宇宙の知恵☆人生を歩む地図

宇宙の知恵☆人生を歩む地図

「人生を歩む地図」なくしてあなたは
この世をどのように生き進むのでしょうか?
地図なくして、あなたは迷わず進んでいけますか?

奈良の大仏様(毘盧舎那仏)

 

毘盧舎那仏を宇宙の中心と考え、それが宇宙の真理。
唯一の実在、それすなわち、毘盧舎那仏。

奈良時代に考えられていた宇宙感で、

今の宇宙を考えてみよう。

毘盧舎那仏は密教では大日如来とも呼ばれております。
宗派の違い(経典の違い)

から呼び名の違いになっているようです。

大日如来(だいにちにょらい、梵: Mahāvairocana)
梵: Mahāvairocana(マハーヴァイローチャナ)を

摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)と音写。

 

広隆寺「弥勒菩薩像」



そして毘盧舎那仏の支配下に様々な超越人格。
観音様がそうであり、そして個人に最も近い超越人格として
主体、守護の神霊の存在があり、そこから人への導きは常になされる。

潜在意識の中は超越人格の指導、導きを受け入れる統一ベクトルと、
思考のベクトルが導きと同調しない錯覚ベクトルの入り交じる
玉石混淆の意識空間です。

これを理解しやすくするために

親子の関係と例えてみましょう。

超越人格の主体を子供を持つお母さん、お父さんの親とします。
そして、その子供を我ら人間とします。


子供が生まれて、親は大切に愛を持って子供を育てますが、
子供が成長するに従い、あれも欲しい、これも欲しい、あれを買って、
友達の誰々ちゃんは、あれを持ってるし、と他人と比較したり、
いろいろなお願いを親にねだったりします。

しかし、親の立場では、もっと勉強をして成績が上がったら、

買ってあげよう。
一生懸命勉強して、将来社会の役に立つような人に成って欲しいと、
多少は、甘いお駄賃も上げますが、厳しく躾けることも、

又、愛があるからこその親心です。

子供の中には親の心配をよそに、学校に行かなくなってしまったり、
勉強嫌いな、遊び大好きな子供も多いわけで、
彼らは僕は、私は、自分の自由に生きていきたいから、

そうさせて、と益々、親の子育てに反発してくるわけです。

そうした自分の自由にしたい、反発したい思考が錯覚ベクトルです。
この場合、親は超越意識なので、絶対正しいのです。

我々の住んでる社会では、親でも間違うことはありますが、
実在としての超越意識の導きに、間違いはないのです。

我々人間は、唯一の実在から分かれてきた、

誰一人として例外なく、神の子です。

子供の持つ錯覚ベクトルとは、

自分は正しいと錯覚している思考です。
思考は、行動に結びつきますので、

錯覚ベクトルに基づいた行動は、

結果的によろしくない行動、

運命的に良くない行動になります。

 

運命的に良くないとは、神の子であることを、

気づかせるための、超越人格の愛の導き、

でもあるわけです、厳しいですね。

こうした錯覚ベクトルに自分自身で気付くことが、

日々の修行です。
それが「瞑想」です、「感謝行」です、

「祈りの行」です。
それらの行を通して、

ゆっくりと潜在意識の浄化をすすめていきます。

超越意識の導きにそぐわない思考である錯覚ベクトルを
整理、あるいは統一ベクトルへ変換、あるいは消滅させることです。

そうした潜在意識の浄化にあたり、中心的な行が、

自分を明らかにする「自明行」です。

宇宙は「思い通りに成る法則」に支配されてます。
超越意識の導きにそぐわない思考や行動は、運命的な下降を
呼び込みます。

気づかない錯覚ベクトルの思いに貴方は自由に支配されてしまいます。
それを、貴方は生きる自由と勘違いしてはいけません。

少しずつ、これら行の方法をひもといていきたいと考えております。
皆様、幸せな人生でありたいと願う方、その方法を学びたい方、

私と共にゆっくりとここで学んでいけますようにと願います。

 

Rome wasn't built in a day


 

と フラクタル共鳴することが般若波羅蜜多の行であり、

修行とは、そうしたフラクタル共鳴を求めて行うことです。

 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罜礙 無罜礙故 無有恐怖

 

菩提薩埵とは、我々の生きるこの世界で、目覚めたいと望む人です。
その人が般若波羅密多を実践することにより、目覚めて、
心無罣礙、心に刺さってるトゲが抜けて、それ故に幸せになる。
そこで目覚める為には般若波羅密多の行を実践することです。

 

 

「心に蝕む嘘」のことを考えてみましょう。

蝕む嘘ですから、自分で悪いものと自覚できていない嘘です。

例えるなら、癌に侵されているが、自覚症状も無く生きてる状態、

あるとき、検診やらで見つかって、それからの処置ってなるのでしょうけど、

なるたけ早い時期に発見して、切り取ってしまえば全然問題は無かったけど、

知らずに放っておいて、気が付いたときにはすでに手遅れ……悲惨です。

 

「心に蝕む嘘」を発見してください。

そして見つけたら、超越人格様にお願いして処置してください、

ということで「嘘発見の自明行」といった心の行は

幸せになるに欠かせない、日々の行でしょう。

 

「心に蝕む嘘」とは、心に刺さる罜礙です。

と フラクタル共鳴することが般若波羅蜜多の行ですが、

瞑想によりの汚れである錯覚ベクトルを発見して処置しましょう。

「嘘」とはの立場から、フラクタル共鳴することで発見できます。

たとえば自分中心の心の中にある「嘘」は

自分のわがままで人を傷つける。

人をいつも見下す→「偉い自分」意識に侵されている。

「偉い自分」は意地悪ベクトルを気づかずに発生させる。

「偉い自分」は自己顕示欲が強い、自分を偉く見ない人を否定したい。

これらは自分自身の心の奥に大事にとっておきたい。

それが、心を蝕む癌であり、手遅れになれば不幸の元になるのです。

心の平安を妨害するのは、こうした嘘です。

 

これらの嘘に対して、それは苦しみであるとの立場に成れ、

「正しい苦しみの自覚」を持つことが最初の一歩です。

「一次的事象の苦」とも言いました。

 

どのような嘘かと言いますと

「自己正当化の嘘」です。

「傲慢な人となる嘘」です。

自身の運命を悪くする嘘です。

 

 

想念、思考、動機はどこから湧き出てくるのか?

その行動に嘘は無いのか?
打算を隠していないか?
不満を隠してないか?
傲慢さが隠れていないか?
見破られたくない駆け引き、作為を隠していないか?
筋の通った理屈を装っていないか?
知らないのに知ってるかのような……


心の姿勢が素直で正直でいるのか?
色(ピンク)の立場からの想念、思考、動機 

行動であるのか、などでしょうけど、

そんなことはどなたも完璧には出来ないのです。
しかし、出来ない自分に対して苦しみの自覚が

が大切なのです。

そうした苦しみ「正しい苦しみの自覚」です。

 

想念って、何なのでしょうね、岩根先生は雲のようなものだとおっしゃってます。

 

 

↓参考までに、私には同じように感じます。

想念の力「The Power Of Mood」

 

 

尚、ここのブログでは高次元意識に関しての記述も含まれ、

理解を助けるため、ここのブログ独自の語句も使っております。

そこで、単独ページのみを読んでも理解の難しい箇所もあります。

完成の章順に読み進んでもらえますと、般若心経の世界観と共に

理解されて、新しい語句の詳しい説明にも馴染んでいただけ、

↓より深い理解につながります。

 

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と フラクタル共鳴することが般若波羅蜜多の行であり、

幸せに生きるとは、そんなフラクタル共鳴を求めて生きることです。

 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罜礙 無罜礙故 無有恐怖

 

「心に蝕む嘘」のことを考えてみましょう。

蝕む嘘ですから、自分で悪いものと自覚できていない嘘です。

↑はここのブログでは毎回のように言っていることですが、

ご理解いただけて、心に潜む嘘を発見して、捨てよう、整理しようと

真剣に考えた方は、どれだけいますかね……

潜在意識に貯まる「錯覚ベクトル」は超越人格の導きに沿わない「嘘」です。

 

「人生」道 でもおなじ事を見方を変えて書いております。

 

 

さて、使う語句を馴染みのある語句に変えて書いてみましょう。

 

私達は、この世に生まれ成長にするにしたがい、

自我を発達させます。

その自我とは、親から受けた教育や育った時代背景や国、

それらの持つ文化、言語など、生まれ育った環境に左右され

100人100様の価値観、を形成するわけです。

当たり前ですが、この世に二人として同じ人はいません。

 

その自我とはエゴとも言いまして、

常に自分の考え、思考が正しいと信じております。

しかし、自分の考えは正しいと考える自分は、

他人から見たら正しくないことも、多々あるわけです。

 

俺は、私は、こんなことも出来る、あんなことも出来る、

そんな優越感充分だったとしても他人から見たら、

さほどの評価もされていない平凡な人だったり、

その逆に、

俺は、私は、みんなが出来るこんなこと、

あんなことも出来ない、

背は低いし、美人でも無いし、育った家も貧乏だし、

と、そんな劣等感に固まってる人もいます。

 

自我とはエゴとも言いまして……

ここでは色(茶色)で現します。


そう、皆さんエゴ充分で生きているのが現実でしょう。
しかしそうした自我、あるいはエゴの自分と,

もう一つの自分、真我とも、ハイヤーセルフとも呼ばれる、

高次元の自分もあるのです。
ここでは色(ピンク)で現します。

 

と フラクタル共鳴することが般若波羅蜜多の行であり、

幸せに生きるとは、そんなフラクタル共鳴を求めて生きることです。


瞑想をしていいると、色々な思考、

想念が湧き上がってきます。
こうした思考を雑念といいまして、

潜在意識の中の錯覚ベクトルから、
生まれてくる思考です。

瞑想の方法として、そうした雑念が出てきたら、

それはホントの私では無い、

消え失せろ! あるいは想念停止!

と自分に言い聞かせ、無我の境地を追求します。

これは「言うは易く行なうは難し」でありまして、

雑念は無意識の状態の時に、ドバドバと出てくるものです。
アアでも無い、こうでも無い、ああすればよかった、

こうしたい、あれが欲しい,これも欲しい……

といった思考です。

そこで、瞑想の時、そうした雑念を自分自身で見張ります。
自分自身の思考を観察します。

 

そして、そんな雑念が出てきたら,

「今は瞑想の時なので、引っ込んでいてください」

と自分の思考を客観的に観察するのが、

瞑想での「観照」と言われるテクニックです。

「観照」とは、最初はなかなか難しいのですが

なれてきますと、今の自分はこんなことを考えてるな、

とか、ああ、自分にはそんな欲望があったのだと、

気がつけることもあります。

自分で自分の雑念を見張っておりますと、

実は隠れてしまって、あまり出てきません。

そして見張ってるのに疲れて,ボーッとした

何も考えていない無意識状態になっているとき、

ドロドロ~~シタシタ~と出ていたりします。

 

そこで、「ハッ!と気づき!」

あれ、「観照」していたのに、ボーッとしていたなと、

我に返る、といいますか、そんなかな。

私の瞑想は、そうしたことの繰り返しですけど……(笑)
それでもいいのです。
自分を観察する自分の立場、それが色(ピンク)です。

 

そんな色(ピンク)の立場を意識する。
それを生活の中での日々の行と考え、毎日少しずつ、

そんな色(ピンク)の立場で自分を観察する。


そして、生活しているその中でも、それをする。
それを日常とする。 

まあ、救れを目標とする私の日々の行でもあります。


はい、自分を観察する観察者となる。

そんな立場を意識するのです。
これも「言うは易く行なうは難し」でありますが、

時々でも気がつけばいいでしょう。

自分を観察する観察者とは……
色(ピンク)の立場です。
真我、ハイヤーセルフと呼ばれる自分の立場です。

おわかりでしょうか? 

色(ピンク)の立場で自分を客観的に見る。

それが悟りへの道です、そして救れへの道です。

そして、それが真の幸福への道となります。


 

臨済宗楊岐派に属する廓庵(かくあん)禅師の十牛図を紹介します。

廓庵(かくあん)は臨済禅師より第十二代目、宋の時代の禅師といわれてます。

日本には鎌倉時代に「禅」と共に伝わってきました。

 

 

室町時代中期の画僧の周文が描いたと伝えられる十牛図(相国寺蔵)

 

十牛図の中に描かれている牛は

我々が求めている真我(ホントの自分)のことであるとか、

自我の持つ欲望であると説く解説やら、NET検索すると色々ありまして

勉強になります。

是非、NETの中に沢山ある他の十牛図解説も読んでみると楽しいでしょう。

私は、思うように動かない、我が侭な自分が、この牛であると解釈しております。

 

 

 

 

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