものに徹した潔さ、と言えなくもないが、クライマックスを水辺に設定しないあたり、いかにも志が低い。

 

「ザ・フォーリナー 復讐者」

バカにしてた男が実はえらい凄腕で、とんでもないのを敵に回してしまったという話。

これは痛快。

 

ところが全然痛快じゃない。かなり重い話な上、敵方の話が延々と続くので、俺の観たいジャッキー・チェンはいつ出てくるのか、と。

そもそもジャッキー・チェンがいなくても話が成立するじゃん、と。

 

とはいえ、ジャッキー・チェンがアクションを繰り広げると、途端に血が湧き胸がすく。

何だよ、これだけでいいじゃん。もっとアクションを信じろよ。

 

 

かつて四方田犬彦は嫌いな作家を列挙し「私は映画が嫌いだ」と呟いた。

そして好きな作家を列挙し「私は映画が好きだ」と呟いた。

それは今度な。

 

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ラピュタで久々に加藤泰を観た。

昔々観ていたのだが、こうも凄いとは思わなかった。

 

ひょこひょこと妙な歩き方で山道を行く三國連太郎をローアングルで捉えたショットで映画は始まるのだが、まず、その山道の捉え方がドキュメンタリー風、どこか異様な雰囲気。「股旅物」にありがちな男二人の気楽な旅じゃないぞ、と。

 

そして、いろいろあって、中村錦之助は生まれ故郷の村で、妙な色気を醸し出す長谷川裕見子と出会う。二人のラブシーンが凄かった。

 

カメラはゆっくりと移動しながら自分の身の上を語り合う中村錦之助と長谷川裕見子を捉える。二人は立ち上がり後景へと身を移す。ここまでが1カットの長回し。

錦之助が銃で撃たれた痛みに耐えをかねて上がり框に倒れ込むと、錦之助を真横から捉えたローアングルへとカットが割れる。続いて同軸上にカメラがポン寄り、寝そべる錦之助を長谷川が覗き込み、二人の視点は真逆に重なることとなる。

そして錦之助が立ち上がり、長谷川は奥の居間へと後ずさる。長谷川を追う錦之助をトラックバックするアップショットと、トラックアップする長谷川のアップを切り返す。そして錦之助が長谷川を抱き寄せキスをするアップにつなぐ。

 

いがみ合う男女が動き回りキスへと至るという、いかにもマキノ的な、舞踏的なシーンであってもおかしくはないのだが、錦之助の切羽詰まった表情と、前後退移動するアップショットの迫力、そして唐突なキスは、むしろこの映画の2年前に公開された中平康の「狂った果実」での裕次郎と北原三枝のラブシーンや、大島の「青春残酷物語」、吉田喜重の「嵐を呼ぶ十八人」でのレイプシーンを思い出させる。

蓮實御大が「日本侠花伝」について指摘したような、ななめに交錯する視点で二人はキスすることになるのだが、このシーンが持つ熱情、エロティシズムは時代劇の約束をはるかに超えている。

 

加藤泰は「この映画に出てくる奴が、皆、僕の打ち込めるやつばかりだった」と言っているのだが、まさにこの映画が描く中村錦之助は単なるずるい奴であり、チンピラで、太陽族や松竹ヌーヴェルバーグの若者たちと変わらない。

錦之助は出戻りの長谷川裕見子の色気に欲情し、丘さとみの体を見つめ、何をしでかすか自分でもわからない。そして村人たちへの憎しみを抱きながら、ほとんど気まぐれに、場の雰囲気に流されるように村を守ろうとするのだ。

 

そして、キスをするアップショットに続いて、戸口が開き三國連太郎が帰ってくるバストショットがつながる。

二人のキスを目撃したのだろう、入ろうか入るまいか戸惑う三國の様子を捉え、カメラが切り返すと、既に錦之助と長谷川は離れ、錦之助は画面中景の柱にもたれかかり、長谷川は後景で背中を見せている。

 

三國の長めのアップを挿入しているから二人の位置が異なっていても決してつなぎ間違いではないのだが、持続的でリアリスティックなつなぎから、立ち位置をしっかりと定めた構図主義的なショットの挿入はどこか奇異な感じをもたらす。持続したショットと断片的なショットの並置。

この奇異な感じはどこか鈴木清順を思い出させるというと言い過ぎだろうか。あるいは後年の「炎のごとく」や「日本侠花伝」で見られる実験的なショットの萌芽のように思えるのだがどうか。

 

加藤泰は本作を「自分としても最初の仕事らしい仕事」と言う。本作以前の「源氏九郎颯爽記」や子供映画「忍術児雷也」ですらしっかりと面白いのだが、加藤泰がこう言うのは、ローアングル、同時録音、ノーメイクといった後年の加藤泰を特徴づける技術を初めて徹底したというだけではなく、後年の作品につながる自身の作家性を無意識に表せたからかもしれない。

 

そしてラスト、進藤英太郎ら悪党連中の死骸が転がり、三國連太郎と錦之助が呆然と坐りこむ1ショット。加藤泰の長い固定画面が続く。

しかし例えば「遊侠一匹」の雪の夜の固定画面のような鮮明さや叙情はそこにはなく、スモークのように土埃がもうもうと画面を覆い全てが不可視の領域にある中、二人は無表情のまま視線を交わせもしないし、錦之助は立ち上がり、その足だけをカメラに示す。

続いて映画は、中村錦之助が村から旅立つ、いかにも「股旅物」のラストにふさわしい、空を大きく開けたローアングルのショットを用意するのだが、時すでに遅し。前のショットが、このラストショットの通俗を無効にする。

 

加藤泰は「股旅物」「長谷川伸的世界」といった保守的な題材、紋切り型の時代劇を題材にしながら、当時のヌーヴェルヴァーグに呼応するような革新的、実験的な作家であった。その過激さは山下耕作的な審美性、あるいは自身、加藤泰的な叙情性といった「美しさ」をも消滅させるだろう。

はぐらかされた「美しさ」の前で、だから蓮實重彦は「なんのように美しいかを比喩に語らせることしか残されてはいない」と言うのだ。

 

「風と女と旅鴉」1958年/東映京都/白黒/90分

■監督:加藤泰/脚本:成澤昌茂/撮影:坪井誠/美術:井川徳道/音楽:木下忠司
■出演:中村錦之助、三國連太郎、丘さとみ、長谷川裕見子、薄田研二、進藤英太郎、加藤嘉、殿山泰司、星十郎、河野秋武、上田吉二郎

 

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備忘録的に、神保町シアターで3本。

 

「ある落日」

岡田茉莉子と森雅之の不倫関係にしつこく絡む高橋貞二。三角関係というわけでもない。

という辛気臭い話。いたって真面目。面白いわけでない。高橋貞二の婚約者が朝丘雪路。

 

「樋口一葉」

遊郭の塀が開かれ、はね橋がかかる。それをキリキリと引っ張る、いかにもヤクザ風情の男がいい。

高峰秀子はそれを渡ろうとし、ふと振り返る。子供たちが彼女を見送っているのが見える。寂しくもあり楽しくもある精一杯の笑みを浮かべる高峰秀子。その煽りショット。彼女が塀の向こうに消えると、カメラが右に移動し、吉原の豪華な全景が広がる。

この映画を観た者なら誰もが心に留める素晴らしいシーンなのだが、しょーじき、これだけじゃないすか。

 

冒頭、水芭蕉を捉えた固定ショットが30秒近く続くのに驚き、このテンポで続くのかと絶望的になった。

私はそれなりに古い日本映画を観ている者だと思うが、いかにも古い。

高峰秀子が出ているシーンだけが溌剌としていて、あとは、結構辛かった。

 

「東京の恋人」

千葉泰樹でこの出演者、このタイトルなら鉄板だろーと思って観たが、これもキツかった。

 

例えば、杉葉子扮する夜の女が客を求め街を彷徨うシーン。彼女の横移動、後ろ姿のトラックアップから、俯瞰の固定画面へと続くシークエンスなど、いかにもしっかりしているし、三船と原節子が出会う鏡の使い方などもいい。

いいとこいっぱいあるのは千葉泰樹だから当然なのだが、杉葉子を巡る人情ネタと指輪を巡るドタバタ劇が水と油で、どうも盛り上がらない。

 

というわけで私にはちょっと辛い三本だったのだが、巷では割と評判がいいみたいで、ホントですか?

古い日本映画への郷愁が「映画」より優ってる気がするのだがどうか。どうも困った。


 

「ある落日」1959年松竹大船/1時間34分

監督:大庭秀雄/原作:井上靖/脚本:大庭秀雄、光畑碩郎/撮影:長岡博之/音楽:池田正義/美術:芳野尹孝

出演:岡田茉莉子、森雅之、高橋貞二、伊藤雄之助、朝丘雪路、渡辺文雄

 

「樋口一葉」1939年東宝/1時間23分

監督:並木鏡太郎/脚本:八住利雄/撮影:伊藤武夫/美術:久保一雄/音楽:菅原明朗

出演:山田五十鈴、高峰秀子、堤真佐子、高田稔、英百合子

 

「東京の恋人」1952年東宝/1時間37分

監督:千葉泰樹/脚本:井手俊郎、吉田二三夫/撮影:飯村正/音楽:飯田信夫/美術:北猛夫、浜上兵衛

出演:原節子、三船敏郎、杉葉子、小泉博、森繁久彌、清川虹子、河村黎吉、飯田蝶子

 

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人生の友人にして、師。イーストウッド。

 

しかし、そもそもイーストウッドはネタ、企画の人である。

拙ブログで何度も言っているが、イーストウッドは少年ジャンプみたいな人であって、おもろいネタ、絵になるネタがあれば飛びつく人である。

 

今回は爺さんが麻薬の運び屋をする、というネタの直球勝負。

自分がヨボヨボの姿を見せれば絵になる、という人生の自虐ネタである。

宇宙に行く爺さんより、もっとボヨった爺さんが麻薬を運ぶ。痛快である。そして映画はそのまんま、あなたが映画を見る前に期待した通りのまんまである。

痛快としか言いようがない。

 

爺さんはニグロと言い、タコス野郎と言い、麻薬王に「何人殺した?」と問いかけ、3Pを楽しみ、鼻歌を歌いながら車を走らせる。痛快である。

しかし痛快であるとともに、イーストウッドがこんなに軽さを見せたことがこれまでにあっただろうか、と思う。

イーストウッドはむしろ被虐的な人であった。誰かに貶められ、サノバビッチと呟く人であったはずだ。

 

あるいはイーストウッドは乗り物に乗らない人であった。

蓮實御大がキネ旬に寄稿していると聞き、久々にキネ旬を立ち読みしたら「乗りもの」をキーワードにイーストウッドを評している文章を読んだ。

その文章が何を書いているかは立ち読みした限りなのでどうでもいいのだが、イーストウッド映画にあって乗り物は常に中断と停止を余儀無くされる。

 

え?映画のクライマックス全部戦闘機に乗ってたじゃん。

馬鹿者、あれはスタンドインに決まってんだろ。あの映画の素晴らしさは戦闘機に乗り込む直前の、あの素晴らしいイーストウッド歩きにあった。

無数の銃弾を受けるバスは果たして乗り物としての爽快感を有していたか。西部劇にあっての馬は列車にたやすく追い抜かされ、自動車は砂嵐の中で事故るか、乗り捨てられるか、乗り遅れるか、あるいは故障し「修理はあと3日先」とハンク・ウォーデン(!)に簡単にあしらわれるだけだ。その時のイーストウッドの苦虫を潰したような顔!

 

ところが「運び屋」のイーストウッドは軽い、そして車を乗りこなす。

これまでの自己イメージを越え、自虐的なまでにボヨった自分を見せ、自動車を軽々と乗りこなす映画である。クライマックスでは久々にイーストウッド的空撮さえみせてくれる。

痛快である。

 

痛快なまま、この映画はどこに着地するのだろうと思う。まさかこのまま逃げ切るわけじゃあるまいと思っていると、イーストウッドは水筒を抱えよろよろとダイナーに入っていく。自分のことを追っている麻薬捜査官がたまたまそこにいる。盛り上がる。するとイーストウッドは何事もないかのように自分の人生を話し始める。ブロンコ・ビリーであり、ジョン・マッキンタイヤではないか。たまげ、泣いた。そしてシルエットの横顔に、ゴダールのような好々爺風情にさめざめと泣いた。

絵になるネタを撮る。映画はそれでいい、それだけでいいんだとイーストウッドは教えてくれる。

 

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いろいろ観た。

 

「記者たち 衝撃と畏怖の真実」

9.11を受け世論の大半がイラクへの軍事介入を支持する中、それに異を唱えるジャーナリスト。おお鉄板ネタじゃん。と思うのだが、どうも冴えない。

そもそも、最終兵器がイラクにあるという誤った情報にブッシュ政権が踊らされたのか、ブッシュ政権は単に戦争をしたかっただけなのかが、今だによくわからない。

後者に沿って陰謀論まがいの糾弾をするならば映画は盛り上がるだろうが、そうもいかず。というジレンマがこの映画を弱くしているように思う。

ロブ・ライナーはこの手のジャーナリズム映画の常道を流石に上手くまとめてはいるのだが、どうも盛り上がらない。

 

スピルバーグの「ペンタゴン・ペーパーズ」でも感じたのだが、ネタ自体がやはりかの「大統領の陰謀」に負ける。盛り上がらない、ってのはいかんんともし難いのだが、ま、そーゆーものだ。

 

じゃ黒人差別ネタ「ブラック・クランズマン」はどうか。ネタは鉄板だろうと思うのだが、これも盛り上がらない。

何でこんな美味しいサスペンスを何んでこんな不手際に見せちゃうかね、と。

悪いやつは悪い、でいいじゃんと思うのだが、そう単純なものではない、と作家さんスパイク・リーは言うのだ。

冒頭から真実と虚構の二重性についてのアレコレが展開し、それがサスペンスを減じ、時折、お話自体もよくわからなくなる。

 

じゃ、アイスランドはどうだ。やけに評判のいい「たちあがる女」というのを観た。

環境テロリストを描いた映画なのだが、何をしたいのかまるでわからん。

環境テロリストが追っ手から逃れコトを成す、おお「ブラックサンデー」じゃん。つまり立派な、あるいは普通にサスペンス映画だと思うのだが、そうではないらしい。

環境テロリストが何をするか、ではなく、何を考えているか、環境テロリストの人となり(生き様、とも言う)が問題であるらしい。とはいえ、彼女が何を信奉しているか、彼女の主義主張について語られることはなく、ただなんか一生懸命な中年女性がいるばかりで、行動のみの人「ブラックサンデー」のマルテ・ケラーとは真逆である。

そんなもんどうだっていいじゃんと私は思うが、そうではないらしく、いろいろと彼女の人となりを映画は描き出していき、その中で演出は、劇伴を演奏するミュージシャンが画面内に登場する、というアイデアを思いつく。

それがどうした。一体、何をしたいのだ。メタ映画趣向なのは結構だが、それは面白いのか、テーマと絡んだ表現だとでも言いたいのか。

私にはこじゃれた演出、肝心を隠す姑息な演出としか思えなかった。もっと真面目にやってくれないか。

 

じゃ、デンマークではどうか。ネタはあるのか。これまたやけに評判のいい「THE GUILTY」というのを観た。

ラリー・コーエン原案による大傑作「セルラー」(ちなみに「フォーン・ブース」は全然ダメです)を彷彿とさせる電話だけで持たせる密室ネタ。アイデアと演出が求められるネタだが大丈夫か。

大丈夫ではなかった。そもそもネタがつまらん。というか、ネタなし、に等しい。

電話の声は途切れることで尺を持たせているだけで、何もサスペンスにつながるネタがない。挙句に、サスペンスではない人間ドラマ風が展開され、終わる。がっかり。

 

その点、韓国映画は偉い。

ネタ満載、なんていうと怒られそうだが、やっぱ強い。ネタ一本、真っ向勝負。

韓国民主化闘争を描いた「タクシー運転手 約束は海を越えて」も「弁護人」も「1987、ある闘いの真実」もどえらく盛り上がる。

ネタが強いと、それ一本で十分なわけで、妙な作家性などいらぬ。しかもそのネタをあの手この手で盛り上げる。カーチェイスまであったりする。

これは負けるわ、と思う。映画はネタだね。

 

と思ったら、もっとどえらいものを観た。

 

「運び屋」に決まっておる。イーストウッド。人生の友人にして、師。

 

明後日に続く。

 

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と、言うこと書くこと思うことすべて非生産的なので、映画をみてる間中ずっと「じゃ面白い短編って何だよ」と考えていた。

いわゆるショートムービーとして流通している作品の中には感動するようなものもある。例えば感動的な1分CMなんていっぱいある。「聖教新聞」のCMは感動的だ。しかし、これは「映画」ではなく、お話である。

「面白い短編」を作るには、まず物語を構築しないこと。短編が物語を語ると、即座に陳腐化する。

あるいは1シーンを切り取る。あなたが撮りたい映画の、撮りたい1シーンを切り取る。とか。

 

で思い出したのが、ゴダールの「シャルロットとジュール」であった。これは要するに「女の子の可愛い仕草」とわけわかんない言葉を撮っただけの映画であった。

お話はある。ジャン・ポール・ベルモントが別れた彼女とよりを戻そうと口説きまくる、という話なのだが、ベルモントは口説きつつ、愛について映画について、とにかく喋りまくるのだ。

まず「女の子の可愛い仕草」が「映画」であることに自覚的であること、そしてそれを更に昇華させようという試みであり、つまり「女の子の可愛い仕草」をいかに映画に設えるかについての映画であった。だから面白く素晴らしいのだが、本作の女性監督たちの映画は「仕草」ではなく「仕草をする私」の映画でしかなかった。それはつまらん。

 

というわけで、いよいよ山戸結希「離ればなれの花々へ」である。

圧倒的に素晴らしいのは、ここには少女三人の仕草しかなく、また言葉しかないからだ。ゴダールである。

 

「シャルロットとジュール」と同様にお話はある。

少女たち三人は地球に生まれ落ちる前の空間に生きており、誕生してからの自分について語りまくる、という話。まずその設定が素晴らしい。わかりやすく、叙情的で、広がりがある。いくらでも膨らむ。

彼女たちは母として、子供として、映画監督として、単なる女性として、ほとんどカットごとにその役割を自在に変えていき、観客は自由に彼女たちを受け止める。全ての自由が観客には与えられている。

 

また他の監督たちと同様にメッセージもある。いやメッセージに満ちている。

夕刻となり、彼女たちの姿も暗く、次第に曖昧になっていく。その中で山戸結希は「21世紀の女の子」が21世紀の映画を撮ることを宣言する。

その薄暗い風景は、母の胎内から生み出される瞬間、地球へと生まれつく瞬間が近づいていること、そして彼女たちと観客との別れが近づいていることを予感させる。

あるいは「21世紀の女の子」たちが撮るであろう全く新しい映画がこの映画の先にあること、薄暮の先にあることを予感させるのだ。

 

その高揚感と山戸結希の映画が終わることの寂しさ。

男性優位の社会にあっても、決して絶望することはない力強い山戸結希の姿に圧倒される。絶望しないのは「女の子だけが本当の映画を撮れる」と山戸結希が信じているからだ。

極めて明確なメッセージであり、アジテーションであり、素晴らしいのは、それが観客の全てに開かれていることだ。他の女性監督のように「仕草をする私」「私の感性」に閉じていない。

それはこの映画を主導した者に与えられた特権かもしれない。ちょっとズルい、かもしれない。

ともかく、「女の子だけが本当の映画を撮れる」こと。

 

ヌーヴェルヴァーグは映画の革命だった。カサヴェテスは映画の革命だった。

素人が映画を撮ること、スタジオを離れ街に出ること。トリュフォーは「華氏451」で、ロケに繰り出すスタッフの多さに絶望し、これでは本当の映画は撮れないと言った。60年代初頭、ヌーヴェルヴァーグとは素人だけが本当の映画を撮ることだった。

それがつまり映画の「運動」である。個々の作家を超えた映画の運動である。その昔、高橋実は「フィルムノワールとは映画の運動である」と喝破した。

 

そして21世紀は「女の子だけが本当の映画を撮れる」のだ。

男性が主導する既製概念に囚われた映画ではない、真に21世紀の映画を監督すること。

私は未だ撮られたことのない「21世紀の女の子」の映画を観たいと思う。山戸結希の映画を観たいと思う。

 

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まず、個々の作品について。

その感想を述べることに意味があるのかとも感じつつ、しかしそれぞれの女性監督は「21世紀の女の子」ではなく、自分たちの撮った「なんとか」という作について語ってもらいたいに違いない。

しかし「21世紀の女の子」という映画は10数人の女性監督たちのショーケースとしての場なのか。

それについては最後に山戸結希が答えるだろう。

 

安川有果「ミューズ」

ある作家とその妻の話。作家は妻を紋切り型の女性イメージでしか捉えておらず、妻はそこから自由になりたくて、という話を、二人を第三者的に見つめる女性を設定し展開する。

これって女性に限定的な不自由なの?単にそういう男と付き合ってるだけなんじゃ…、と思うが、ま、それはいい。このお話自体が面白いかどうかも、ま、いいのだが、抑圧された妻の姿が、物語の帰結として、いわば小粋な落ち風に明かされるのがつまらない。

また意識的に視線を混乱させるように、冒頭のシーンでは彼女のアップと作家の妻のロングショットが切り返される、室内でも離れた場所で座る二人がアップで切り返されるなどの演出も物語に程よく収まるばかりで、いまひとつ意味がわからない。

 

竹内里紗「Mirror」

「21世紀の女の子」というより、人物の動きや目線を職人的、成瀬風に演出するのが心地よく、山戸結希を除いて、最も面白かった。

例えば、モデルの女性が帰るのをカメラマンが見送ろうとフレームアウト、次のカットでは二人の声をオフでかぶせ、もう一人の女性が写真を見つめるウエストショットとなる。やがてカメラマンがフレームインする。見送る動きを省略し二人だけの空間を作り上げる演出が見事。

と、そういうことしか見てなくて、話はまるでわからなかったのではあるが。

 

山中瑶子「回転てん子とどりーむ母ちゃん」

意味不明。

 

東佳苗「out of fashion」

あんなに魅力的だった憧れの先輩が就職してつまんなくなった、なんて話を今更見せられても、面白いわけなかろう。

主演の娘が80年代オリーブ少女(!)みたいだったのを含めて、悪い意味で妙に懐かしい学生映画風。

 

金子由里奈「projection」

意味不明。この辺で、「21世紀の女の子」にはカメラマンしかいないのか、と思い始める。

 

松本花奈「愛はどこにも消えない」

時制を変えるなど、物語の展開に意を尽くしてはいるが、「あの人が好きだぁ」と言ってるだけ。

その素直さが逆に面白い。シンプルに「好き」(あるいは「好きだった」)と言い続けること。

映画はそんな単純なメッセージでいいのかもしれぬ。

竹内里紗に次いで面白かったのだが、どうも中年親父ライクなチョイスではある。

 

坂本ユカリ「reborn」

メロドラマちっくな雨の中の切り返しがちょっと面白かったが、あとは意味不明。

 

加藤綾佳「粘膜」

セックスについての映画なのだろうが、それを「粘膜」に表するあたりの露悪さが陳腐。カタツムリって…。

 

首藤凜「I wanna be your cat」

意味不明だったが、喋りまくる男女の姿が面白いのかどうなのか。竹内里紗くらいの演出を見せて欲しかった。

 

ふくだももこ「セフレとセックスレス」

セフレがセックスをしなくなったら愛が芽生える、かもしれない、という陳腐な艶笑譚(!)。タイトルを見た瞬間全てがわかってしまう退屈。

 

井樫彩「君のシーツ」

意味不明。自分の感性を映画に昇華し得ておらず、単に露悪的な表現に止まっている印象。

 

夏都愛未「珊瑚樹」

「性同一性障害の人物と彼を好きになる少女たちの三角関係」らしいのだが、全く伝わらず。

 

枝優花「恋愛乾燥剤」

ドラえもん的な発明ネタ。いかにも良くできてそうな短編風で始まるのだが、話になっていない。

 

玉川桜「エンドロールアニメーション」

エンドロールを追いかけていて、視線はアニメにいかなかった。ちょっと可哀想ではある。

 

どうも感想が非生産的で申し訳ないのだが、相当きつかったのだから仕方がない。

次は何を見せてくれんだろうというワクワク感が全くなく、まぁだ続くのかよ、何人いんだよと、次第に腹が立ってきた。

 

明日につづく。

 

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「われ一粒の麦なれど」

 

木下恵介と松山善三は嫌い。じゃ行くなよって話だが、とりあえずしっかりはしてるので、ま、行く。

でもやっぱつまらぬ。

「ごく普通の人でも英雄になれる」という話なのだが、そのごく普通ぶりがわざとらしい。いかにもそーゆー風に設えました感がうざい。

さらに木下門下のドラマツルギーなのかどうか、一面的な悪役を用意するわけだが、これが今回は小児麻痺を患った男。屈折した設定なので、いつものように単に悪いとするわけにもいかず、じゃ、ってんで、どういうわけかのホラー演出。これがはっきり言って笑える。イライラしながら笑える。

松山善三ってこういうホラーチックな演出を時々するんだが、上手いんだか苦肉の策なのか、どうも安易。

というわけで、言ってることは立派だが、師匠・恵介の「死闘の伝説」みたいな怪作です。

ちなみに森繁が特別出演。

 

「われ一粒の麦なれど」

1964年(S39)/東京映画/白黒/108分

■監督・脚本:松山善三/撮影:村井博/美術:狩野健/音楽:佐藤勝

■出演:高峰秀子、水谷良重、木村功、大村崑、大辻伺郎、田崎潤、田中春男、菅井きん、下元勉、市原悦子、岡村文子、名古屋章、浜村純

 

「女難コースを突破せよ」

 

「出世コースに進路をとれ」に次ぐ、サラリーマン喜劇の第二作、らしい。

こういう全く知らない映画が面白いと、名画座巡りが一層楽しくなるのだが、そう簡単にいかないのがプログラムピクチャーの凄さではある。

 

全シーンつまらぬ。

よーするに、小林桂樹と宝田明と高島忠夫がアドリブ交えて面白いコトするだろう、とあてにしていてシナリオも演出も特に何もしないでいた、という。

筧正典って数本しか見てないけど、ダメな時の力の抜け具合が凄いな、何もしないんだもん。

と見ていたら、最後の最後にちょっと驚いた。以下、ネタバレ。

 

植木等が特別出演。ちょっと「おお」となった。でも出てるだけ。筧正典は特に何もしない。ただ撮ってた。

これはネタバレでもなんでもないが、団令子史上、最も団令子の顔が丸い。

 

「女難コースを突破せよ」

1962年(S37)/東宝/カラー/83分

■監督:筧正典/脚本:長瀬喜伴/撮影:玉井正夫/美術:阿久根巌/音楽:松井八郎

■出演:宝田明、高島忠夫、団令子、中島そのみ、中真千子、水野久美、柳家金語楼、植木等、左卜全、森川信、有島一郎