今回も以前書いた記事の書き直しです。例によってかなり端折っちゃっているし、最後まで紹介しきっていませんので。ってか、マグジーのその2、書かなくっちゃな。
今回紹介するのは、「NBA最高のセンターの選手」と言う呼び声も高い アキーム・オラジュワン ( Akeem Abdul OLAJYUWON、以下オラジュワンと記載 ) です。
かつぼうさんも大好きなシャキール・オニールやスラムダンク・ゴリ赤木のモデル パトリック・ユーイング等のパワー系センターや、ディヴィッド・ロビンソンやティム・ダンカンみたいな万能型
センターとはまた一味違ったセンターの選手でした。カリーム・アブドゥル=ジャヴァーみたいな技巧派
のセンターと言えるかもしれません。
ナイジェリアのラゴスで生まれたオラジュワンが高校時代にプレーしたスポーツは、サッカー(GK)とハンドボール。ハンドボールは、ナイジェリアの全国大会に出た程の腕前だったそうです。オラジュワンの軽快な動きは、もしかしたらハンドボールをやっていたからじゃありませんかね?身長2mを越えていたオラジュワンは17歳の時にバスケットボールにスカウトされましたが、サッカーやハンドボールで鍛えられていた身体能力もあり、すぐに頭角を現しました。それに加えて、厳格だったご両親の教えもあって成績も優秀
だったそうです。
もっと高いレベルで勉強したいしバスケもしたいと思ったオラジュワンは、友人を通して名門ヒューストン大学に進学しました。ナイジェリアで頭角を現したとはいえ、まだバスケは始めたばかり。ポジションの違いさえ碌に理解していなかった
オラジュワンは、大学1年生時は練習のみの参加でした(レッドシャツというそうです)。
ですが2年目より試合にも出る事が出来て、2年~4年まではチームをNCAAのトーナメントでベスト4に導く活躍をしています。3年ではNCAAトーナメントのMVPも受賞しています。4年生の時にもオラジュワン個人の成績は素晴らしいものでしたが、パトリック・ユーイング率いるジョージタウン大学にファイナルで惜しくも敗れます。
大学4年目を終えた1984年に、同年のNBドラフトにアーリーエントリー(※)。全体1位でヒューストン・ロケッツに指名され入団。以降キャリアの大部分を同チームで過ごす事になります。この1984年NBAドラフトには良い選手が多く、面白いエピソードもあります。本ブログでも、この時のドラフトは記事にしています(よかったら→のリンクからどうぞ https://ameblo.jp/m-katsubou/entry-12604473487.html )。
当時のロケッツは、ルディ・トムジャノビッチやカルビン・マーフィー、モーゼス・マローン等が引退・トレード等でチームを去っており勝率5割に届かないチームでした。ですがオラジュワンが入団すると、勝ち星を48に伸ばします。そして、その数を52にまで伸ばした2年目に、カンファレンスファイナルでマジックジョンソン率いるLAレイカーズを破りNBAファイナルに進出。ファイナルではラリーバード率いるボストンセルティックスに敗れますが、弱かったチームを入団2年目でNBAファイナルに駒を進めた事により期待は高まりました
。
ですが.....。同僚のラルフ・サンプソン ( 1983年NBAドラフトでロケッツ入りした、身長223㎝のセンターの選手、#50 ) の怪我があった3年目はチームもパッとせず、同選手が1987年シーズンにゴールデンステイト・ウォリアーズにトレードされるとロケッツのチーム力は低下
。オラジュワンは多くのタイトルを獲り孤軍奮闘するも、80年代終盤のロケッツはパッとしないチームに成り下がって
しまいます。1991年シーズンでは、オラジュワン加入後は常に進出していたプレーオフ行きすら逃してしまいます。この頃、チームのエースだったオラジュワンは、かなり批判されたそうです。
ですが1992年シーズンにかつての名選手・ルディ・トムジャノビッチがHCに就任すると、ロケッツの逆襲が始まります。同年のNBAドラフトで(かつぼうさんはあまり好きでないのですが)ロバート・オーリーを、翌年のドラフトではサム・キャセールを獲得。チーム力を上げていくと、レギュラーシーズン57勝35敗で迎えた1993年シーズンプレーオフでは久々にNBAファイナルに進出
。相手は、大学時代の因縁のあるパトリック・ユーイング率いるニューヨーク・ニックスでした
。ニックスのパット・ライリーHCは、LALのショウタイムバスケと違って守備が良い堅実なチームを作り上げました。エースであるオラジュワンを、ディフェンスがいい選手に次々とマークさせます。ですが、オラジュワンは奮闘。7戦目までもつれましたが、ロケッツが勝利
。遂にNBA制覇を達成
します。
翌1994年シーズンのロケッツはあまり調子が上がりませんでしたが、2月にクライド・ドレクスラー(ヒューストン大時代のチームメイト)を獲得すると、第6シードでありながらNBA制覇を果たします。カンファレンスファイナルでは、初代ドリームチームに参加したディヴィッド・ロビンソンを圧倒してサンアントニオ・スパーズに勝利。NBAファイナルでは、アンファニー・ハーダウェイ&シャキール・オニール等を擁して躍進著しかったオーランド・マジックを、何と4-0のスィープで破ると言う、2つの素敵なオマケ付きでした。
この連覇の後のトムジャノビッチのスピーチ、「 チャンピオンの底力を甘くみるな! 」 はカッコ良かったですね。
その後もオラジュワン自身は活躍をします。ドリームチームⅢにも選出され、アトランタ五輪で金メダルも獲得します。ロケッツも良い補強はするものの ( チャールズ・バークレーやスコッティ・ピッペン等 ) 主力選手に怪我人が出たりチームに噛み合わなかったり.....。徐々にチーム力が下向し、2000年シーズンはオラジュワン加入後初めてロケッツがレギュラーシーズンを負け越して(34勝48敗、もちろんプレーオフにも行けず)しまいました。そのシーズン後に、遂にロケッツを退団
。
2001年シーズンはトロント・ラプターズに加入します。その前年(でしたよね?)にトレイシー・マグレイディが抜けた事もあり、活躍が期待されましたが,,,,,、腰痛もありあまり貢献できず、キャリア初の平均得点一桁に終わります。そのシーズンを最後に、現役を引退しています
。
逸話、めっちゃありますよ。有名なものが多いですがね。
・ナイジェリアから来米した時、空港に誰も迎えがおらずタクシーで大学まで行ったそうです。って、遥々ナイジェリアから来たんだから、誰か行ってやれっての!
・ナイジェリアから来米した時は、何と6つの言葉を喋る事が出来たのだとか。
・↑にも書きましたが、ヒューストン大学1年生時は、試合に出られなかった事でどうすれば良いのかをチームスタッフに相談。ロケッツのトライアウトに参加するアドヴァイスを貰って、当時同チームの主力だったモーゼス・マローンとプレーしたそうです。後に本人もコメントしている様に、マッチアップする事でオラジュワンのスキルは格段に上がったそうです。
・履いているシューズは、LAギアというメーカーでした。オラジュワンは現役時代にヒューストン市内で会社を設立しており、LAギアのシューズのアフリカでの販売権を持っていました。
・ニックネームは、「THE DREAM」。ガードの様な軽やかな動きやスピンやフェイクは「ドリームシェイク」と呼ばれ、オラジュワンの全盛期にこれを止められる選手はいませんでした。神様ジョーダンでさえ、後に 「 もし93年に野球をやらずにバスケを続けていたとしても、ロケッツとの対戦時にオラジュワンを止められていたとは思えない 」 とコメントしたそうです。ブルズはロケッツが苦手でした。
・そのドリームシェイクですが、色々な選手が「弟子入り」して教えを請うたそうです。その「弟子」は、凄い選手ばかりです。コービーブライアント、レブロン・ジェームス、カーメロ・アンソニー、ドワイト・ハワード.....。って、凄過ぎじゃい!ちなみに、一番弟子はコービーブライアントだったそうです。
・1993年シーズンにはレギュラーシーズン&NBAファイナルのMVP、守備のベスト5を獲得。この3つの同時受賞は史上初です。
・シアトル・スーパーソニックスで活躍した「ガード」、ゲイリー・ペイトンが何故か苦手だったのは有名ですね。最近、「今でも何故(ゲイリーが)苦手だったのかが、わからない 」 とコメントした(笑)のを覚えています。
・80年代終盤~90年代序盤のパッとしなかった時期に、イスラム教と向き合う事で安定したそうです。よくしていた審判への暴言が無くなり、小競り合いも減ったそうです。その頃、自分の名前のスペルを「Akeem」から「Hakeem」に変えたそうです。ラマダン(断食)を必ず守り、その時期はむしろ動きが良くなったのだとか。
・トロントに入団した時は、当時同チームの主力だったヴィンス・カーターとの笑顔の2ショットがありました。期待に応えようと頑張ったのでしょうがね.....。
・背番号34はロケッツのみならず出身大学のヒューストン大学でも永久欠番となりましたが、色々な動画を見ているとオラジュワンは大学では背番号35を付けていますが.......。これは言っちゃいけない事なのでしょうか(笑)?
(※)レッドシャツだった大学1年生はカウントされないそうです。ですから、大学在籍4年目ですがアーリーエントリーです。