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「遠い山なみの光」

 “A PALE VIEW OF HILLS”

  (2025/日本=イギリス=ポーランド/ギャガ)

 

 監督:石川慶

 原作カズオ・イシグロ

 脚本:石川慶

 

 広瀬すず 二階堂ふみ 吉田羊 カミラ・アイコ

 柴田理恵 渡辺大知 鈴木碧桜 松下浩平 三浦友和

 

 おすすめ度…★★★☆☆ 満足度…★★★★★

 

 

 
ここでは作品の重要なキーとなるある視点について完全ネタバレを前提に考察します。
これから初めて本作をご覧になる方はお気をつけください。
 
ずっと楽しみにしていて公開直後にスクリーンで観た本作。
 
間違いなく鑑賞後の考察が要となる難しい作品ゆえか、レビュー等でも賛否があるのは仕方ないところ。
 
個人的にはその完成度の高さに驚くとともに、さらに考察が必要なシーンが多々思い浮かんだこともあって、時期を見てもう一度スクリーンで観ておきたいと思った。
 
そのうちに地元のミニシアターでも遅れて上映されることが分かり、慌てなくてもいいかと様子を見ていたらシネコンの上映は終了してしまった。
二度目の鑑賞は作品の多重構造も含めて、基本的な人間関係と種明かしもすべて知ったうえで、改めてヒロイン悦子の視点を意識してスクリーンと対峙してみたかった。
 
実は前回の記事では吉田羊演じるイギリスで暮らす80年代の悦子の視点はあえて無視してというか、結果的に一切触れずに悦子と佐知子の関係性を中心に考察しました。
 
しかし今回は悦子=佐知子という大前提を知ったうえで観ることで、結果としてイギリスに渡った悦子と娘ニキの関係性が浮き彫りになり、まったく違った視点でストーリーを追うことができました。
 
簡単に言えばこの作品のテーマは「人は変わる」なんだとことなんだと思います。
それは悦子にとっての過去の自分との決別であり、いまを生きる自分をもう一度再生するために必要な時間でもあった。
 
さらに次女のニキにしても、母悦子が語る長崎の日々を物語としてトレースすることで、亡き姉景子に抱いていた劣等感を払しょくし、そして自らも母になる決心を確かなものにする作業でもありました。
 
前回の鑑賞時にはさらりと聞いていた悦子が義父に語った「緒方さんも変わらんば」の意味が今回はすっきりと伝わりました。
 
物語はイギリスの寝室で横になる悦子のシーンで始まります。
きっとあの時も「赤いブラウス」の自分が草むらを駆ける悪夢を見ていたのでしょう。
 
直後に映像は戦後の長崎での悦子のシーンに飛びます。
このとき悦子が見ていた古いバスケットタイプの中にもう答えは出ていました。
 
中にはあの頃憧れていた外国製の小物や白人女性の写真などがぎっしり詰まっていました。
すでに海外へ思いを馳せていた悦子の夢がそこにはしまい込んでいたのですね。
 
悦子が団地の窓際から川向うに見た米兵と一緒の女性は佐知子ではない他の誰かだったのでしょうか。
 
夫の二郎と暮らす団地での生活は確かに悦子の記憶であるが、バラックで暮らす佐知子と万里子の暮らしもまた夫と別れた節子と成長した景子の生活の記憶そのものだった。
 
二郎と別れた理由はやはり自らが被爆者であることを隠していたからか、あるいは仕事優先の夫に何か問題が生じたのか、映画ではあえてその過程は語られない。
 
運命のあの日、夕刻の橋を渡っていく人影を見た悦子が何かを察して川向うのバラックへと駆け出していく。
そのバラックを前に遠い山なみの光を背にした悦子が何か覚悟を決めたようにして踏み出していく映像は何度観てもゾクッとする瞬間だ。
 
バラックの中では急きょアメリカに旅立つことになったと荷づくりを急ぐ佐知子は悦子が追ってきた人影など知らないと言い切る。
一方で飼い猫も連れていくと懇願する万里子にそんなものは捨てていけと突き放し、ついには子猫の入った木箱ごと川へ沈めてしまう。
 
あれは悦子の記憶が混とんとしていたのか、それともすべてを捨てて海を越える決心をした彼女の逡巡なのか。
 
思えばあれだけの家財道具一式を女一人で大きなバッグに詰めて持ち運ぶなんてできっこない。
すべてを捨ててでもアメリカに行こうとするならば着の身着のままでいいではないか。
 
絶望した万里子を追って川辺の草むらを走る悦子はあの赤いブラウス姿だった。
 
そしてイギリスではニキが亡くなった姉景子の部屋であの木箱を発見する。
すべての符号を合わせるように佐知子の姿が悦子の記憶として再現されていくスリリングなクライマックスだ。
 
ラストは自らも母親として生きていくことを決心したニキが母の暮らす家からロンドンに戻っていく。
すでに売却が決まっているその家にニキが戻ってくることはもうないだろう。
 
物語の終わりとともにすべての過去が改めて悦子の記憶の中に封印されて、二人ともこれからの未来を生きるために変わらざるを得ない。
 
改めて観終わるととても希望に満ちたエンディングだったと思う。
初見だとどうしてもミステリアスな展開や難解な時代背景などに振り回されて終わるので仕方ないところだけど。
 
広瀬すずと二階堂ふみの二人の熱演はもちろんのこと、広瀬すずに関してはこの間に「宝島」も観ているので、どうしても広瀬すず寄りの感想になってしまう。
 
本作は戦後の1952年の長崎がベースになっているけれど、実は「宝島」も1952年の沖縄からストーリーが始まっている。
 
世代的には悦子の方が「宝島」のヤマコよりも少し上なのだけれど、悦子はかつて音楽の教師をしていたが原爆投下時に子どもたちを救えなかったという苦しい記憶がある。
 
一方で大人になったヤマコも小学校の先生になるが、その直後に米軍機の墜落事故に見舞われ多くの子どもたちが犠牲になる。
 
確かに変えられない過去の傷かそこにはあって、そういったものを背負ったまま生きていくしかない彼女たちの人生に思いを馳せる時、平和な現代を生きる自分たちには何もできないことを痛感する。
 
確かに過去は変えられない、でも間違いなく未来を変える努力は誰にもできる。
 
そんな思いを新たにした。
 

 前橋シネマハウス シアター0

 

「ふつうの子ども」(2025/murmur)

 

 監督:呉美保

 脚本:高田亮

 

 嶋田鉄太 瑠璃 味元燿大 少路勇介 大熊大貴 長峰くみ

 瀧内公美 金谷真由美 浅野千鶴 風間俊介 蒼井優

 

 おすすめ度…★★☆☆☆ 満足度…★★★☆☆

 

 

 
特に作品についての事前情報もなく、レビュー等で意外と面白そうだと思ってチェック。
 
小学4年生の上田唯士は両親と3人家族のごく普通の10歳の少年。
今日もクラスの生き物係の友人たちと虫を探しながら登校する。
 
授業で「私の毎日」というテーマで作文の発表があり、朝起きてからご飯を食べてうんちをして…と当たり前の日常を読み上げる唯士。
 
そんな中で三宅心愛は地球温暖化について強いメッセージを込めた作文を読み上げ、それを放置してきた「大人の責任」の追及し担任を追い詰める。
凛としたその長い髪の同級生に心を奪われる唯士。
 
いつも教室で一人本を読んでいる彼女の気を引きたい一心で図書館で距離を詰める唯士に気づいて、環境問題の本を貸すようになる心愛。
 
そんな唯士の行動が何ともいじらしいというか、自分の少年時代にもそんなことあったかな?と懐かしく思い出したり、一方でこの世代の女の子の怖さも感じたりする。
 
ここまでは実に子供らしい展開なのだけれど、二人の関係に気づいたクラスの問題児の橋本陽斗が首を突っ込んできたことでストーリーが一変する。
 
環境問題を厳しく追及する心愛の熱さに感化された陽斗が「そのために何をするのか」と煽り、三人の小学4年生のテロ活動が始まる。
 
まず陽斗が見つけてきた住人がいなくなった一軒家に勝手に忍び込んで秘密基地にすると、新聞紙やチラシの文字を切り抜いて地球温暖化に抗議ビラを作ると街中の車や商店街に貼りまくる。
 
さらに牛舎の牛が大量のメタンガスを発することに対して肉を食べるなと肉屋の店頭にロケット花火で攻撃したり、挙句の果てには唯士のひと言をきっかけにある牛舎の鉄柵を壊してしまう。
 
大人目線で見ていると一軒家に忍び込んだ時点で住居侵入、さらに家の中のものを勝手に持ち出す窃盗、車に貼り紙だけでなくマフラーに布を詰める危険行為など、どこを見ても犯罪そのものであり、いつ捕まるかとハラハラする。
 
いやそれ以前にこれは完全な犯罪映画だということに気づき、前半の子どもらしさはすべて消し飛んでしまし、この先三人の暴走はどうなっていくのかと想像して末恐ろしくなっていく。
 
この三人の暴走の中心にいるのが女子生徒心愛というのも怖いし、よくある美しき毒婦に操られる男たちという構図が思い浮かぶ。
 
翌日、唯士たちが壊した牛舎から牛が逃げ出し学校の校庭にも姿を現し大騒ぎとなり、別の牛を避けようとして交通傷害事故まで起こってしまった。
 
学校では全体集会で一連の環境テロ事件について説明があり追い詰められていく三人。
それでも自分たちの行動が社会に影響を与えたと自負する心愛に対して、唯士と陽斗は自分たちがやった事の重大さに気づく。
 
ついに陽斗の告白から事件が明るみになり、唯士と心愛が担任に呼び出される。
室内には母親のそばで泣きじゃくる陽斗の姿があり、唯士と心愛の母親もやってくる。
 
すでに担任役の風間俊介と唯士の母親役で蒼井優というビッグネームが登場していたのも驚いたけれど、ここで心愛の母親役で瀧内公美が初めてスクリーンに姿を現す。
 
その登場のインパクトが見事というか、まるでこの場をすべて支配するラスボスのような佇まいで圧巻だった。
ヤンキー上がりなのか彼女の首元のタトゥーがクローズアップされる瞬間もあって。一方的な言動で担任の進行を無視してその場の空気を変えてしまう。
 
一連の抗議テロを率先してきた陽斗が泣きながら「やらされた」と嘯き、心愛はすべてを認めて「みんなでやった」と腹をくくる。
 
幼い弟たちの面倒を見るいい子だと我が子を擁護する陽斗の母親に対して、徹底的に娘の非を責め続ける心愛の母親の対比、そして相変わらず事なきようにと振る舞う唯士の母親。
 
そんな中で唯士が発したのは「三宅さんが好きだったからやりました」というそもそもの根源的な理由。
 
その場に集う事なかれ主義の校長や担任にしても、この場ではそれぞれの言い分を聞くだけで最終的な判断は上に委ねなければならない。
 
話し合いのあと、担任の指示で学校から連れ立って謝罪に行く一行。
親たちにしても牛との衝突でけがをした運転手の治療費はどうするだとか、牛舎への賠償額はどうなるだとか、結局は子供のケアよりも社会的な問題が優先する。
 
そんな大人たちを尻目に校庭の隅でダンゴムシを探す唯士とそれを一緒に見守る心愛。
結局のところ、親がそうであるように子どもにも子どもの世界がある。
 
唯士と同じ生き物係の友人がトカゲの餌であるワラジムシを探す場面や一連の展開に悩む唯士を駄菓子屋へ誘う女子という子どもらしい映像も忘れてはいけない。
 
唯士役の嶋田鉄太のいかにもザ小4男子というビジュアルがいい味を出しているのと美少女心愛を演じた瑠璃ちゃんの時に末恐ろしさも感じさせる表情は素晴らしかった。
 
特に心愛が陽斗に気があるように感じてしまう唯士が必死に二人の間に入ろうとするいじらしさは同じ男同士として「がんばれ」とエールを送りたくなった。
 
映画の前半で「10歳は大人の半分」という話が出てくる。
確かに大人が二十歳からと考えればそういうことになるんだな。
 

 前橋シネマハウス シアター0

 

先日「金曜ロードショー」で久しぶりに名作「E.T.」が地上波放送された。

 

ちょうどETが仮死状態となり悲しみに暮れるエリオットのシーンから.壮大なファンタジーが繰り広げられるエンディングまでをオンタイムで観た。

 

世代的にはあのETの造形を観るだけでウルウルしてしまうので、すぐにアンブリン・エンターテインメントのクレジットの映像として採用される自転車で空を飛ぶシーンが思い浮かんでしまう。

 

クレジットロゴでは月を背景に夜空を飛ぶ映像なのだけれど、実際の本編では夕刻の空へ舞い上がるというシーンだった。

 

今の人たちがこの作品を観ても安直なファンタジーにしか感じられないのは仕方ないと思う。

 

それでもあの時代に一緒にこの作品のムーブメントを体験できた世代にとっての「E.T.」はいつまでも色あせないSFファンタジーの金字塔であり、スティーヴン・スピルバーグがハリウッドのトップクリエイターとしてその名を刻むことになった名作であることは間違いない。

 

当時の「ET」をめぐるムーブメントがどれほどすごかったのか、今となってはリアル映像も含めてなかなか再現するのは難しい。

 

そんな中で自分が体験した「ET」の時代を振り返ってみた。

 

映画「ET」の日本での公開は1982年12月4日のこと。

本国アメリカの公開日6月11日から実に半年も遅れての公開だったが、当時の日本の映画興行では外国映画の上映としては一般的なサイクルだったと思う。

 

まず1982年12月の公開映画を振り返る。

 

12月3日

「団鬼六 少女木馬責め」(にっかつ)

「温泉芸者 湯舟で一発」(にっかつ)

日活ロマンポルノのプログラムピクチャー。

 

12月4日

 

ET」(東宝東和)

「ラスト・クリスマス」(東宝東和)

「地中海殺人事件」(東宝東和)

ちなみに「地中海殺人事件」は地方では後日公開の「ランボー」と同時上映だった。

 

12月11日

「薔薇の星座」(東映セントラルフィルム)

「白い牡鹿たち」(東映セントラルフィルム)

「薔薇と海と太陽と」(東映セントラルフィルム)

この3本はいずれも松浦康治監督のプログラムピクチャー。

 

12月17日

「遠野物語」(日本ヘラルド)

 

12月18日

この週がいわゆるお正月映画の一斉公開日となる。

 

「グリース2」(パラマウント映画=CIC)

「愛と青春の旅立ち」(パラマウント映画=CIC)

「ポーキーズ」(20世紀フォックス)

「ランボー」(ファインフィルムズ)

「病院狂時代」(20世紀フォックス=日本ヘラルド)

「アニー」(COL)

 

この年は外国映画の名作・話題作が揃った。

 

「伊賀忍法帖」(東映)

「汚れた英雄」(東映)

当時の角川映画は基本二本立て上映。

 

「ウィーン物語 ジェミニ・YとS」(東宝)

「三等高校生」(東宝)

それぞれたのきんトリオの田原俊彦と野村義男が主演。


「六神合体ゴッドマーズ」(東宝東和)

 

12月20日

「じゆうを我等に」

人気作品「AKIRA」以前の大友克洋監督作品。

 

12月24日

「隣の女」(東映ユニバース)

フランソワ・トリュフォー監督作品でシネマスクエアとうきゅううで単館上映。

 

「OH!タカラヅカ」(にっかつ)

「赤いスキャンダル 譲治」(にっかつ)

日活ロマンポルノのプログラムピクチャー。

 

12月28日

「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」(松竹)

「次郎長青春篇 つっぱり清水港」(松竹)

お正月の寅さん作品も二本立て。

 

「ET」はこの年のお正月映画の大本命として公開された。

 

そしてこの公開日に生まれて初めて映画を観るために徹夜で並んだ。

 

映画館は新宿ミラノ座。

当時の映画館としては最大級の客席数を誇る大劇場でその規模は1288席もあった。

 

 

あの時代は都内にキャパ1000人規模の映画館がいくつもあった。

 

 

渋谷パンテオンなどは70mm上映の巨大スクリーンと二階席だけでも400席を有する大劇場だった。

 

 
新宿ミラノ座が閉館したのは2014年の年末なので11年前まではこの巨大な映画館で映画を観ることができたのだ。
 

 

「ET」の公開は年末だったので相当寒かったとは思うけれど、当時まだ20代前半だったこともあって友人と並んだひと晩はいい思い出になった。

 

その後もイベント参加等で徹夜をしたことは何度かあると思うけれど、映画を観るためにというのはこの時が最初で最後だったはず。

 

映画の舞台挨拶に関してはそれ以降も角川映画の薬師丸ひろ子や原田知世出演作品や堀北真希の出演映画などで何度か朝から並んだりはしたけれど、次第に事前の整理券配布や指定席券を発売するようになって徹夜ということはなくなった。

 

現在はシネコンシステムが定着し、前売で指定席をネット購入あるいはぴあ等で事前抽選販売といった時代になったので、そういう意味では便利になったと思うけれど、映画のために並ぶというあの頃の熱というか映画業界全体の盛り上がりは懐かしくもある。

 

ちなみにその後自分が朝から並んだ作品は「わが青春のアルカディア」など初日限定の記念品配布などがあるケースのみだったかもしれない。

 

この「ET」の大ヒットは誰の目にも明らかだったこともあってか、その翌週のロードショー公開作品は一本もなく、お正月映画が一斉に公開となるその次の週まで映画興行はほぼ「ET」一色になっていたのだろう。

 

現在はとにかく毎週たくさんの作品が公開されて、一週間後にはあっという間にまた別のラインナップでスクリーンが埋め尽くされていく。

 

多くのヒット作品は多様な上映形態で複数のスクリーンを席巻し、気がつけば観たかった作品のタイムテーブルが激減なんてことは当たり前になってしまった。

 

シネコンに足を運ぶ客層もまず映画鑑賞ありきの映画ファンより一本の作品に固執する作品ファンの比率も多くなってきているのを日々感じる。

 

もはや劇映画よりもアニメ作品の方がスクリーンを占める割合が多いなんてことも驚かなくなった。

 

確かに毎週公開される新作をワクワクして待ったあの時代よりも、たくさんの作品に短期間に触れられる今の方が映画産業としてはいいのかもしれないけれど、あまりにも多くの上映作品が使い捨てられるようにタイムテーブルから消えていくのはやはり寂しさを禁じえない。

 

そういう意味ではあの時代のプログラムピクチャーだったり、地方のスクリーンで二本立て上映されたりすることで、意外な作品との出会いもあったりするのも幸福なことだったなと改めて思い出す。