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最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

※作者注 この記事はイジメや差別を助長する者ではなく、争いの火種を作るものでもありません。
インターネットに携帯電話どころか、テレビにラジオも無い1843年に書かれた著書ということを踏まえて、そこから私の見解をお読みくださいませ。
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彼に虚栄心がなかったならば、私は彼の誤った確信、つまり「誠実な錯誤」をただお笑い草として放っておいただろう。
彼が虚栄心の強い人間ならば「本当に恐れいった。今こそ僕はよくわかった。それは最も真理らしきものだ」と彼を抱擁した後、永遠の先から同じ一つの魂が呼吸してきた者として別れるだろう。これは意味あるいたずらなのだ。彼に虚栄心があるのだから。
(キルケゴール『哲学的断片』より)
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はい、デンマークの哲学者キルケゴールが言うには、人間には二通りあり、
「虚栄心のある人」と「虚栄心のない人」が居る。
つまり自分と「私、出来るアピール」が半端ない人かそうでない人だ。

パターン1
「自分をアピールせず、謙虚に間違いを信じ続ける人」への対処法は…。


何も言わずにこっそりと自分の心の中だけで笑っておきましょう。ってことです。
その人物に虚栄心が無い限り、私達の心にまで踏み込んでくることはありません。
こちらから正してやろうなんてのは、私達の虚栄心にほかなりません。

パターン2
「不真理を真理と思い込み、『俺って凄いぜアピール』をする人」への対処法は…。

その人とその人の主張を、これでもかと大袈裟に誉め讃えましょう。
そして彼のおかげで自分は真理に近づけた、と感謝の意思を示して永久に縁を切りましょう。
ただ連絡を取らないだけでなく、魂から縁を切りましょう、と19世紀半ばに生きたキルケゴールは主張しています。

これとは別に日経新聞に紹介された社会学者は言ってます。

「人はその人が『何故成功しているのか?』のカラクリがわかれば、必ずその人の真似をする。
そして成功のカラクリがわからない時はその人を妨害する。これがいわゆるイジメに繋がるのが、明らかに自分を磨くより非効率だ。」と述べています。

そう、イジメと悪戯は違い、愛ある悪戯はその手間暇を楽しむものなのだ。
強き者と真正面からの殴り合いで勝てないからこそ、動向と時期を探り、汗水垂らして力一杯落とし穴を掘るからこそ、その勝利は感慨深いものとなるのだから。
「信仰は常に道徳と努力の向こう側にあります」by SPA-k
デンマークの哲学者、セーレン・キルケゴールは、コペンハーゲン大学の神学部卒で、牧師の資格も持っています。
そんなキルケゴールが世に蔓延する恥ずべき牧師に取ってかわり、自分が牧師だったら、と述べたのが以下の言葉です。
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「さあ家へ帰りなさい。
おのおの、神が自分に与えた仕事を果たしなさい。
そして、人間の弱さを知っていて、貴方達がここに留まって、一日中讃美歌を歌い、祈り、神を誉め讃えるたけで、それ以外の何をしてもならないとは要求しない神に感謝しなさい。
そこで貴方達は、おそらく誘惑に出会うであろう。
しかし神は、あなた方がそれを知らずに過ごすことをゆるしたもうであろう。」
(キルケゴール全集9巻より)
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はい、キルケゴールはただ祈りさえすればいい、という風潮に釘を刺しています。
そしてそれぞれの人間としての役目や役割に差異はないことを述べています。
また、キルケゴールは

「牧師というものは我々に謙遜を与え、『欠陥はこの世にあって、我々自身にはない』と思いこませたことを、その牧師は恥ずべきである。
この世の外に出て、あらゆる瞬間に絶対的目的をしっかり保持するというのでない場合に、あたかも我々聖職者のみが最も困難な課題を選んだかのように自慢するように我々に教えることを恥じるべきである。

と、述べています。
私も小学生くらいの時に同じような疑問を抱いたことがあります。

「世の中の人全てが宗教に熱心になり、みんなが同時に神様に祈ったら、誰が畑を耕し、誰が警察官になって悪者を逮捕するのだろう」と。

教会の中で社会と隔絶したら

「自分達だけが素晴らしい」

は通用しないってことです。

私流に言えば、

「困難の道が待っていても、飛び出せ!安全圏で他者と世の中を批判することに満足するな!」

と言いたいですね。
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こんなイメージで(笑)。
冒険の旅は目的地が大事ではなく、出発し、帰ってくることが大切です。

最後にキルケゴールは

「病気の子供はやがて困難に出会うであろう。
それは両親が優しく愛情深くないからではなく、いつも一緒にいることが様々ないかさかいをつくり出すからである。」

と述べています。

宗教指導者は

「自分達だけが清らかだ」

と思ってはいけません。

また宗教を嘲笑する者は自身の信仰と別であることを忘れぬように
とあるポスターです。

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初出 2014年3月24日

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はい、こんな時だからこそ、何を思いますか?

何が本当に必要か?

私達はどうあるべきか?

「我、思う。
故に我在り。」

は、ルネ・デカルトの言葉ですが、考えなくなれば動物以下です。

哲学と信仰のみが私達に「自律」を与えてくれます。
「自立」ではありません。「自律」です。

「自律」は法律や罰則や金銭的報酬ではなされません。

「私が私であるためには?」

という問いかけによって生まれるます。弱き者ために規律を曲げる大切さを倫理と言います。
自分が自分に科す「矜持(きょうじ)」を道徳と言います。

不必要な物を無理矢理宣伝して買わせる経済活動や、対立や競争を煽る市場原理主義はコロナ以前から課題だったのですから。