塩田王と野崎家④
今日も倉庫と、部屋のお掃除です。
さて塩田王の続き。
三井物産はなぜ塩で勝てたのだろうか。
1950年代の塩業近代化で、瀬戸内の入浜塩田はほぼ全廃します。🤔
野崎家はその後、文化財として家屋だけが残る形になりました。
たとえ野崎家から華族議員が出ようが、ただの高額納税者だけで、お飾り議員にすぎない。
明治政府をうごかしているのは、あくまでも、薩摩、長州、土佐、官僚議員たちだったのです。🥴
野崎家は、政府とうまく立ち回れなかったのではないだろうか。
政府の構造的な大転換の中で、どうやっても個人商家が勝てない局面だったのかもしれませんね。😌
能力や政治力だけでなく、時代そのものも野崎家に不利だったともとれます。🍓
しかし三井物産などは塩で成功している原因をさぐりますと、
日露戦争中、三井物産は海軍の艦隊動向に関する情報を、
日本軍に打電していた社員がいたこと。🤔
戦争後には、国内の近代産業発展とアジア市場拡大を受けて、
アジア各地に拠点を設けたこと。
さらに日露戦争の時期は、商材である生糸の対米輸出が伸びたことや、
会社組織の改革を進めた時期でもあります。
その日露戦争中、情報を打電した三井物産の社員、津田弘視なる者は、
バルチック艦隊の動向を日本海軍に打電した人物である。
この活動者の存在も、明治政府にとって三井とパイプを太くする要因とも考えられます。
日露戦争以降、三井物産はアジア各地に次々と出張員を設置して、
事業を拡大していきます。
野崎家は近代的製塩企業の台頭に、
押される形になっていったのですね。🤔
創業の野崎武左衛門の遺言には、
欲をだして事業を拡大してはならぬ。守る事を第一に、とあります。
時代が変われば、事業形態もかわります。
その波に合わせることも、後を託された者の責務であります。😌
それにしても、
写真に写る蜂須賀家は、明治になっても盗賊成り上がり大名のDNAがあるのだろうか。
つづく
塩田王と野崎家③
今日はあの日本一の塩田王を誇っていた野崎家が、
なぜ没落してしまったのか、その考察をしていきます。😌
児島の町並みを歩いていると、閑散とした町並みがひろがり、
あまりの廃れ具合に、疑問を感じていましてね。🤔
廃墟になった銀行跡や古びた家屋🥴
さて旧野崎家の門前町には、
まさに野崎家の繁栄によって発展したきた地域でした。✨
そのため、衰退が比例して見えるというのは、
背景としてとても自然です。🤔
明治末〜大正期の塩業構造の変化も、影響しているように感じます。🤔
ターニングポイントはやはりあの日露戦争後でしょう。🤔
産業拡大で塩の需要は増え、
同時に大規模な近代化や機械化の波が全国で進み、
江戸時代からの伝統的な入浜塩田では、
競争力では勝てなくなっていきました。🤔
中規模の塩田は、次々に統合されて、
個人資本だけで塩業を続けるのが難しい時代へと入ったともいえます。🥴
また明治時代から財閥企業による塩業支配の進行も重なります。
三井物産などが塩業界に参入し、流通市場を押さえていきました。🥴
野崎家のような、地域の大地主型ビジネスでは、近代的経営モデルと競合して不利に。🥺
同時に塩の流通や価格に対する政府の規制も強まっていきます。
日露戦争以降、明治政府によって塩専売が国策として進み、
個人の大塩田主は、利益構造が制限され、自由な経営が困難になります。🥴
野崎家の三代目以降の経営者は、地域への寄付・投資などの公益活動が多いので、
世界規模で、塩や生糸、機械の輸出を展開する三井、三菱の前ではどうにもならなかったのだ。
また、大正期以降の不況も重なり、
資産に比らべ、利益が成り立たない状態になっていくのです。
つづく。














