映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ともかく私は、映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる壮麗な徴たちの飽和…。(オリヴェイラ)

三女・華子(門脇麦)は未だ到着していないが一族が集う会食は既に始まっていて、その場にいない三女についての会話が続いている。中居に案内され三女が部屋に入ってきて席につくが、一同の視線は扉に向けられたままで、やがて三女の後から誰も入って来ないことを確認し、次女は「婚約者はいらっしゃらないの?」と三女に問いかける。それを契機に不在の婚約者について一同は話し合い、さらにこれから華子が出会うであろう男性についての話が続く。

 

このエピソードが示すように、この映画はそこにはいない誰かを巡って物語が展開する。

そもそも第1章ではもう一人の主人公、美紀(水原希子)が、第2章では華子が不在であり、またこの二人をつなぐ良家の御曹司、幸一郎もその存在は希薄で、二人の関係性の中にしか存在しないように思える。不在の男性を中心に据えた二人の女性の物語。

このような不在者を巡る物語は奇妙な緊張感と物語への期待をもたらす。

 

例えば華子と幸一郎が初めて出会うシーン。

華子は格式ある屋敷のフレンチレストランに赴く。華子がタクシーを降りると玄関先に男性がおり、彼女も観客もこの男性が華子を待つ男性であろうかと思う。ところがその期待ははぐらかされ、彼は別の女性と去り、華子は屋敷の中に入っていく。

 

階段を上る彼女の後ろ姿を捉えたカメラは、踊り場で彼女の正面へと位置を変える。

続いて、彼女の主観ショット風にレストランの入り口をゆっくりと前進移動するカメラに、華子がフレームインする。そのままカメラは彼女の後ろ姿を捉えていき、目当てのテーブルに華子が案内されると、既に座っていた男性が立ち上がり彼女を迎える。

華子はこの男と結婚するであろう、少なくとも彼はこれからの物語を左右するキーパーソンとなるであろうことを、彼と出会う以前から、私たち観客もそして華子も予感している。

 

ゴダールはアストリュックを評し「(描かれている舞台装置の外側にある)二万平方キロメートルの中で構想され、書かれ、演出されている」と語る。ゴダールが比喩する空間の広さや距離を、時間や物語といった言葉に置き換えてもいい。

優れた映画には、目に見える画面の背後に、目に見えない物語や時間が重なっている。主人公として設定された人物の思惑や感情や心理を表象するだけではない、大きな物語が語られている。

 

正直、「階級社会」から自立しようとする女性たち、といった紋切り型の物語を語り始める後半はやや退屈だ。

しかし、上流階級の格式ある所作や、お嬢様が時折見せる「はしたない」所作(ジャムをなめる華子)は古き日本映画への郷愁を誘うし、端正なカット割りや大胆な省略(華子は唐突に離婚を告げる)はやはり面白い。

 

また、「めまい」「レベッカ」や「ローラ殺人事件」「炎のごとく」といった不在者を巡る恋愛映画としてだけではなく、成瀬やラングのような画面の裏側で暗躍する人物が常に見え隠れする物語、主人公たちの運命を支配する不在者を巡る物語を、階級社会の問題と結びつけてもいいだろう。

「あの人たちが世の中を動かしている」というセリフが、この恋愛映画の中にあって私たちをゾッとさせるのは、不在者がつかの間顕在化し、私たちの運命を左右していることを示しているからだ。

 

小さなホールでの音楽会で、全員が演者を見つめる中、華子と幸一郎だけが演者から視線を外し、互いに視線を切り結ぶ。じっと幸一郎を見つめる華子のウエストショットでこの映画は終わるのだが、私たちは語られることのない二人の未来や、語られなかった二人の過去のある日がそこにあることを感じる。

そしてようやく華子は、不在者としてではなく、実在の存在として幸一郎を見つめるのだ。

 

 

 

一方、瀬田なつきの新作「ジオラマボーイ・パノラマガール」はどうか。

30年ぶりのウォン・カーウァイは素晴らしくカッコよく新しかったが、こちらは恐ろしく古く退屈だった。

 

岡崎京子の原作はウォン・カーウァイのデビューより前、バブル真っ只中に発表されており、だからなのか。

 

それもある。

 

パーティーやタクシーや「お金が目的で風俗してるわけじゃないの私」的女子大生やパン屋襲撃やシティーホテルで朝までブギーバックみたいな世界観がすごいバブリーである。今の若い子もこんな感じなの?

 

よくわからないので、それはさておいて、なぜ古いと感じたのかの考察を進めるが、例えばこういうシーンがある。

ある少年が急な坂道を自転車で登る。カメラは坂道の上から彼をやや俯瞰気味に捉えるのだが、彼は必死でペダルを踏みなんとか坂道を登りきる。その後景では女子高生や男性サラリーマンが早々に自転車を諦め、自転車を押して歩き出している。

 

このシーンは、学校に遅刻しそうになり慌ただしく身支度を整える少女のシークエンスとカットバックされ、つまり二人はいかにも少女マンガの紋切り型を演じることとなる。しかし彼らは曲がり角でぶつかりもせず視線させ合わさず、ただすれ違うのだが、この定型のずらしがいかにも80年代ポストモダンで、これまたバブリーな感じがするのだが、それはともかく、このシーンのダサい感じ、嫌な感じは、女子高生や男性サラリーマンを配置し少年と対比させる、映画の通俗的な演出を何の疑問もなく踏襲しているからだ。

 

そんなことで少年の性格なり人となりなりなりなりを示せるわけではないことくらいは流石にわかっているだろうし、単なる微笑ましいエピソードを軽く映画の序盤に持ってきただけで、こうイチャモンをつけられても困るだけかもしれない。

 

しかし例えば、ゴキブリの群れを発見し、二人がダンスのように逃げ惑うシーン。私が見たTwitterでは、またぞろ「多幸感」なるキーワードでこのシーンが評されていたのだが、この「多幸感」表現の陳腐さ。「多幸感」を示すために、ゴキブリや自転車を押して歩き出す女子高生や男性サラリーマンを用意する面倒臭さ。頑張ってます感。

「パルコ」が「ハルコ」だとか、もうこういうのよくないですか。

 

私のセンチメンタルな友人(コロナ禍でちょっと心配)は「ヒロインを、映画が終わるまでにどれだけ好きになれるか、どれだけチャーミングに見れるか。まるで田畑智子か河合美智子のように溌剌としてどんどんチャーミングに見えてくる。あのオザケンから渋谷のクラブ、ここの二人のライバル女子のシーン凄くいい、その後のタクシーまで、神がってる」とまで言うのだが、80年代あたりから延々と続く表現を何の疑問もなく、あるいはこれこそ映画原理とでもいうように踏襲しての「多幸感」演出に辟易とする。

面倒な説明を背景にはしゃぐ少女を捉えて「多幸感」だとか「瑞々しい」とか、年頃の娘を持つ私は、日本映画のロリ的感性にほとんど怒りさえ覚える。

 

10年ほど前、突如ジャック・ロジェが復活上映され、シネフィル連がこぞって褒めたことがあった。その時のキーワードも「多幸感」であったのだが、私は「映画が始まってからえんえんえんえん笑っている馬鹿娘どもにむかつき」、つまり可愛い女の子がふらふら歩いたりはしゃいでんのを撮ってるだけで「映画」になるわけねーじゃん。

森崎を観ろ、加藤泰を観ろ、彼らが描く若者たちがどんなに必死になって幸福になろうとしていたか。なんてのはもはや中年後期の繰り言か。

 

そもそも、この手の「多幸感」映画、「瑞々しく眩い映画」を私が単に苦手なだけかもしれない。

勝手にやってくれ、と思う。

お父さんお母さんがどれだけ心配してると思ってんの、と説教したくなる私に、この映画を観る資格はないのかもしれぬ。

でも、えらく退屈だったんだもの。30年ぶりのウォン・カーウァイの方が全然新しく、カッコよく、若かったんだもの。

「欲望の翼」「楽園の瑕 終極版」「天使の涙」「ブエノスアイレス」「花様年華」を観たわけだが、あえてカーウァイ・ベストを作ると

1/欲望の翼

2/花様年華

3/ブエノスアイレス

4/恋する惑星

5/グランド・マスター

6/楽園の瑕 終極版

7/マイ・ブルーベリー・ナイツ

といったところか。デビュー作「いますぐ抱きしめたい」は多分未見。香港映画ブームの頃にVHSで観たかもしれない。

というわけで、やはり「欲望の翼」が最も素晴らしく。

 

マギー・チャンはレスリー・チャンに結婚を迫るが、レスリーは「俺は君にふさわしくない」と紋切り風にそれを断る。一方、カリーナ・ラウのわがままには、手を焼きながらも彼はそれを許していく。

ほとんど対となるこのシーンは、狭い部屋の多くを占めるベッドを挟み、鏡を介した長い2つのショットから成る。カーウァイは彼らの動きと、それに対応するカメラを厳格に定め、ロングからアップを一続きで収める相当長い1ショットを展開する。

一見、審美的でありながら決して構図主義的、美学的な画面は構成されず、カメラや照明はあくまでも芝居に対して設定される。その論理的なアプローチと、野放図に動きまわる若者たち。

 

それは、彼らが見せる即興的な芝居を、なんとか映画として構成しようという無謀な挑戦に他ならず、カーウァイの不遜な作家性とは裏腹に、若者たちを前にした彼の絶望は相当深いように思う。

 

私は彼らを撮りたいと思うが、彼らは何をしでかすかわからない。もはやどんな物語かも忘れてしまった。審美的でキャッチーな絵作りはクリストファー・ドイルが勝手にしたことであって、私はただ、なんとか彼らを撮ろうとしただけだ。

この絶望と、それでも彼らに近づこうという禁欲的なアプローチがゆえに「欲望の翼」はひたすらカッコいい、美しい。

 

ラストで唐突にトニー・レオンが登場する。「傷だらけの天使」のショーケンのように、トニー・レオンを固定画面で捉えた長い1ショットなのだが、ウィキでは「前後篇二部構成の予定だったが予算とスケジュールを前編で使い切ってしまい、本作のみが完成した。ラストシーンで唐突に登場するトニー・レオンは、後編の主人公となる予定だった」とある。

一見、カーウァイの傲岸不遜を示すエピソードではある。しかしこのショットもえらくカッコいい。

 

傲岸不遜な表情の陰で、カーウァイは絶望的にカメラを廻したのだ。

カメラの前でレスリー・チャンやカリーナ・ラウは、カーウァイの絶望など何一つ知らないまま、ほとんど映画を無視してただ嬉々として踊っているようだ。

トニー・レオンはキャッチーな楽曲に合わせて身支度を整え、カーウァイはここしかない場所にカメラを据え、カットを割ることも忘れて彼らを撮り続ける。素晴らしくカッコいい。

ウォン・カーウァイが初めて注目されたのは、1991年の第4回東京国際映画祭の「欲望の翼」の時で、というのは真っ赤な嘘で、この時、注目されたのは圧倒的にエドワード・ヤンの「牯嶺街少年殺人事件」であった。カーウァイに注目した人もいただろうが、蓮實総長を師と仰ぐシネフィル連は圧倒的にエドワード・ヤンであったし、カーウァイの名が一般的となった1994年「恋する惑星」も、金城武を一躍有名にした第1部は単に「つまらねぇ」であり、あのキュートなフェイ・ウォンの第二部は「カリフォルニア・ドリーミングだけじゃん」というわけで、ウォン・カーウァイの評価はブルータス、ポパイあたりでは大絶賛だったが、蓮實総長を師と仰ぐシネフィル連にとっては「映画をダメにする輩」扱いであった。

ホントっすか?いやマジでホントなんだよ。

 

というわけで、私はあの高名な「ブエノスアイレス」「花様年華」は見てさえおらず、2007年「マイ・ブルーベリー・ナイツ」 2013年「グランド・マスター」には極めて冷たい扱いであった。だって仕方がない、「映画をダメにする輩」だったんだもの。

ホントっすか?いやマジでホントなんだよ。

 

しかし、令和の世を迎え、なぜか池袋文芸座でのウォン・カーウァイ特集。

私は、ここに初めてウォン・カーウァイ、面白いじゃん、すげぇじゃん、かっちょええ、となったのであった。

 

ウォン・カーウァイがなぜ「映画をダメにする輩」扱いであったかというと、まずクリストファー・ドイルのケバケバしい色使いの非古典的なルックであり、音楽を重視し音楽に追随したカッティングであり、何より、それらが審美化され、スペクタクル化されていることで、描かれる若者たちの内実が糊塗されていると感じたからだ。

 

ところが30年ぶりのウォン・カーウァイは決してそうではなかった。

若者たちの内実や生はそもそもが薄く、非論理的で、根拠がなく、唐突で、だから素晴らしく人間的で、素晴らしく若い。

カーウァイはそんな若者たちを、何をしでかすかわからない若者たちの姿を、映画の原理に抗い、あるいは準拠しながら、ただありのままに捉えようと図るのだ。

 

次回は「欲望の翼」でそこんとこを詳しく語る。

ずっと書いていなかったマイクル・コナリーについて。

水準以上のクオリティであるとはいえ、あまりパッとしない。

凡百のミステリーより全然面白いことは前提としてだが、

28作目「贖罪の街」がまぁ良し、27作目「燃える部屋」29作目「訣別」がそのちょっと下。

 

と思ってたら、30作目「レイトショー」がなんと新キャラで、女性刑事、しかもここ10年で最も面白いコナリーであった。やっぱ侮れず。

 

マイクル・コナリー完全攻略 24「転落の街」

過去の強姦殺人事件と仇敵アービィングの息子の転落事件が並行して語られるのだが、最後に絡み合うのかと思っていたら、全く別個だったので驚き、かつ不満。

 

マイクル・コナリー完全攻略 25「ブラックボックス」

ロス暴動の時に起こった、ボッシュが出会った最初の未解決事件を探るというもので、これは気合が入ってじゃん、と思わせるんだが、割と薄口だった気が。

すみません、忘れた。

 

マイクル・コナリー完全攻略 26「罪責の神々 リンカーン弁護士」

凶悪犯を釈放せざるを得なくなるジレンマや、中盤で主人公が抱く疑念について全くおざなりであるなど、最近のボッシュものにも見られる「雑さ」が目立つし、シンプルな謎解きに落ち着くのもつまらない。リンカーン弁護士ものでも下位の出来。

 

マイクル・コナリー完全攻略 27「燃える部屋」

ボッシュが未解決事件班に属してようやく、古きLAを遡る、傑作「シティ・オブ・ボーンズ」のような都市小説の趣がでてきた。懐かしのメンツに言及されるのも嬉しい。あとはもちろん細部よし話よしの流石のコナリー・クオリティ。 ただラストが慌ただしい。以前のコナリーならもう一発大ネタをかますとこだろうが、どうも軽い。無理に結末をつけ話を終わらせたような薄さ。最近のコナリーらしいといえばらしいんだけど。

 

マイクル・コナリー完全攻略 28「贖罪の街」

近年は雑さも目立っていたが、ベトナム戦争や幼児期のトラウマ、市警本部長との確執から放たれて以降、つまりハードボイルドを離れ、より警察小説に傾いたボッシュものでは「終決者たち」に次ぐ面白さ。

 

謎が次第に解かれていくサスペンスと、法手続きや市警組織との確執などの煩雑な事柄を併せて描くドキュメンタリー、それがボッシュ・シリーズの面白さだと思うが、本作は両者のバランスが素晴らしいし、犯人側の反撃、裁判劇、ハラーとの対立と道具立ても豊富。

ただアクションで事を終わらすのは少々、安易か。

 

マイクル・コナリー完全攻略 29「訣別」

大富豪から依頼を受けるシーンからはじまるザッツ・ハードボイルドとプチ・サイコサスペンスの二本立て。後者は「プチ」ながらミッシングリンクのお膳立てが整っていてミステリとして流石の出来。前者については、大組織との対決を期待しているとがっかりする展開となり、ラストに向かって失速する。

 

ただ、ボッシュのベトナム戦争ネタが再燃するのに驚いた。コニー・スティーブンスを巡るエピソードやベトナム料理を巡る父娘の口論などなかなかに感動的で、軽くはあるがシリーズ初期の作を思い出し興味深くはあった。

 

マイクル・コナリー完全攻略 30「レイトショー」

夜勤刑事でモジュラー型といえば、リーロイ・パウダー警部補だが、モジュラー型はあまり好きではなく、かのリューインとはいえ、パウダーものはちょっと辛い。しかし、コナリーのそれはそれぞれの事件の連関に工夫があり、またその連関が物語をグルーヴさせるのが素晴らしい。

 

本作もトランスジェンダーの殴打事件とクラブでの乱射事件、クレジットカードの盗難の3つが微妙に繋がりあい、繋がるたびに新たな謎が浮かび、物語が新たな様相を示す。特に、事件の謎を探るのではなく、警察内スパイ小説とでもいうべき展開になるあたりがコナリーの真骨頂。

 

家を持たず、愛犬と浜辺で暮らすハワイ出身の夜勤の女性刑事、上司との軋轢があり、夜勤へと左遷され、という個性的なキャラは、初期のボッシュを思わせる、そして今のボッシュが失ったハードボイルドな魅力に溢れている。

 

これは、2007年の「終結者たち」以来の傑作だし、コナリーの中でも相当な出来かと思う。解説を読むと、新たなヒロインとボッシュの共演作もあるらしいし、これはまたまた楽しみになってきた!

「アルプススタンドのはしの方」に座る二人の女の子と一人の男の子。少し離れた位置に立つメガネの女の子。

この4人を正面から捉えたロングショットにメインタイトルが入った瞬間ちょっとゾクゾクし、こういう映画の興奮は久しぶりだと思ったのだが、その後が続かない。

 

基本的に彼らの会話をゆっくり移動する長回しで捉え、ある感情の瞬間や動きが変化する瞬間で、カットを割り、アップや切り返しのロングにつなげる。これがほぼこの映画の基本戦略なのだが、まず長回しの移動に意味がない。イメージだけの移動でしかない、時間稼ぎの移動でしかない。

そして長回しがちょっと持たないかなくらいのレベルでカットが割れる。そのカットを割る手つきがいかにも官僚的で、この感情を、この表情をアップで観たい、あるいは物語のこの瞬間を大切にしたい、という作家的、あるいは職人的な意思を感じない。ここでカットを割ればつながる、くらいのレベルでしかない。しかも時につながっていない。

 

そもそも「アルプススタンドのはしの方」だけで映画を成立させよ、とは誰も言っておらず、方法論だけが先行し、だから登場人物たちは光がピカピカ当たった屋外にさらされ、試合の状況を説明したり、自分の感情や主張(「頑張った人は報われる」)をただ説明するだけだ。

 

むしろ「アルプススタンドの」中、緑に向かって開かれた半室内である通路に観るべきシーンが多いのは、その証左であって、光に対する意識のない絵作りはひたすら退屈で、時折、彼、彼女に風があたりその髪を揺らしたりするものの、それが特権的な位置を占めることはなく、このような貧しい画面の中で、彼らは言葉で表現するに足る限定的、断定的な感情を示すにとどまり、人間的な、複雑な、言語化できない何かを示すことはない。

 

てか、なんで試合シーンを見せないの?

 

女の子も男の子もクライマックスでやたら試合について説明してくれるのだが、試合シーン見せたほうが早くないですか?その方が盛り上がんないすか?

 

彼らは状況を説明するために「アルプススタンドのはしの方」にいるわけではない。自分の感情やテーマを説明するためにいるわけでもない。

彼らが「アルプススタンドのはしの方」にいなければならないのは、作者たちの単なるエゴによる。つまらぬ。

 

次に洋画篇。

流石、ハリウッド。メイキングなどは徹底したものが多々出ていて、どれもこれも面白いが、

 

■トッド・マッカーシー「ハワード・ホークス」

ホークスの伝記。幼少期から監督作一本一本を丁寧に記した大著。ちなみに梅本洋一訳のホークスのインタビュー本は誤訳だらけのクソ本。

 

■ロジャー・コーマン「私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか」

コーマンの自伝。意外と堅実なのが楽しい。シェリー・ウィンタースはコーマンについて「大きな映画を作ることには自信がなかった」と語っているが、マキノにしろ、こういう職人さん、いい加減に映画を撮る人の話は超面白いね。

 

そういう意味で、

■トリュフォー「ある映画の物語」

「華氏451」のメイキング。トリュフォーとオスカー・ウェルナーとの確執が面白く、映画製作のいい加減さがよくわかる。「間に合わせの芸術」とトリュフォーは言う。

 

一方で、

■ヒッチコック/トリュフォー「映画術」

■ドナルド・スポトー「ヒッチコック 映画と生涯」

■スティーブン・レベロ「メイキング オブ サイコ」

ヒッチコックの嫌なやつ、セクハラじじい、サイコパスぶりには驚き、一方でその緻密極まりない演出にさらに驚ろかされる。

 

■「メイキング オブ エイリアン」

公開当時、雑誌「バラエティ」にクリス・フォスやロン・ウェブによる宇宙船などのイラストやコンセプトアートが載ったことがある。40年後にそれらに再会できるとは。

そのようなイラスト、図版も豊富に楽しめる上、「エイリアン」の企画から完成、公開までの詳細きわまりないメイキングが実に興味深い。

驚いたのは、アルドリッチが監督する可能性が高かったことと、ウォルター・ヒルの役割の大きさ。オバノンが「ウォルター?一体何をしてたのかね」とクサしていたのを読んだ覚えがあるのだが。

 

■シドニー・ルメット「メイキング・ムービー」

ルメットが書いた演出指南書といった感じ。映画哲学や社会を語るのではなく、極めて具体的に映画製作の実際を語ってくれる。

 

■「ディレクティング・ザ・フィルム」

これも同様。様々な古今東西の映画監督による実際的な言葉集。

 

■ジョン・アーヴィング「マイ・ムービー・ビジネス」

これは珍しい。ラッセ・ハルストレムの傑作「サイダーハウスルール」の映画製作、主に脚本作りを原作者が語る。

アーヴィングはあまり文句をいうこともなく、様々な監督によるシナリオ作業と、ハリウッドビジネスを静かに見つめる。

 

■スティーブン・バック「ファイナル・カット」

通常のメイキングなら悪役になることが多い、スタジオの人間から見た、かの「天国の門」の舞台裏。

巨大ビジネスとしての映画業界が見れるのも面白いが、ユナイテッド・アーティスツを倒産に追いやったチミノの完全主義者ぶり、放蕩三昧ぶりが凄い。

 

■「マスターズ オブ ライト」

撮影監督へのインタビュー集。専門的、技術的な記述が多いが、それでも、というかだからこそ楽しめる。

 

以上、つらつら挙げてみた。

中でベスト3を無理くりあげると

 

■ヒッチコック/トリュフォー「映画術」

■「映画監督 神代辰巳」

■蓮實重彦「監督 小津安二郎」

 

ってことになるが、これじゃ、あまりにも普通すぎて面白くないので、

 

■スティーブン・バック「ファイナル・カット」

■ドナルド・スポトー「ヒッチコック 映画と生涯」

■ロジャー・コーマン「私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか」

■「市川雷蔵とその時代」

■高橋洋「映画の魔」

 

でどうでしょう。

 

次はインタビュー、メイキング本。日本篇。

 

映画作家自身の言葉や、映画のメイキング本は大抵面白いのだが、中でも

 

■大森一樹「making of オレンジロード急行」

中学3年生の春に観た、大森一樹のメジャーデビュー作「オレンジロード急行」はデパルマの「愛のメモリー」と並んで、私の人生を決めた一本。これはそのメイキングで、何度読み返したかわからない。

20そこそこの新人監督にも関わらず、この屈託のなさに、中坊の私は映画って素晴らしいと思ったのだった。

 

■田草川浩「黒澤明vsハリウッド」

「トラトラトラ」での黒澤の降板劇をつぶさに描き、単純にワイドショー的に面白い。

「デルスウザーラ」のメイキング「樹海の迷宮」などを読んでも、かの世界のクロサワですらこんなに大変なのね、と思う。「俺は今まで満足のいくショットが全く撮れてない」と大巨匠は泣くのだ。

黒澤本はやたらあるのだが、人間的な弱さが垣間見れる本作が一番面白いと思うがどうか。

 

■「大島渚 1960/1968」

その点、大島は幸福だ。自分の作品を語る大島の言葉は常に明晰で、論理的で、黒澤が陥った「迷宮」でさえコントロールしてしまうのだ。

 

■「加藤泰映画華」

加藤泰って講演集とか結構出てるんだが、正直、あんまり面白くなくって、だからガイド本に近い本作か、未映画化作が並んだシナリオ集が最も面白い。「好色一代女」は凄いよ。

 

■「成瀬巳喜男 演出術」

成瀬演出を俳優と脚本家へのインタビューで紐解いた本。俳優は成瀬を絶賛するが、脚本家は愚痴を垂れまくるのが面白い。

堀川弘通は「評伝 黒澤明」の中で成瀬の撮影を、「こんな状態を映画的というのだろうか」と半ば呆れているのだが、成瀬の現場はスタッフ自体はあまり面白くなかったみたいね。要するに職人さんなんだね。

 

■「市川雷蔵とその時代」

雷蔵をめぐる本というよりは、役者、監督、スタッフへのインタビューを通じて大映の50年代、60年代を活写した本。面白いに決まってる。

特に勝新へのインタビューが最高に笑える。

例えば、森一生のエピソード。「「今、何時?」「5時です」「あ、そう。じゃあカット!はい、おつかれ」1分後にはいなくなってるね」。なんて語りながら、あの「警視K」にさえ森一生を起用するんだから、相当買ってたんだろうけど。

 

■千葉伸夫「評伝山中貞雄」

加藤泰による評伝ももちろん素晴らしいが、より詳しいこちらを挙げておく。加藤泰のは叙情的、青春映画っぽいのね。

 

■竹中労「鞍馬天狗のおじさんは」

マキノの「映画渡世」は無論面白いが、アラカンの方が無茶苦茶。笑えるのはこっち。

 

■「映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法」

深作、笠原和夫、岡本喜八、清順と、監督へのインタビュー本は山ほどあるが、澤井信一郎が最も理論的に演出を語ってくれる。

笠原インタビューは、映画ってより裏昭和史と監督への愚痴本。

 

■和田誠「新人監督日記」

「麻雀放浪記」のメイキング。澤井信一郎とのシナリオ作業から公開までを簡潔にまとめた一冊。

 

■「映画監督 神代辰巳」

増村や中川信夫、前述した岡本喜八、清順など、●●監督全映画と称する本の集大成。ヒッチコック「映画術」と並んで、ベスト・オブ・ベスト映画本ではなかろうか。

 

ちなみに日本映画監督のインタビュー、メイキングに類する本は多々あり、そのどれもが面白いんだが、唯一、小津がつまらないってのは何でだろう?

蓮實御大の評論だけが突出していて、あとは小津日記とか、川本三郎、中野翠と死屍累々。誰かちゃんとしたメイキングを出してくれないだろうか。

 

次は洋画編。

 

なんとなくノってきたので、映画の本ベストも挙げる。

 

まずは評論、批評、映画エッセイ篇。

 

■双葉十三郎「映画の学校」

■小林信彦「われわれはなぜ映画館にいるのか」

■植草甚一「ヒッチコック万歳」

■和田誠/山田宏一「たかが映画じゃないか」

この4冊で私は育った。

特に「映画の学校」に収められた「疑惑の影」批評は、映画ってこんな風に観るのか、とショットの概念を教えてくれた。

 

■蓮實重彦「監督 小津安二郎」「シネマの扇動装置」「映像の詩学」「ゴダール マネ フーコー」

大学に入ってからはやはり御大。みんな読んでたし、みんな影響を受けてた。「ゴダール マネ フーコー」は最近読んだのだが、やはり恐ろしく面白かった。

 

■黒沢清「映像のカリスマ」「映画はおそろしい」

■高橋洋「映画の魔」

実作者の批評は面白い。共に語り口がユーモラスなのもいい、ユーモラスというか、屈折してるのな。黒沢清の本はどれも面白いが「サンダンス滞在日記」の載った本作を。

 

■菊地秀行「怪奇映画ぎゃらりぃ」

これはDVD初期の頃に読み、輸入DVDを買う時に参考にした一冊。

今でこそ有名なカルト作、ハーク・ハーヴェイ「Carnival of Souls」(「恐怖の足跡」)やジョン・パーカー「Dementia(Daughter of Horror)」(「恐怖の足跡 ビギニング」なんつう邦題だ)を初めて知った。

 

昔は映画評論をやたら読んだもんだが、最近は全く読まなくなってしまった。

蓮實系ティマティズムとか、この手のはもういいっすよ元総長。

ってのと、頭が硬くなってしまったからだ、発見することが億劫になってしまった。発見なんてもうないよ、つうのもある。

 

御大のジョン・フォード論、「ショット」論には期待しているが、どうなんでしょう。

中では「川島雄三は二度生まれる」が面白かったが、いやでもね、実際に川島雄三を観るほうが面白いわけでさ。

 

じゃ何が面白いのか。

というわけで、まだまだ続く。

 

ブログをはじめて私が最も進化したことは、谷崎潤一郎にはまったこと。

谷崎潤一郎を発見したのだよ、私は。

 

基本、私はミステリーしか読まず、いわゆる純文学ってのがどういうものかよくわかっていないし、谷崎が純文学がどうかもよくわからない。

ただ、ひたすら大谷崎は面白い。ワクワクする。小説を読むことの愉しさがつまっている。

 

去年、多くの作を読み返し、特に「細雪」「蓼食う虫」「瘋癲老人日記」「春琴抄」がやはりずば抜けて凄かったので、読書メーターに書いたメモを再録。

 

「細雪」

叙情を排した即物的で論理的な言葉の連なり、澱のように沈殿する生理的な嫌悪感、心地いい擬音の響き、計算されたユーモア、視点の変換、そして「ふん」。

ロメールは谷崎のようにホン・サンスは谷崎のように川島は谷崎のようにホークスは谷崎のようにブレッソンは谷崎のように素晴らしい。そして成瀬と小津は谷崎のように素晴らしく、谷崎は成瀬と小津のように素晴らしい。大谷崎、特に「細雪」は年に一度は読み返さねばならぬ。なぜなら、ただただ面白いからだ。

物語を語る言葉ではなく、言葉が物語を語ること。小説を読むことのすべての快楽。

 

「瘋癲老人日記」

文学の主要テーマであろう生と死、そして谷崎の「性」までもが、薬品名やその服用量、血圧や体温などの数値に置き換えられ、その厳粛さは微塵もない。

ただ狂騒的な笑いが全編を覆い、クライマックスは血圧を告げる看護婦の「容易ナラヌ表情」で締められ大笑い。大傑作。ブニュエル。呆れた。

 

「蓼食う虫」

優柔不断な夫婦が交わす会話は「理詰めに持って行き過ぎ」る論理的なものだが、どこに向かうともしれず宙吊りのままおかれる。

しかし巻半ばで夫が旅に出ると、彼の言葉は論理を欠く、浄瑠璃や町の美しさを語る情緒的でノスタルジックな言葉に変容する。この唐突だが周到に仕組まれた変容と語られる言葉の美しさ、多幸感、終幕のエロティック。

論理を超えた圧倒的な美しさに翻弄され、彼は心を惹かれつつある義父の妾を「人形より外にはない」と結ぶ。

 

「春琴抄」

作者らしき人物が春琴の墓を訪ねる冒頭から、谷崎は様々な仕掛けを設け物語を語る。大谷崎の豊穣な物語性。その中で谷崎は聴覚に限定した美しさ、音の美を言語化する。

全編の基調となる三味線、鶯や雲雀の鳴き声、浪速言葉、古文、そして話し言葉で綴られる饒舌体。その果てに「春琴は一語を発し長い間黙念と沈思していた佐助は此の世に生まれてから後にも先にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかった」という感動的な一文に出会う。これは、沈黙という音の美しさを発見するまでの物語なのだった。

 

マゾヒズム、耽美、悪魔性、谷崎にまとわりつくそれら紋切り型はひとまず忘れよう。映画がショットで語る物語なら、谷崎は言葉こそが語る物語だ。素晴らしく美しい。

 

 

というわけでコロナに負けず、国の無能無策に負けず、頑張ろう!