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私の母が病気になったのが今から考えれば、60だ。病気になって仕事を続けられなくなった。仕事のせいで病気になった。一日の大半を仕事に費やしていた母にとって、仕事がなくなると、1日の大半を失くしてしまったも同然だった。仕事がなくなれば収入も途絶えた。


母には母の未来予想図があったはずで、おそらくその予想図とはかけはなれた

60代を送っているに違いない。優等生だった母にとっては、今がいちばんわがままに生きているといえる。いちばんわがままにしているとしても、自由かといえば、自由ではない。自由ではないけれども、不幸とはいえない。でも、確かに母の思い描いていた幸せではない。


60代は、老後か?仕事も退職して、子どもも巣立てば、あとは余生なのか?


桐野夏生の「魂萌え」を読んだ。「夫婦2人で建てた家もある。貯金もある。年金ももらえる。贅沢さえしなければ、夫と2人で平穏な老後を送れる・・・・・」果たして、そうだろうか?でも、主人公の敏子はそう思っていたのだ。


”ところが、夫は急死した。その夫には10年来の愛人がいることがわかった。夫の死により精神のバランスをくずしてしまうほど愛している女が夫の世界にいた。セックスもめんどうくさい夫に対して、嫉妬や憤りをかんじて、愛人とやりあう。夫にとって私はなんだったのか?子どもは遺産をわけろという。自分には年金しか生活力がない。子どもは自分の人生を生きるのに精一杯だ。そんな自分に男性が言い寄って来る。一晩を共にする。”


え・・59になっても60になっても、70になっても、性は現役なのか・・と少し驚いた


「彰之が咳いた。その口調に敏子への反発が感じられた。不思議だ、と敏子はおもった。自分が産んで育て愛おしく堪えられない存在だった子どもたちの心がいつしか自分に寄り添わなくなったと感じられて久しい。家事育児に専念してきた自分の時間とは何だったのだろう。良い母親だったはずの自分が、成長した子どもたちに顧みられなくなっていく。夫も、貞淑な妻の自分を裏切っていた。これからは母でもない妻でもない時間を一人でたっぷりと生きていかなくてはならないのだ。」「これから先は喪失との戦いなのだ。友人、知人、体力、知力、金、尊厳。数えだしたらキリがないほど、自分はいろんなものを失うことだろう。老いて得るものがあるとしたら、それは何なのか、知りたいものだ」(本文より)


施設に勤める友達が、あるおじいさんとおばあさんが、ある朝、同じ部屋に寝ていて、施設の中で風紀が乱れて、本当に困ったという話をしていた。70にもなった、じじいとばばあが気持ち悪いんじゃよ!という感じだった。


私の頭の中に描く幸せとはなんなんだろうか・・と、本を読んだあと考え込んでしまった。はたして、自分の幸せというけど、それは自分で選びとることのできるものだろうかと、疑問に思った。お金もなくて、健康もなくて、若さもなくて、地位もなくて・・・だ。


主人公59歳。50代、60代、70代年齢を重ねて、なお、もがきあえぐ。生々しいということは人間らしくておもしろいと思った。



ひとみちゃんが、これがおもしろかったといって持ってきてくれる小説の多くは講談社の青い鳥文庫。ちょっと、私には遠くなってしまった思い出で、実感をつかむことができないことがおおけれど、これは、面白かった。


初恋って・・・こういうものだった。


もう、心の地中深くにうずもって、化石になりかけた思い出を呼び覚ましてくれるようでした。そう、少女の頃、こんなかっこいい男の子との恋に心を奪われた。


あなたの居場所は、どこですか?恋とは別にすすむこのテーマ。「生まなきゃよかった」と母親に言われ、学校ではクラスじゅうから無視される……行き場のない青花。


”瞳矢(とうや)の勝手なはからいで、三四郎と親しくなれた青花(せいか)。だが、そのことから、仲よしの選子(えりこ)やつぐみとの関係にひびが入り、青花はクラスじゅうの女子から無視されることに。青花に対する母の厳しさ、冷たさはエスカレート。家にも学校にも居場所のない青花の支えは三四郎だけ。”書評より


母とうまくいかない。学校でもうまくいかない。行き場所をうしなってさまよう青花がでくわしたのは、つきあってる三四郎ではなくて、瞳矢。そして、建築中の建物の中で、瞳矢がみせてくれたコップの中の夕空。それが、題名になっている。


読み終えて、「ねえ、瞳矢と三四郎、ひとみちゃんはどっちが好き?」「どうして、煮え切らない青花がもてたとおもう?」そんな話に花が咲きました。

tenpoku


昨日、古本屋さんを歩いていて、天北原野が100円で売られているのをみつけて、思わず手に取った。経済価値って、非情だなぁと思った。この小説がたった100円。三浦綾子さんに失礼ではないか。でも、たった100円で、これほど生きることを感じさせてもらえる小説を入手することができるのだともいえるのかも・・。


以下 内容に触れています。


 「孝介さん、誰かが自分勝手なことをすると、必ずほかの人が、重い十字架を負わなければならないのね」
 「まあそうだね、しかし、お互いに十字架を負わせてもいるのじゃないかな。生きてるってことは、結局は人を傷つけていることになる。人を一度も傷つけずに生きてる人間なんて、ありはしないからね」 

(天北原野 三浦 綾子)


キリスト教には詳しくありませんが、原罪・・ということなのでしょうか。


初恋の人と引き裂かれ、憎い男に嫁ぐ貴乃。それでも、誠実に生きぬくのだけれど、樺太から引き揚げる際にソ連軍の魚雷攻撃で二人の娘を失う。これでもかと悲しみのどん底で、病に冒される。


苦しみは、ここが一番底だろうと思っていると、まだそれが入り口にしか過ぎなかったということがある。それでもなお、誠実に、自分も見失わずに、大切なものを大切にして、生きつづける。


最近、やくざをやっていたひとが、弁護士になる、障害をおったひとが、個性に過ぎないと明るく元気にテレビに出て、ベストセラー本を書く、ホームレスから、プロのピアニストになる。どんなことでも努力すれば、希望を失わなければ、かならず報われるのだ・・元気で生きのいい話がたくさん紹介された。それは、すごいなとおもう。


それとは逆に、天北原野の中では、思うようにならないことばかりが続く。そして、人はみんなどうしようもない運命を背負ってうまれてきているのだと思わされました。運命は大きな川の流れで、ほんの少し向きを変えたり、ほんの少し方向をかえることができたとしても、大きな流れからのがれることはできない。幸せを受けることもあれば、不幸を受け入れなければならないときもある。


これでもか、これでもか、と悲しいことがおそってくる。


ところが、その中で、なお 立ち上がって生きる人々はまぶしい。それを包み込む北海道の大地が美しい。

私にとっては、威勢のいい物語よりも、自分の人生を踏みしめて生き抜こうという気持ちになった小説でした。



ashu


毒々しい言葉の連発。赤ちゃんを恥辱するルームメイト、ガキが嫌いな自分を傷つける主人公。


将来に希望を持てないようなことがいっぱいある。しょっちゅう失望する。それでも、歯を食いしばったり、ごまかしたり、いろいろしながら、なんとか生き抜いている。なのに、なんだ、この小説・・・・・。将来に希望が持てなければ、ゴールは破滅しかないのか。さしのべられる手なんか、ないのか・・。


最後にウサギの耳をひきちぎるシーンから先は気持ち悪くて、もう読むのをやめた。


病院へ行けっていいたい。


救われない、希望も持てない、かといって、カタルシスを味わうこともできない。こんな本を執筆するのはやめてほしい・・・。


この人が、芥川賞作家で、その作家が世に送り出す作品だとは、ちょっと信じられない。彼女を芥川賞に選んだ人の話を聞かせてほしいものだ。お金を出して買って読んだ本じゃなくてよかった。アマゾンで59円でうられていた。

hime


アンデルセンは、成就しない愛になやんだそうだ。そうして物語はつむぎだされていったらしい。


人魚姫は、王子を嵐の海から助け出して、恋をする。自分の美しい声を魔女に売り、魚の尾のかわりに、歩くと刃物できられるような痛みがする足をもらう。そしてなお、人魚姫は意中の相手 王子様と結婚できなければ、海の泡になってしまう。


王子は自分を助けたのが人魚姫だとは知らない。助けたのは私だと伝えたくても声がない。やがて、王子はその別のお姫様とであって、結婚してしまう。人魚姫をしんぱいした、人魚姫のお姉さんたちは、自分たちの美しい髪を魔女にうりはらって、人魚姫のためにナイフを手に入れる。

そのナイフで、寝ている王子様の心臓を刺し、その血を足にたらせば再び人魚に戻り海へ帰ることができるという。


人魚姫はナイフをもって、寝室に忍び込む。いざ、刺そう・・・そう思ってふりあげた その時 王子様は、人魚姫ではなく、結婚したお姫様の名前を寝言よぶ。


愛 悲しみ 失望 


『人魚ひめは、するどいナイフに目を向け、それからまた王子を見つめました。王子が寝言で花嫁の名を呼びました。そうです!王子の心にあるのは、花嫁のことだけだったのです。一瞬、人魚姫の手の中で、ナイフがふるえました。
 でも、そのあとで人魚は。すでに朝の光を浴びてバラ色に色づいた波間へ、ナイフをほうり投げました。ナイフが落ちたところがまるで血のしたたりがふきあげたように赤く染まりました。
人魚ひめは、半分かすんできた目をあけて、最後に王子を見つめました。そして船から身をおどらせて、海の中に消えました。体がとけて、泡になっていくのがわかりました』  人魚姫 抜書き


真実は結局、王子に伝わることはなかった。世の中では、真実がいつも正しいとは限らないし、真実がわかるとも限らないし、真実で幸せになれるともかぎらない。


半分人間で、半分は魚。恋をしてはいけない人を愛してしまう。成就しない自分の気持ち。


でも、王子をささなかったことで、人魚姫は自分を裏切らずに自分の中にある真実を信じて、愛を貫いた。


誰かを愛するということは、食事をしたり呼吸をしたりすることと同じで、なぜ食べるか?なぜ呼吸をするか?と問わないのと同じ次元のことだと思う。その前に、真実は何なのか・・ということは、小さな問題だったのかもしれない。


新書館のアンデルセン2人魚姫のエドマンド・デュラックというひとがかいた人魚姫が とても美しい。


jikoku


鉄道や時刻表にほとんど興味の無い私が、ページを前に後ろになんども繰りながら、地図をみながら読みました。


失礼かもしれないけど、意外にも・・・・とってもおもしろかった。


立派な仕事もあって、大切な家族もあるのに、何の因果か盲腸線とよばれる行き止まりのローカル線をのってまわる宮脇氏はおもしろい人だなぁと思う。乗り継ぎに一喜一憂し、時にはタクシーを飛ばし、時にはせっかくのっているのに居眠りをし、まさに東奔西走する姿が笑える。幸せな気持ちになる。


下記のグリーン車についてかいているところが特に好き。


「寝台はとれないし、夜行だからいくらかでも楽をしようとグリーン車にしたけれど、あれは私には扱いにくい。背もたれが傾くからそれだけ尻にかかる重みは分散するが、なまじ仰向け気味になるから足を伸ばしたくなる。すると必ず足がつかえる。床の上に足を投げ出せば背中がずり落ちてくる。思い切って前の席の背もたれの上にのせると楽らしいが、前に客がいなくてもそれはやりかねる。どうにも中途半端な構造である。いっそ背を立ててきちんと座り、”普通車よりいくらかは楽だぞ”と自分にいいきかせているほうがむしろ楽なのだが、高い特別料金を払ったのに施設を十分に活用しないのは存した気がしてくる。こうなると品性の問題になってきて、ますます扱いにくくなる。

   それにしても隣の窓際のおじさんは、発車ぎりぎりに上ので乗ってくると、ワンカップの日本酒をぐいとのみ、上着を掛け布団がわりにして惣ち眠ってしまった。疲れているのか旅慣れているのか知らないがよくもこんなに手際よく眠れるものだと感心した。

   しかも、このおじさんはグリーン車が良く似合っている。グリーン車は論ずるよりも似合うことが大切なのかもしれない。孝行息子でもいるのか、草履を脱いでグリーン車にちんまり座ったおばあさんなどもっともよく似合う。私などグリーン車に乗ると食堂車に席を移すのがもったないな気がするから、まだまだだ。」

時刻表2万キロより抜書き



これを読んでいると、毎日 理由や結果にふりまわされている自分がつまらないような気持ちになった。



全国のローカル線をのってまわるのだから、本の中には1つぐらい、自分の縁の深い路線がある。


私の場合は東羽衣線。小学校のころ、500円ほどのお小遣いを貰って、みんなでこの東羽衣線に乗って浜寺公園に遊びに行った。そこで、ゴーカートに乗り、缶けりをして、帰りにあつあつのコロッケを1個かって、食べながら歩いたあの日のことを、記憶のずっと奥のほうから湧いてでてきた。宮脇俊三さんにも一緒に食べてほしかった。宮脇俊三さんは大正15年生まれで2003年にお亡くなりになっているそうだ。ああ、うちの義父と同じ年代だなぁ・・と、彼が生きてきた決して平和といえない時代背景を思い浮かべた。

daichi


久しぶりに再読した。


小学校の司書についてから、児童書を読むのに忙しく、大人の本は軽い恋愛小説ばかりよむようになった。そして、あまり開くことの無くなった山崎豊子さんの小説。


私が読んだことがあるのは数ある小説の中で有名なものだけで「白い巨塔」「不毛地帯」「大地の子」「沈まぬ太陽」


これらを読み返すと、子どもたちの妖精や妖怪がいる世界から、深く大人の世界に帰ってしまうのだ。


が、最近、テレビの番組の特集をみたこともあって、「大地の子」をよみかえしました。


太平洋戦争末期、家族を失った幼い兄妹が中国に取り残された。実父は存命、復員。兄妹は離れ離れになり、兄は、中国人養父陸徳志に救われ陸一心として大切に育てられる。戦争という極限状態の中に置いてなお人としての尊厳を失わなかった人々がいる。


「戦争を知らない子どもたち」が大方の今の世の中。いまさら、なんどもなんども、戦後処理の問題がもちあがっては、謝罪させられるのを もう、うんざりした気持ちで受け止めていた。政治家たちはふがいないと思っていた。あの日を忘れないぞ・・の中国やアメリカでの式典をみては、なぜ、その責任を今の時代をいきる私たちがとわれなきゃならないんだ・・・と感じたりする。


だけど、この「大地の子」を読むと、爆弾こそ飛び交わないものの、戦争は終わっていないと思わされる。そして、そう感じさせてくれる山崎豊子さんの力に感謝する。


戦争の記憶はやがて風化されてゆくものなのか、風化されていいものなのか、風化させたほうがいいものなのか。


特集番組で、「戦争は憎い、日本人が憎い、でも、子どもには罪が無い」そういう中国の残留孤児の親が、孤児が日本に帰って、一人ぼっちで暮らしていることが撮影されていた。


自分自身が母親になり、さあ、自分の子どもでさえも放棄したくなる子育て、はたして他人の子どもを愛し育てることなどできるのだろうか・・と自分に問う。そして、愛し育てられた日本人の戦争孤児たちがたくさんいることに感謝する。その人々が日本に帰って差別され職が無く苦労していることに胸が痛む。そして、その育ての親たちが中国で孤独な生活を送っていることに人生はおとぎ話ではないのだと・・辛くなる。


だれが、魔法の杖やランプを持っているのか・・。おそらく、今同じ時代をいきている自分たちなのだろうと思う。


どこかで、誰かが踏みにじられて、どこかで何かがないがしろにされて、それは、いつか消えてなくなるものではないのだと思う。平和でボケていては、戦争で理性を失った人々を非難することはできないと思う。やがて、自分の子どもや夫が、消費税が導入されたように 徴兵制が導入されて 有無もいわされず借り出される日が来ることはありえる現実なのだと、思う。

gege


「解夏」さだまさしの短編小説。


・・愛しているから別れよう  愛しているから別れない・・


「愛している」といえば、そのしりから不安がよぎるし、「幸せよ」言葉にしたとたん 寂しくなる。死にたいと思えば、生きたいし、生きなきゃとおもえば死にたくなる。


「結夏」「解夏」の意味はまた小説をよんでください。


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本を読んだのも映画を見たのも去年の話です。でも、昨日、ツタヤのCDの投売りがあって、そこで、ふと解夏のサントラCDが売っていたので、買ってきた。その美しい音楽を聴いていると、本を読んだ当時の自分が思い出された。


あの日、私は久しぶりに都市の匂いをかぎながらたくさんの人々にまぎれて、歩いていた。そして、疲れていた。いろいろ大変なことが続き、それに伴う手続きで一人で町にでていた。あちらへこちらへと足を運び、やっと 全てが終わったら、真っ暗になっていた。


「もう こんな時間」


電話を主人に入れると「もう、こんな時間やないか。はよ 帰って来てくれよ」アレがないんだ、義母の病院がしまってしまうじゃないか、などなど、言われた。



結婚して、一人で町へでることなんて十数年なかった。都会へ帰りたかった。いま、一人で都会にいるじゃないか。せっかく帰ってきたけど、また 田舎暮らしへ慌てて帰ろうとする自分が可笑しくなった。だって、夕飯はちゃんと準備してでてきた。家のことも滞りないようにやってきた。自分の遊びのためにでてきたわけではないのに、j自身は食事もとらず、コーヒーも飲まずに遅くなってごめんねと電話する。私がかわいそうだ。


私は何を慌ててるの?


そう思って、突然 目の前の映画館に入ってやった。そして、もうこのまま帰らない事だって有りや。そこで、やっていたのが、「解夏」だった。


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小説と映画の両方がよかった。私はそうおもうことは珍しい。私は本を先に読んでいることが多いので、自分のイメージと離れてしまうと、映画のほうがどうしても、しっくりこなくなる。「解夏」の映像のほうになんの違和感もなかったのは、きっと、本に忠実だったことと、映画が多くを語りすぎていないからだと思う。そして、長崎の映像がとてつもなく美しかった。大沢たかおと石田ゆり子もよかった。音楽もすばらしかった。


主人公の苦悩と自然や音楽のうつくしさ。生きることの光と影が印象派の絵画のようにうつくしく描かれていたと思う。



そして、自分の大切な人と、もっと しっかり向き合ってみよう、そう思って、家路に着いたのだった。

a-sa



人生は底なし沼だから、死んでもなにも変わらないし、生きていても何も変わらない。



結婚したとき、おおおじいさん、おおおばあさんがいた。その人たちが死んで、主人の父母と私たち夫婦はそこへうつりすんだ。そこにはおおおじいさんとおおおばあさんがつかっていたなべやお皿があって、そこへ主人の父母が使っているなべやお皿を持っていった。そこへ嫁いだ私は私の気に入ったなべやお皿を持って行って、増やした。


増えるけど減らない。捨ててしまいたいけど、私が捨てたいものと、捨ててもいいものはいっしょじゃない。私がなべを置きたい場所とおばあさんがなべを置きたい場所は一緒じゃない。なべを置く場所をきめたい私と、なべを置く場所はいつも一緒じゃないおばあさんと一緒じゃない。高価なものか、大事なものか、使っていいのかつかってわるいのか、そんなこと、私にはわからない。


人生はなべやおさらみたいにいろんなものが増えて、散乱する。ちゃんと箱の中には納まらない。もとの場所にはもどらない。自分にとって大切だったものが、どこかへ、行ってしまう。


そして、私は、どうしようもないことはあきらめたり、忘れたりすることにする。


あきらめる。どうこうしようとおもわないことにする。どうこうなるとおもわないことにする。あきらめると、そのうち忘れたりする。そして、無頓着になってしまうけど、苦しまなくなる。そして、無事人生 生き延びる。生きてるうちになんとかなってしまったりすることもあるし、なんとかならないこともある。大切ななべはでてくるかもしれないし、でてこないかもしれない。


世の中便利になりすぎて、どんなことでもなんとかなってしまうから、大変生きにくくなったとおもう。なんとかなると、希望は、欲望は、際限がなくなる。


雪の女王にでてくるカラスが、お城で飼われることになって、食べる心配をなくしたとたん頭痛もちになったし、お金の心配なく買い物ができるひとは、本当にほしいものを見失うし、溢れる才能は、その人自身をどこまでもおいかける。。不死の命を得たら、やりたいことがなくなる。


農業をする人のあきらめる姿が私は好きだ。そりゃ気の毒だ。だけど、風や雨や太陽や土の癇癪にはやっぱりかなわない。そういうとき、また、来年植えますという年配の農家の人がテレビにうつしだされると、「おっちゃん、私もがんばるで」って思う。



溢れる才能をもったアーサーの死はなんとかならなかったのではなくて、なんとかなりすぎたことが多すぎた気がする。で、ここまでは、平凡な日常を送る主婦のたわごと。



「アーサーはなぜ自殺をしたのか」医師であり、弁護士でもある、アーサーという優秀な男性が自殺した。三十三歳であった。かれはなぜ自殺したのか。UCLAで死生学を教えていた著者は、アーサーの離婚した父母や、兄、妹、前妻、恋人、親友、かれの担当医であった心理療法家、精神科医に会って、インタビューの記録。


アーサーはなぜ死んだか。自殺についての専門家たちの分析やコメントがあり、これ以上は考えられないほど克明に、一人の自殺者の内的な軌跡を追いつづけていく。


アーサーは、うつ病であった。それも重症であった。かれの人生は耐えがたいほどの苦痛に満ちていて「いつも体中に釘を打ち込まれているようだ」「針だらけのベッドで横になっているようだ」という言葉がくり返し現れてくる。母親も、祖母もうつ病だった。その生を追っていくうちに、かれのケースは心理的なもの、内因性によるものではなく、生物学的(遺伝的?)な病ではなかったか。やはり、自殺は避けられなかったのか。担当の精神科医は「いつか自殺すると百パーセント確信していました」と述べている。


この本は、自殺しようとする人を救うことは可能か?と問い続けたまま終わる。


『アーサーはなぜ自殺したのか』
    (エドウィン・S・シュナイドマン著 高橋詳友訳 誠信書房 2400円)

okaasann


気持ちが落ち込みがちになったとき、”おせいさん”こと田辺聖子の本を読んでみたくなる。関西弁ののびやかな小説だからだろう。言葉とは生きものだ。日本語を話すものにとっては日本語でしか表現できないものがある。英語を話すもの、中国語を話すもの、それぞれにしかつたわらない微妙なニュアンスがあって、それはその言葉以外に置き換えられないものなのだ。それに相当する言葉もなければ、その言葉の持っている歴史もちがうし、背景もちがうし、言葉がいきている文化もちがう。標準語でかたられた小説は、わたしたちの中では、テレビや映画の世界のことのようで、ほんの少し、自分の生活とは異次元のできごとでもあるのだ。ところが、関西の言葉で語られるその中身は、非常になまなましく、私の心に迫ってくる。関西弁でなければ、表現できないものがあるのだ。関西の人間でならでの文章の響きは、田辺聖子の小説はぴか一だ。


この作品の登場人物は、浅尾昭吾は61歳と12歳年下の妻、美未はロマンス小説作家・浅尾美遊として忙しい日を送り、高校生の娘・つむぎは健康な娘がいる1つの夫婦が中心に描かれている。昭和五年生まれという設定の「昭吾」は「ナアナアというのは人間の文化ですなあ」と言う。女をくどくのもナアナアで、という。再婚の昭吾は、「物ごとは二へん目がうまくいく、宴会でも二次会が盛り上がる」と、よめはんになる「美未」にプロポーズする。


W不倫ニアミスか?昭吾は学生時代のマドンナと再会。美未の40過ぎての若い男性との淡い恋をする。昭吾の目から見る昭和という時代。美未が京都へ行くのをあわせて、国文学専攻だったおせいさんの京都観を感じられるのが楽しい。さて、結末かいかに?


先日、戦後のことをしらべていて「うたごえ」運動なるものをみつけた。その資料だけ見ていると、自分には関係ない昔の古い話のような気がするが、田辺聖子の小説でよんでいると、当時の人々が戦後、たちあがって生き抜こうとする力と勇気と悲しみがつたわってきた。


昭吾が戦争体験、十五歳、中学三年生の友人が焼イ弾の直撃を頭に受けたのは防空壕に入る寸前だった。ある友人は校舎の壁にへばりついて助かった。マドンナ、倉本あぐりの手をひっぱって、空襲の中を逃げてはしった情景には命がかかっていた。戦時下の恋が、痛々しい。


今の時代ならなんの問題もなかったであろう昭吾とあぐり。


おかあさん、疲れたよ」の言葉は、あぐりが死ぬ時に言った言葉を表題に使っている。戦争に翻弄され、恋人や夫を戦争で失い、生涯一人でつよくけなげに生き抜いた女性の言葉。人々の人生を、意図も簡単に翻弄させた昭和という時代、戦争というもの。人間の本質はかわらないとしても、おかれた状況や環境によって、これほど簡単に左右されてしまう悲しさをこれでもか・・とかいている。


それでも・・・それでも・・・・失望せずに生き続ける。どんな目にあってもときにはあきらめて、ときには希望をつないで、生きつづける。という底辺にながれている聖子節に、私はいつも勇気づけられる。