わが師ドン・シーゲル/主に「突破口!」について | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ドン・シーゲルは、映画の面白さを中学生の私に教えてくれた恩人の一人である。

だからドン・シーゲルといえば何よりも「ダーティー・ハリー」であり「突破口」であり「アルカトラズ」であり、そして「突撃隊」と「殺人者たち」である。こう書くだけで涙が出る。

 

それはともかく、「Stranger」という新しくできた映画館でドン・シーゲル監督作を4本(「第十一号監房の暴動」「突破口!」「ドラブル」「殺人者たち」)観た。スクリーンで観るのは初めてだったが、何度も見てる映画である、のんびり楽しもうと思っていたが、さすが人生の師、発見があり驚きがある、のんびりしてるどころではない。

 

ドン・シーゲルといえばシャープな構図、スピーディで暴力的なカッティングである。というと何か言ってそうで何も言ってないのだが、ドン・シーゲルといえばそうなのだ。

 

例えば「第十一号監房の暴動」で暴動が起こるまでのほんのわずかの間。看守たちが襲われる瞬間を、監房2階の回廊と階段を切り取った斜め位置のシャープな構図、監房を捉えた本作の象徴とも言える縦構図をカットバック、さらに続いて、逃げる看守を追うトラックアップから、再び縦構図へ戻ると、既に暴動は勃発しており、監房の廊下は囚人で覆い尽くされている。

あっという間、一瞬のうちに全てが起こる。この的確さを人は「シャープでスピーディで暴力的」というのだ。

 

例えば「殺人者たち」。モーテルの一室にジョン・カサヴェテスとアンジー・ディキンソンが入ってくる。明かりをつけると、裏切ったはずのロナルド・レーガンが拳銃を手に立っており、ディキンソンはレーガンに「早くやって(殺して)」と言う。その言葉を聞いて即座にレーガンは拳銃を撃つ。そのウエストショット。次にカメラは室内から戸外、戸口を真横から捉えた位置に入り、室内から戸外へと吹っ飛ばされるカサヴェテスの姿を捉える。

この2ショットの素早さ。単にカットの尺が短いのではなく、この上なく的確でありながら、かつ思いがけない、予想がつかないカットの連鎖。それがドンだ。

 

しかし今回驚いたのは、意外に長いカット撮ってるじゃんドン、ということだった。

意外に長いカットを撮る男ドン。驚いた。

 

いや、そう長かない、計っちゃいないが長くて2、3分、長いカットを撮る、のではなく、1シーンを1カットで済ませてしまっている、と言い換えてもいい。

 

「突破口!」の、これは有名なシーンだと思うが、銀行の支店長ノーマン・フェルと、その頭取ジョン・バーノンが野原で語らうシーン。これは長い。車を止め、牧場の門扉で二人が語らう。バーノンは門扉の上に登って座り、フェルに語りかける。二人の高低差を如実に表す切り返しによって、この長いワンカットは終わる。

 

車から降りた二人をフォローして右に横移動

ノーマン・フェルがジョン・バーノンに近づくのに合わせてトラックアップ

ここまで1カット。

次のカットがいかにもシーゲル的な高低差のある視線

 

あるいは、銀行を襲って逃げる途中で、ウォルター・マッソーらはクリーム色のセダンから、用意していた仕事用のバンに乗り換える。バンのリアドアは既に開いていて、まずアンディ・ロビンソンがバンに乗り込む。マッソーは札束の詰まった鞄をロビンソンに渡し、ロビンソンはそれをバンの中に置かれた樽に詰めていく。マッソーがロビンソンに「火薬を撒くよう」に命じると、マッソーとロビンソンの役割が入れ替わる。マッソーがバンに乗り込み、カモフラージュするため札束の上に農薬の入った袋を押し込んでいく。カメラはゆっくりとズームし(画質が荒くなるので、もしかしたら現像段階でのブローアップかもしれない)マッソーを捉えていくと、後景でセダンに火薬を撒くロビンソンがフレームインする。そこまで1カット。長い。

 

ハリウッド映画が1カメでこのカットだけ撮ったなんてことはないのだろうが、このカット切れねーな、と思う。

マッソーとロビンソンのプロフェッショナルらしい動き、即物的な動きが素晴らしい、だから切れない、というのが大きな理由だろう。黒沢清は「持続する1カットの醍醐味」と言う。

 

しかし、もう一つ考えられるのは、カットを割るのが面倒臭い、撮影するのに時間がかかる、ということだ。

 

バン後部での金の詰め替え作業を撮影する。バンの後ろから撮るか、運転席側からか、あるいはサイドに回って窓越しに撮るか。作業が最もよくわかるのは後ろからだから、まずこれをマスターショットとする。

サイドのカメラはBカメとして回してもいいがバンの窓は小さいし、そもそもバンに窓がついていたかどうか。

運転席側から撮るとなると、作業工程を一からやり直すことになる。面倒臭いし、二人が同じ演技を同じタイミングでやってくれないとつながらない。

よし、このシーンはこの1カットを撮れば良い。余計なカットは撮る必要がない。

 

イーストウッドは、ドン・シーゲルから、早撮り、合理的な撮影方法を学んだという。それを初めて聞いた時は、なぁんだ、と思いはしたのだが、それは確実に間違いで、合理的な撮影方法とはつまりその人の作家性に直結する。

 

こんなもんでいいだろう、ではなく、これでいいだろうと決断すること。これだけでいいカットを撮影すること。合理的である。それが長かろうと短かろうと同じことだ。

 

例えば、「殺人者たち」でクルー・ギャラガーが殺されるシーンもホテルの入口を俯瞰気味に捉えた1カットのみだった。何が起こったのかわからないほどの一瞬で彼は死に、リー・マービンは重傷を負う。短い1カットで全てを描くこと。これは、ドン・シーゲルにとって、長い1カットで全てを描くことと同義である。

 

この1カットのどこに何を挿入しろというのか。私はこれしかないカットを撮る。それが長い場合もあれば短い場合もある。

その潔さが撮影のリズムを作り、映画のリズムを作る。暴力で映画が敷き詰められる。

 

ところがこういうカットも観た。

「ドラブル」でマイケル・ケインが観光バスに乗り込みイギリスに不法入国するシーンがある。ケインは観光バスの後ろの方の座席にうずくまっている。観光客が乗り込んでくる。乗り込み、後ろの座席へ移動する一人のおばさんをバスの外、窓越しに捉えていく。手持ちカメラがおばさんをフォローし、やがてバスの最後部の座席に座るおばさんを捉えると、やっとケインが座席に座るのがみえる。ここまで長い1カット。

 

このカットは、正直、わけがわからない。ドン・シーゲルの中ではゆるゆるの一編だというのもあるが、これはサスペンスを狙ったのだろうか?そもそも何で必要なシーン、カットなのかもわからない。

 

わからないまま映画は過ぎ、水車小屋での階段上下の銃撃戦と、そのあっけない結末に驚いた。

結局、マイケル・ケインとジョン”ドラブル”バーノンは視線を交わしたことがあったのだろうか。ウォルター・マッソーはジョン”頭取”バーノンともジョー・ドン・ベイカーとも視線を合わさないまま映画を終えた。

ドン・シーゲルの男たちは上下で視線を交わす、あるいは全く視線を合わさない。相手が盲人の場合だってあるのだが、これはまた別の話。

 

視線を合わさぬ男たち

   

 

とりあえず観光バスの長い1カットの意味がわからないので、久々に蓮實先生の「映像の詩学」を紐解いた。「ドラブル」について筆を多く割いていたが、「シーゲルと水」について書くばかりで、まるで水っけのないこの1カットの謎は深まるばかりであった。

 

しかし蓮實は書く。「意義深い細部の時間を超えた居すわりと不意の連繋とが物語の経済的な論理を刻々と裏切って行く」。

よくわからんが、長かろうと短かろうと、ドン・シーゲルは「シャープでスピーディで暴力的」な男として映画史に君臨し、今なお少年たちをしびれさせているわけだ。