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消費者法の社会学

令和四年から一年近く議論され、先月、議論の整理がまとまりました。

 

「消費者法の現状を検証し将来の在り方を考える有識者懇談会における議論の整理」

https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_system/meeting_materials/review_meeting_004/

 

 

消費者法は消費者と事業者の情報の質や量・交渉力の格差が、消費者の自律的な選択を歪めないように支援・保護することを目的としていました。しかし、近年、高齢化だけでなく、情報化・デジタル化の進展もあり情報活用能力や脆弱性への対応能力の格差が拡大しています。AI技術の活用も含めて法そのものを見直さなければならない事態となっています。

 

また、金銭を支払うという消費者概念も変わりつつあります。情報や時間、関心・アテンションを提供する生活者という概念にまで広がっていて、今後、それぞれの役割や規律、制度の見直しが進められることになります。

 

こういった議論は、社会学的な視点からも興味深いのではないかと思います。社会学は古来、貨幣やコミュニケーションなど、さまざま切り口で議論されてきましたが、デジタル時代の消費という視点で社会を眺めてみると、いろんな発見があるはずです。

 

法や制度といった多様なルールによる新たな規律を作り得るのか、また、デジタル化の中で保護と自律性とのバランスをどのようにとるのかなど、法の限界にまで言及した議論は政府の検討としても興味深いものです。

 

来年以降、議論が本格的・具体的になりますが、最終的な取りまとめが楽しみでもあります。

 

 

 

鄙と都とメタバース

前回のつづきです。

 

前回は、大平正芳内閣で提言された「田園都市国家の構想」が、都市か地方かという二項対立を乗り越える方法論として民族学的なアプローチで挑んだ(新たな文明のモデルを形成するという)理念であったというお話でした。

 

 

これらの議論にデジタル技術がどう生かされるのかを考えてみたいと思います。残念ながら40年前では、ここまでデジタル化が進むとは想像もできなかったので、直接的な言及は期待できませんが、手がかりは残されています(梅棹忠夫自身も後に著書『情報の文明学』において多くの示唆に富んだ言及をされているので、当時も射程には置いていたことは明らかです)。

 

一つは田園都市国家構想のキーコンセプトでもある「多極重層のネットワーク」の形成を加速させることです。中央対地方という概念から中央という概念を相対化し、同時に地方の概念をも相対化する分散の再編成という試み自体も、メタバースのようなデジタルの世界がさらなる重層化を進めつつ、ネットワークを有機的に繋いでいくと考えられます。

 

さらには、複製文化では無い本物の「文化の時代」という考え方にも近づきます。デジタル化によって、文化がより身近になるだけでなく、NFTアートに代表されるような新たな文化の形態も登場。Web1.0から2.0へ、そしてweb3への深化は、デジタル技術の活用も「読む(調べる)」から「書く(発信する)」へ、そして「参加する(DAO)」という新たな文化への能動的な関わりへと展開しています。

 

このように、現代のデジタル化によって、田園都市国家構想の理念が新しい方向に進んではいるものの、当時は、大平元総理の急逝もあって、田園都市国家の構想は具体化されませんでした。その最大の理由は崇高な理念を具体的な施策へと落とし込むことができなかった点にあると思われます。現在にも繋がる(東京への一極集中の是正を含めた)地方分権などの議論も、少子化・高齢化・人口減少のスピードとの戦いになってきていて、本来の文明史的展開は欠如したままです。

 

恐らく、田園都市国家構想をこのような「場所性」だけに着目して議論するのでは、新たな文明論への展開は部分的ではないかと思います。そのヒントは、大平元総理が残してくれています。

 

異なる概念の二項対立を乗り越える「楕円の哲学」について前回触れましたが、もう一点、大平元総理の哲学に「永遠の今」というものがあります。時間というのは「今」しかなく、過去と未来の調和の中に位置づけられるもので、地方と都市の場所的な二項対立とは別に、時間軸を考えることが大切であると思います。西田幾多郎やフッサールなども挑んだテーマですが、田園都市国家構想では時間軸への言及はほとんどありません。

 

実際、デジタル化の恩恵は、場所性だけで無く、時間軸にも影響を与えています。情報の交換が瞬時であり、web会議など移動の時間(コスト)を掛けずに場所性を共有することも可能だからです。これは都市と地方の意味にも影響します。地方にいても都市と同様に仕事をすることが可能であれば、対立概念ですら無くなります。

 

エベネザー・ハワードの田園都市の基本理念である「都市と農村の結婚」、「農村にある心身の健康と活動性と、都市の知識と技術上の便益と都市の政治的協同との結婚」は、デジタル技術によって媒酌されるだけでなく、現代的な多様性を受け入れて実現することになります。

 

新たな文明モデルも、その先に見えてくることになります。地方と都市の二項対立を乗り越えるだけでなく、場所と時間の意味論への挑戦でもありますが、その点を意識した(安っぽい技術論に抗う)政策議論を展開していきたいと思います。

 

 

 

木綿のハンカチーフ

言わずと知れた昭和のヒット曲ですが、地方から東の都会(東京?)に行った恋人が「都会の絵の具に染まって」戻ってこなくなるという切ない内容です。発売されたのは1975年末。この時代は、1970年の万博を経て、高度経済成長も一段落して、さまざまな社会課題が見えてきた時代でもあります。東京一極集中もその一つです。

 

1978年、大平正芳内閣が成立して、自らの国家ビジョンを実現するための以下の9つの政策研究会を立ち上げます。①文化の時代、②田園都市構想、③家庭基盤充実、④環太平洋連帯、⑤総合安全保障、⑥対外経済政策、⑦文化の時代の経済運営、⑧科学技術の史的展開、⑨多元化社会の生活関心。

 

「近代を超える時代」として「文化の時代」「地方の時代」「地球社会の時代」という認識のもとで議論が進められましたが、その中でも特筆すべきものが「田園都市国家構想」です。残念ながら大平元総理は報告書『田園都市国家の構想』を手にすることなく、急逝しますが、当時、国立民族学博物館の館長であった民族学者の梅棹忠夫氏を議長に据えたこともあって、その内容は今でも通じる香り高い報告書だと思います。

 

 

目下、デジタル田園都市国家構想の取り組みを進めているところですが、言葉だけを借りるのではなく、本来的な意味を考えたいと思っています。もちろん40年以上前の話なので、資料もデジタル化されていませんし、そもそも関わった人々が霞ヶ関・永田町界隈にも残っていないのが実情です。

 

私の主な関心は以下の二つ。

Q1:なぜ田園国家都市構想を梅棹忠夫という民族学者に託したのか?

Q2:都市と地方の二項対立を乗り越える上でデジタル技術の果たす役割は何か?

 

恐らく、根底にあるのは、大平元総理の「楕円の哲学」と呼ばれる政治哲学に由来すると思われます。円と異なり楕円は中心が二つあり、異なる概念を対峙させつつ調和をはかるという考え方で、二項対立を乗り越える思考法に通じるものがあります。

 

報告書の中でも、鈴木大拙の「即非の論理」を引用していることからも、この二項対立を乗り越える思考こそ日本文化の本質であり、そこに「都市か地方か」「分権か集中か」という対立概念を据えて議論を組み立てたと推察されます。

 

「分散することによって集中し、集中することによって分散する」という独自の「分散=集中型」あるいは「分権=集権型」の日本の国家システムを、新たに再編成することこそ田園都市国家構想です。これを単に「中央から地方へ」と浅く解釈するのではなく、多極重層のネットワークをもって形成される、ダイナミックなシステムとして捉えるべきものかと思います。

 

文明史的潮流の中に位置づけられる田園都市国家構想は、それ自身が、文明・国家のモデルを形成するという作業ですから、民族学的な方法論はアプローチとして間違いではなさそうです。

 

つづく