鄙と都とメタバース | 大串正樹オフィシャルブログ「ぐしろぐ-大串まさきの活動のキセキ-」Powered by Ameba

鄙と都とメタバース

前回のつづきです。

 

前回は、大平正芳内閣で提言された「田園都市国家の構想」が、都市か地方かという二項対立を乗り越える方法論として民族学的なアプローチで挑んだ(新たな文明のモデルを形成するという)理念であったというお話でした。

 

 

これらの議論にデジタル技術がどう生かされるのかを考えてみたいと思います。残念ながら40年前では、ここまでデジタル化が進むとは想像もできなかったので、直接的な言及は期待できませんが、手がかりは残されています(梅棹忠夫自身も後に著書『情報の文明学』において多くの示唆に富んだ言及をされているので、当時も射程には置いていたことは明らかです)。

 

一つは田園都市国家構想のキーコンセプトでもある「多極重層のネットワーク」の形成を加速させることです。中央対地方という概念から中央という概念を相対化し、同時に地方の概念をも相対化する分散の再編成という試み自体も、メタバースのようなデジタルの世界がさらなる重層化を進めつつ、ネットワークを有機的に繋いでいくと考えられます。

 

さらには、複製文化では無い本物の「文化の時代」という考え方にも近づきます。デジタル化によって、文化がより身近になるだけでなく、NFTアートに代表されるような新たな文化の形態も登場。Web1.0から2.0へ、そしてweb3への深化は、デジタル技術の活用も「読む(調べる)」から「書く(発信する)」へ、そして「参加する(DAO)」という新たな文化への能動的な関わりへと展開しています。

 

このように、現代のデジタル化によって、田園都市国家構想の理念が新しい方向に進んではいるものの、当時は、大平元総理の急逝もあって、田園都市国家の構想は具体化されませんでした。その最大の理由は崇高な理念を具体的な施策へと落とし込むことができなかった点にあると思われます。現在にも繋がる(東京への一極集中の是正を含めた)地方分権などの議論も、少子化・高齢化・人口減少のスピードとの戦いになってきていて、本来の文明史的展開は欠如したままです。

 

恐らく、田園都市国家構想をこのような「場所性」だけに着目して議論するのでは、新たな文明論への展開は部分的ではないかと思います。そのヒントは、大平元総理が残してくれています。

 

異なる概念の二項対立を乗り越える「楕円の哲学」について前回触れましたが、もう一点、大平元総理の哲学に「永遠の今」というものがあります。時間というのは「今」しかなく、過去と未来の調和の中に位置づけられるもので、地方と都市の場所的な二項対立とは別に、時間軸を考えることが大切であると思います。西田幾多郎やフッサールなども挑んだテーマですが、田園都市国家構想では時間軸への言及はほとんどありません。

 

実際、デジタル化の恩恵は、場所性だけで無く、時間軸にも影響を与えています。情報の交換が瞬時であり、web会議など移動の時間(コスト)を掛けずに場所性を共有することも可能だからです。これは都市と地方の意味にも影響します。地方にいても都市と同様に仕事をすることが可能であれば、対立概念ですら無くなります。

 

エベネザー・ハワードの田園都市の基本理念である「都市と農村の結婚」、「農村にある心身の健康と活動性と、都市の知識と技術上の便益と都市の政治的協同との結婚」は、デジタル技術によって媒酌されるだけでなく、現代的な多様性を受け入れて実現することになります。

 

新たな文明モデルも、その先に見えてくることになります。地方と都市の二項対立を乗り越えるだけでなく、場所と時間の意味論への挑戦でもありますが、その点を意識した(安っぽい技術論に抗う)政策議論を展開していきたいと思います。