そんなキルケゴールが世に蔓延する恥ずべき牧師に取ってかわり、自分が牧師だったら、と述べたのが以下の言葉です。
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「さあ家へ帰りなさい。
おのおの、神が自分に与えた仕事を果たしなさい。
そして、人間の弱さを知っていて、貴方達がここに留まって、一日中讃美歌を歌い、祈り、神を誉め讃えるたけで、それ以外の何をしてもならないとは要求しない神に感謝しなさい。
そこで貴方達は、おそらく誘惑に出会うであろう。
しかし神は、あなた方がそれを知らずに過ごすことをゆるしたもうであろう。」
(キルケゴール全集9巻より)
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はい、キルケゴールはただ祈りさえすればいい、という風潮に釘を刺しています。
そしてそれぞれの人間としての役目や役割に差異はないことを述べています。
また、キルケゴールは
「牧師というものは我々に謙遜を与え、『欠陥はこの世にあって、我々自身にはない』と思いこませたことを、その牧師は恥ずべきである。
この世の外に出て、あらゆる瞬間に絶対的目的をしっかり保持するというのでない場合に、あたかも我々聖職者のみが最も困難な課題を選んだかのように自慢するように我々に教えることを恥じるべきである。
と、述べています。
私も小学生くらいの時に同じような疑問を抱いたことがあります。
「世の中の人全てが宗教に熱心になり、みんなが同時に神様に祈ったら、誰が畑を耕し、誰が警察官になって悪者を逮捕するのだろう」と。
教会の中で社会と隔絶したら
「自分達だけが素晴らしい」
は通用しないってことです。
私流に言えば、
「困難の道が待っていても、飛び出せ!安全圏で他者と世の中を批判することに満足するな!」
と言いたいですね。

こんなイメージで(笑)。
冒険の旅は目的地が大事ではなく、出発し、帰ってくることが大切です。
最後にキルケゴールは
「病気の子供はやがて困難に出会うであろう。
それは両親が優しく愛情深くないからではなく、いつも一緒にいることが様々ないかさかいをつくり出すからである。」
と述べています。
宗教指導者は
「自分達だけが清らかだ」
と思ってはいけません。
また宗教を嘲笑する者は自身の信仰と別であることを忘れぬように