muraka


「なぜ、勉強をしなければならないか・?そんな質問をされたら大人の敗北だ・・」みたいな意見を教育雑誌に村上龍が書いていて、ちょっと彼の作品を読んでみたくなった。


初めて村上龍を読んだのは高校生か・・もしかしたら中学生の頃だったかもしれない。「限りなく透明に近いブルー」題名が美しかったので読んだものの、当時の私には理解しがたく、黒人と日本人の女の子のセックスのシーンが強烈でそれだけが印象に残こり、何がいいたいのかもさっぱりわからなかった。大人になって手にとって見ても、汚くてどろどろしていて惨めで情けなくて悲しくて捨て鉢で・・という世界がなんだか救いが無いような気がして馴染めなかった。


なので、はじめての文学シリーズ」という中高生に向けて出版された中の村上龍読んでみた。すると、かけ離れたように思っていた彼の世界が少し近くなった。ちょっとおもしろかった。


「高校生の頃、フランスのジャン・ジュネという作家の作品に衝撃を受けた。ジャン・ジュネはホモ・セクシュアルで、私生児で、しかも泥棒だったが、翻訳を読んでも彼の小説は美しく、力に満ち溢れていた。わたしは、ホモセクシュアルや泥棒という小説の題材に惹かれたわけではない。どのような汚辱に満ちた世界を描いても作者に十分な動機と才能があれば小説は際限なく美しく強くなり、読むものに生きる勇気を与えるのだと知った」村上龍


はじめての文学の中に収められている短篇はあまりエキセントリックではなく、でも村上龍の色がちゃんと感じられて、いままでわからなかったことが少し分かった気がする。


ホームレス生活をしている人も、ラスベガスの億万長者も、夜に現れる幽霊におびえる小学生も、妄想ばかりをしゃべる老人も、学校へ行けない若者も、万引きばかりする主婦も、融通の利かない役所の職員も、みんな私自身とつながっているんだということを・・。

いくつかある短篇の中で「浦島太郎」が好き。難をいうなら本のデザインが、変。


yukie



「ユキエは戦争花嫁として、人種差別の根強く残る米国南部のバトンリュージュで40余年を生きた。 二人の息子が親元を離れた直後、夫が友人の裏切りに合い財産も名誉も奪われてしまう。失意の彼にとって唯一の理解者は妻のユキエだったが、ある日突然彼女はアルツハイマー病におそわれる。 深い寂寥感の中で夫は、自分の名誉が回復したならば、あるいは、結婚以来帰っていない日本に行けば、ユキエの病が治るのではないかと心を迷わせるのだが…。」


アルツハイマーを扱った作品をこのごろテレビでも映画でも本でもよくみかけるのですが、私の見たなかで一番良かったです。何より、視点がユキエを一人の人間として同じ目線でちゃんと作品ができあがっていることがすばらしい。病気のことをよく理解していないとこんな風な作品にはならなかったとおもいました。


何も知らないと、病気や障害があるとその人のことを宇宙人のように思いがちです。でも、小鳥とか猫とか風とか花とかと話ができる人間なのに、どうして同じ人間同士で会話がなりたたなくなってしまうのだろう・・と私は何度も思ってきました。主人公リチャードの苦しみと愛情は、私にいろんなヒントをくれたと思います。




faka


休みに、古本屋さんで100円で投売りされている本を10冊ぐらい買い込んでくる。いつかは読むつもりで、そこらじゅうに山積みにしてあることが、私のしあわせ。その中の1冊が、今日読んだ「ファザーファッカー」内田春菊。


『 「あなた、ほんとうにするんですか。そんなこと、ほんとに」

  母はあわあわ言って、腰が抜けたなどと騒いでいたが、その風呂はいったい誰が沸かしたのだろうか。それは母以外に考えられない。母は、養父が言い出した性器の縫合などという手術を怖がってはいるようだが、けっして

  「やめて」

  とは言わなかった。私には母もそれを望んでいるように見えた。もともと、母が自分を助けてくれるなんて思ってもいなかった私は、開き直って風呂場で性器を洗い、養父が新聞紙を何枚も広げて作った「手術台」の上に脚を広げて横になった。』


ファザーファッカーより



内田春菊さんには、4人の子どもがいるがお父さんがそれぞれ違う。私には嫁は合わないといって、離婚届をだして事実婚になった。それでも子どもたちは手縫いのパジャマを着ていたり・・、真っ赤な口紅を塗って金髪だったりでおもしろい。それが奇想天外というよりは、私自身の本心と重なり合うところがあって共感できるのだ。そうか・・好きな人の子どもをそれぞれ何人も持ってもいいのか・・とか、嫌だったら離婚してもいいのか・・とか、嫁のしきたりなんて、誰が決めたんだ・・とか・・。そんな私も編み物や手芸が好きだし、子どもを愛しているし、まじめだし誠実なのだ。


ファザーファッカーの中の春菊さんも少女時代は外見からは想像できない優等生で、いろいろ耐えていたのだった。まだ女の子の部類にはいる彼女が、一生懸命お母さんのことを思い、家族を大切にしようとし、いい子でいれるように努力する。そして、14歳で妊娠、その後、義理の父に性的虐待を受け、16歳で給食代の3600円だけもって家を飛び出すまでが書かれている。


『  寝室のふすまを開けると母が小さくなっていた。私は今起こったことがよく把握できないまま、母のそばに行って、聞いた。
   「どうして、お父様は、私としたの?」
   母は悲しそうに行った。
   「もう六ヶ月でしょう。六ヶ月になると、堕ろすのもたいへんだし、お医者様も嫌がるんだって。    

    だから、おれがつついてみるからって、

    そうしたら降りるかもしれんって、お父様が言われたから・・・」
    私は母の言ってる意味がよくわからなかった。
   「つつくって?すると、降りるって意味?」  』 


   ファザーファッカーより


よくこんな目にあって、それでも自分自身を見失わずに自分でありつづけることができたものだと思った。私は拍手を送りたい。そして、女も子どもも老人もバカも阿呆も強くならなくてはいけない。そう思いました。私もあなたもみんな頑張りましょうという気持ちになりました。


shou

sho


人里にあこがれた狸の子が 女の子に化けて山から下りてきた。きらきら光る自転車に乗った少年が目の前で転ぶ。子だぬきはしっぽを川の水にひたして手当てをする。少年は、女の子がたぬきだってわかる。


やさしさ、おもいやり、あこがれ、美しい絵とともに幸せにひたれる絵本です。


この本を読み終わったとき、「あ~先生と彼」といって、子どもたちがはやしました。先生は私ではなくて担任の先生。この秋に結婚したばかり。子どもたちの憧れなんですね。


ri


「行きたいところ。
図書館、映画館、喫茶店(隅のボックス席に座って、レモンスカッシュが飲みたい)だけど、一人では結局どこへも行かれやしない。悔しくてさ、情けなくてさ、どうしようもなくて、わたしは泣くのだよ。
弱虫だね。仕方ないさ。私と泣き虫は足かけ二年のつき合いだもの。ちっとやそっとじゃあ離れてくれないよ。
今じゃあ、声を立てずに泣くことができるようになったし、ちょびっと泣いたくらいでは鼻の頭が赤くなるだけですむようになったがね。泣くと疲れて、目は腫れるし鼻は詰まる。食欲はなくなるし、いいこと一つもありゃせん・・・。
このごろは、みんなにつっかかってる。人間関係って複雑なんだよなぁ。だれが悪いというのでもないのに、知らないうちに進行していく。
私の病気といっしょだね。グスッ。」


車を運転すること、映画をみること、歩くこと、景色が見えること、おいしいものを食べること、音楽を聴くこと・・地球に空気があることとおなじくらあたりまえのこと。


あたりまえと思っていることができなくなる。右、右の次は左、左の次は右・・と考えながら歩く。かかとの次にどこへ体重を移して、どの指から力を抜くかなど、意識しないと転ぶ。


ものを食べるのに、まずは舌の上において、それから舌で右へやり、上の歯と下の歯ですりあわせる、つぶす。次は左、舌の上で味をかんじてから、どうやって喉の奥へすべらせるかなど考えないと喉がつまってしまう。


私はどうやってやっていたんだろうか・・・・。考えないでやっていることを、考えないとできなくなる時、どんなに考えてもできなくなる。


知っておかなければならないとおもう。病気で、老いで、だんだん排泄もおぼつかなくなったり、歩くことがスムーズでなくなったり、指が自由で動かなくなったり、やがては自分の実の上にも起きうるできごとなのだ。


亜也さんは、たった・・15歳から体の機能が奪われえ行く病気におそわれる。それでも、明るく希望をもって、一生懸命生きようとする。

生きたい、生きたい、生きるってすばらしい・・そう願いながら、亡くなる。


赤ちゃんになって生まれてくる前と、死んで灰になってしまってからと・・どっちがどれくらい怖いか。亜矢さんのことをおもうと、死がそんなに怖いものでないことを祈る。そして、生きているものは自分の力で生きていると思ったら、大間違い。生まれてくるのも死んでいくのも、自分の意志ではない。


生かされているのだとこの本を読んで感じた。


100年経てば、私の周りにいる大方の人はこの世にいないだろう。死ぬのはそれくらい確かなことなのだから、死に急ぐことはない。

ka beu

カミーユ               分別ざかり


「お行儀よくしなさい」「カミーユ、お前は女よ」「カミーユ、自分の手をよくみなさい」  しかし違うわ、私はまさしく、揺さぶりをかけ、ひっくり返し、生身をきりつけるのがすきなのだから。 ”カミーユ・クローデル アンヌ・デルべより”



女が芸術を志すことなんか認められていなかった。認められていないのに才能があった。才能があったけれども認められないから、封じ込められた。それでも彼女は格闘した。傷ついて、ぼろぼろになるまで。才能があることは、女性にとっては必ずしも幸せだとはいえなかった。ロダンの弟子となり、やがて妻のあるロダンと愛し合い、最後は精神病院でその生涯を閉じた女性 カミーユ・クローデル。


国立西洋美術館へカミーユの彫刻の実物を見に行った。生命が溢れるような彫刻。その彫刻は彼女の犠牲の上に生まれてきた。


若いカミーユとの愛、ロダンに尽くす妻、国際的名誉と財を得たロダン。


そして、ロダンと別れて後は、助手もなく、たった一人で大理石に向かい、世間にはなかなか、認められないまま、経済的な困窮の中、それでもすばらしい作品を作り続けたカミーユ。


ロダンとあまりにも似ているといわれたカミーユなのに、余りにも違いすぎるロダンとカミーユの人生。


女に生まれることは壮絶な戦いだ。女にとって愛はすべてなのだ。男にとっては、所詮 愛は自分の一部でしかないのだ。


純粋に愛して、傷ついて、苦しんで、憎んで、破滅していったカミーユ。彼女の命や叫びや悲しみや愛や喜びが、彫刻の中に閉じ込められて、今も私たちの前にあることは魂の永遠を実現している。


「分別ざかり」 カミーユの弟、詩人のポール・クローデルは「この裸の若い女、それは私の姉なのだ。嘆願し、屈辱を受け、ひざまずく。あの美しく誇り高い女が、こんなふうに自分を描いている」男はロダン。老婆は、ロダンの妻。若い女性は、カミーユ。


ai haiji hai



ハイジの作者スピリの死後、何人かの別の作家が”その後”のハイジを書いている。そのうちの1つ。


14歳になり、バイオリンを勉強するためにクララの紹介で寄宿学校にはいる場面からはじまる。そして、ハイジが学校で悩んだり、老いたおんじのことを心配したり、山の生活とバイオリンの勉強が両立しないことに悩みながら、女性として大人になる話。


ほかに「ハイジの青春」「ハイジのこどもたち」など、いろいろあるようです。


読んでみて、「それからの~」のハイジが、ハイジらしくないような感じがして少し残念でした。描かれているハイジはすばらしい女性に成長していて、まあ、これでいいのだろう・・ダメではないのです。ただ、私が個人的に感じるのは、そんなにすんなり素直な心の美しい女性になってしまっていることが、なんとも人間らしくないと感じました。ハイジのように感受性が豊かな女の子にはそういう人間の苦しみや悲しみももっとあるし、立派になるのにはそれなりの道中もあるだろう・・ということで、でも、ハイジがどんな大人の女性に成長するのか・・の1つの説として興味深かったので、よみました。


といって・・・ヨコですが、「北の国から」の蛍があんな女になったのも、すごく嫌なんですけど・・・。


子どものころ読んだハイジが今もかわいい子どものまま心の中で生きているので、作者以外の人の手でむやみにその後があるのは、良し悪しだなぁと思いました。作品自体が、悪いというわけではありませんが、この作品で一番成功してるのは、その題名かもしれません。


番外ですが、日本版ハイジがあって、1951年 石原千代 「アルプスの少女」 主人公は 「雪」 それってテレビドラマでは、ヤギの名前・・・?石川 淳が書いた「アルプスの少女」これは生活に戦争の影が忍び寄ります。ペーターは兵士となりなり戦火に巻き込まれたりするそうです。その後、ペーターとクララが再会しアルムにハイジを訪ねるが.....というものだそうです。


tokyo


40代の女性と20代の青年の2つの恋の話。


目の前に見えているもの、年齢、容姿、社会的地位、未婚、既婚、お金、学歴・・・。

いろんなものが見えるから、いろんなことを考え聞こえてくるから、たくさんの知識や情報をもっているから、可能性がたくさんあるから、自分の本来の心はそれに左右されるものなのだと思う。

何か自分に大きな欠損を抱えた人のほうが、自分自身の本当の心を敏感に感じ取れるのは、そのせいなのかもしれない。


恋愛小説は、さまざまなハードルを障害ともせずに自分の心に忠実に誰かを愛し愛されたことが描かれていて、自分にとっての本物を追求する主人公たちの能力を見せ付けてくれる。


感受性豊かなヘルマン・ヘッセが女性として完成された年上の人に恋をした。そのことが小説によく書かれている。


ただ、この小説にでてくる主人公は、徹の方は未熟で、ただ美しい経験も豊かな女性に惑わされただけ、耕二の話のほうが、まだ、理解できたけれど、これも、未熟なくせに世間知らずな若造が女を手玉に取ったと誤解しただけ。詩史は、体裁が良すぎて、人間らしくない。貴美子が、一番人間らしい。それにしたって、男と女の愛の本質を描いている・・とは到底思えません。


いまどき・・・そんな年齢を重ねてもさらに輝く40の女性がいるのか。20にして、純粋な魂をもった男性がいるのか。


私には、あるアバンチュールのひとつにしか感じられませんでした。

ko


「今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう―たぶん。「ジャズを流す上品なバー」を経営する、絵に描いたように幸せな僕の前にかつて好きだった女性が現われて―。」BOOKデータベースより


正しい選択が正しい結果を導くとは限らないし、正しくない選択が正しい結果を導くことがあると、どこかで村上春樹氏が書いていた気がする。


できれば、誰も傷つけず、正しい選択をして、迷ったり悩んだりせずに生きていけたらいいといつも思う。だけど、答えというものは、人にとっては正しくても、自分にとっては正しくなかったり、また、その逆であったりする。自分の答えは自分しか出せないのに、自分が答えを導き出すところまで、歩いていけずに息ついてしまうことがある。


一度壊してしまったら、元にはもどせない。何も壊さずに生きていくことなんかできない。壊れてしまうことは辛くて悲しい。そうやって、たくさんのものを失いながらも与えられた命を生きていく。


壊れてしまって、失ってしまって、悲しくて、辛くて、それでも、その悲しみを愛おしいものとして感じさせてくれる力が村上春樹にあるとおもう。


なので、いつも読む。


se


障害者と呼ばれる人間がやがて思春期を向かえ、大人になっていく。性欲が芽生え、その表現の方法が、普通とは異なっていたとき、他人は何か危害を加えられると恐れ、家族は本人が誤解されるのを恐れ、本人は何を誤解されているのかわからない。そういうことを、少し前、大江健三郎氏が書いた小説で、知った。健常者と呼ばれる人間の持つ性欲は、正常で、障害者と呼ばれる人がもつ性欲は異常なのか?性犯罪を起こすのは健常者と呼ばれる人々だ。


ノーマライゼーション、言うはやすし行う難しだ。


1996年まであった優生保護法は2つの目的をもった法律でした。一つは「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」--病気や障害をもつ子どもが生まれてこないようにする、という意味。もう一つは「母性の生命健康を保護する」--女性の、妊娠・出産する機能を保護するという意味です。この2つの目的のために、不妊手術と人工妊娠中絶を行う条件と、避妊具の販売・指導についてを定めていたが、「月経時の介護困難」、「親になるのは無理」、「性的被害による妊娠の回避」等の理由で、本人の同意の有無にかかわらず、女性障害者に子宮摘出手術を受けさせてきていた。


障害者の性は、踏みにじられ隠され排除され認められなかった。それは、生きることを踏みにじられ隠され排除され認められないということと同じなのだ。


障害者っていったい誰のことなのか。


この本での、セックスボランティアは障害がある人々に対して、性欲の解消のための介助を行う人の話が書かれている。


オランダでの取り組みや、風俗や、恋愛や、障害者の人の話かとおもって読んでいると、人にとって性とは何か・・という事に行きついていく。また、裏返せば、人はやがて年をとり、体の自由もきかなくなり、病気もする。そのとき、自分は障害者だから・・・と思って、大切なことでも我慢するのだろうか。


自分の性をどうとらえて、それを受け入れていくのか。動物としての人間。生きものとしての本能。それはつまり人間が生きていることと深くつながっていると思える。