長く短い一日の出来事と思うこと

あの頃に戻りたい。

 

そんなセンチメンタルな気持ちとは全く別枠で、

 

あの時あぁしていればっていう、時間操作の欲もある。

 

けど、それは結果を知ってそう思うことなのであれば、

 

むしろ結果を知ってそう思う他にケースはないと思うけど、

 

その場合、戻った先の結果で、また同じように思うわけで。

 

後悔の度合いは変われど、

 

結果を覆すためのタイムスリップなら繰り返すだけなんだと思う。

 

つまりは、そんなまどろっこしいことなんてしないで、

 

自分が願う未来にしてくださいって願ったほうが早い気もする。

 

けどそれでは、もはやタイムスリップでも何でもなくて、

 

人生をイージーモードに変えてくださいって、神様にお願いしているようなもん。

 

そんなことも無理だし、時間操作も無理。

 

後悔するってのはそんな悪いもんじゃなくて、次の世代への道しるべにもなる。

 

自分が誰かの道を辿ってきたように。

 

それなら、あの時にあぁしていればってのは止めよう。

 

ここにある材料で、未来をなんとかプラスに変えていこう。

 

神様に乞いた正解の道に、少しでも近づけるように。

 

時には手を抜いて、時には嘘をついて、

 

そうやって長い道を浮遊していこう。

 

戻っても違う結果に不満足なら、また戻ることになるし、

 

それはきっとループなんだ。

 

甘んじて現在地から歩き進めよう。

自由な時間とは、自分と向き合う時間だ。

 

嫌でも自分と向き合わなくてはいけなくなる。そんな時間だ。

 

考えなくてもいいことを、しなくてもいいことを、気持ちを落ち着かせるために済まそうとする。

 

それがかえって自分を駄目にしてしまう。

 

何度も何度も呪文のように繰り返した。

 

If something happens, to make it look like it never happened.

 

人間の心はなんてひ弱なんだ。

考え込んだって、不安になったって、後悔したって仕方ない。

 

時間は戻らないし、この時間が誰かの役に立つわけでもない。

 

それなら目の前の問題を、僕にしか解決できない問題を、ただただやり遂げていこう。

 

今の僕にはそれしかできないから。だから手だけを動かすよ。

2024年の上半期が終わりを迎える。

 

そろそろ夏が来る頃。

 

スマホの写真を眺めて、上半期の思い出を探してみた。

 

今年の上半期は、なんだかんだ家族が集まってイベントができた。

 

そんな穏やかな期間だった。

 

でも、きっと、この下半期は違うんだと予想している。

 

2つの不安がある。

 

1つは生で、1つは死。

 

ため息ばかりはついていられない。

 

考え込むよりも、僕は目の前のことを一つずつ片付けていこう。

 

僕にしかできないことは必ずある。

仕事に集中できないし、妻の体調を労る…という体で、僕は定期的に一人になる。家に取り残される。

 

それが心地いいのは、2日くらいで、あとは惰性で過ごしている。

 

次第につまらなくなり、飲みに出たりする。

 

これはこの前の話。

 

急な連絡に応じてくれたのは、地元の旧友。

 

幼稚園、小学校、中学校と同じだった。

 

うちと同じで、昔から店をやっている。小さな居酒屋。

 

久しぶりに故郷の駅に足を踏み入れ、約束の時間にぴったり着く。

 

気づけば昔聴いていた音楽をチョイスしていて、耳からの心地いい音楽と懐かしい景色を楽しんでいた。

 

古い暖簾をくぐればそこが彼の家で、おばあちゃんやお母さんがいた。

 

これといった挨拶もせずに合流して、毎週来ているかのような感じで酒を頼み、乾杯をした。

 

前菜のように、お通しのように、近況をさらっと話してしまえば…あとは僕らの話題なんてなくて。

 

気づけばいつも同じ昔話をしている。

 

中学の時、一緒に登校するようになって。どっちが遅刻したって話とか。

 

町内の祭りの練習に来なかった話とか。

 

いつも同じつまみで、酒を飲み干す。

 

線香臭くて、い草臭くて、湿った畳にあぐらをかいて飲む。

 

あいつがトイレに行っている間、僕の目には小さかった頃の二人が店の中を歩き回っているのが見えたりするんだ。

 

そんなことも酒の肴になる。

 

 

 

 

 

 

昔は思い出ばかりに浸っていたし、それが過ぎた頃には、思い出ばかり話しているのがダサく感じていた。

 

でも、終電で夜窓を眺めているとき、とてもいい気分だった。

 

何かを誓い合ってもいないし、高め合ってもいないし、夢や希望の話もない。昔が良かったとも口にしていない。

 

それでも僕もあいつも、きっと、明日も頑張ろうと思うだろう。

 

自分でも忘れかけていたホコリ臭い話を共感し合える仲はいいもんだ。

 

また、そのうちふらっと飲みに行こう。

 

嫌なことがあってもなくても、昔に戻りたいと思っても思わなくても。

 

僕には帰る故郷はないんだけど、こんな形で帰るのも悪くないもんだ。

盆と正月に何処かへ…、そう、例えば遠い親の実家に帰ることなんてなかった。

 

なぜならこの家が親の実家だったから。

 

だから招くばかりで、夏の冒険も冬の楽しみも、きっとイメージとは違っていたんだ。

 

僕がばあちゃんに会いに行くには、電車を乗り継いだり、切符を買ってみたり、地図を眺めていくような道のりなんてなくて。

 

たった10秒。階段を降りれば、目的地に辿り着けた。

 

そんなつまらない日常が嫌で、都会や地方からやってくる従姉妹たちを羨ましく思ったことも多々あった。

 

でも、ないものばかりをねだっていたわりに、従姉妹たちから見れば「この立ち位置」はよっぽど良かったらしい。

 

考えてみれば、僕が思うような冒険はここにはなかったけど、たった10秒で会える距離だからこそ思い出は彼女たちよりも多くあった。

 

大げさな旅行をカウントせずとも、ちょっとしたドライブや買い物、小さなイベントも、確かにばあちゃんと過ごせていた。

 

その環境がうらやましいものだと知ったのは、ばあちゃんがこの世を去ってからだった。

 

 

 

 

 

最近思うんだ。

 

親孝行をって、子供を連れて実家に帰るんだけど

 

でも、親孝行だけじゃなくて、子どものための時間でもあるんだよなって。

 

むしろ、そっちの方が重要なのかもしれない。

 

 

 

 

 

君は僕と同じように、大きな冒険をしてばあちゃんに会えるわけじゃない。

 

たった10分。車に乗っているだけで、町内にいるばあちゃんに会えてしまう。

 

もしかしたら君も、そんな日々がつまらないと思うことがあるかもしれない。

 

姉の家族や妹の家族みたいに、遠出をして実家へ行きたいと思うかもしれない。

 

でも、いつか、すぐに会えることの良さを知る時がくるだろう。

 

 

 

 

 

そういった意味では、僕は仲介人みたいなもんだ。

 

なるべく多くを見て、なるべく多くを感じ、なるべく多くを楽しむといい。

 

僕がそうであったように。

 

その良さも知らずに、その良さが溢れている環境で。

もう、家族は忘れてしまったかもしれない。

 

きっと親戚なんて、そんなことを知る由もなかったのかもしれない。

 

でも僕は覚えている。

 

母のあの涙を。

 

例えば現在の光景がそれを緩和しても、当人が過去だと笑ったとしても、

 

僕は決して忘れない。

 

強い憤りは時間を超えてすり減って、行き場を失くしたまま浮遊している。

 

でも、だからと言って何もなかったかのように振る舞うのは違うと思うんだ。

 

どこかで何かしら決着をつけないといけないと思ってる。

 

これはもう、母の問題ではなく、僕の問題なんだ。

 

次に受け継ぐかは分からない。

娘が煩わしく騒いでいる。

 

起きて間もないのに、母親に怒られ、泣き叫んでいるのが扉の向こうから聞こえる。

 

父親ってのは気楽なもんで、仕事という魔法の言葉を使えばいつでもエスケープできる。

 

たとえ扉の向こうが戦場のように殺伐としていても。

 

でも、扉を叩く娘の助けを無視なんてできないから、父親はいつでもズルい存在なんだろうなと思う。

 

そんな無茶な娘が大きくなったとしても、この目線は変わらないわけで、

 

ありがとうと大げさに感謝されるよりも、元気に在ってくれればそれでいいと思うんだ。

 

特に何かを求めるわけでもなく、ただただ元気で笑顔で在ってくれれば。

 

そう思う時に、自分の親がしてくれたことを考える。

 

僕が気づかないことも、気づいていたけど何も言わなかったことも、

 

本当は感謝をしたかったし、その大切さも知っていた。

 

でも、自分が娘に思うことを考えたら、そんなことは野暮なんだって思った。

 

感謝は大切だし、言われて嫌な人はいないけど、それを言われなかったことに何かを感じることはなくて。

 

きっと僕が娘に思うことと同じように、むしろそれ以上に僕の親は「何か」を思っているんだろう。

 

嬉しそうにビンテージの酒を買ってきてくれた時でも、僕は何も言わないけど、申し訳ないなって思うけど、

 

ただただ元気で笑顔で在ってくれれば、それでいいって。

 

きっと僕も、僕の親も、そう思ってるんだろうな。

 

ただただ元気で笑顔で在ってくれればって。

思うことはあって、だからこそ「そんなもの」はどうでもいいって投げ出したこともあった。

 

僕はやっぱり自分の家族が一番大切で、それを蔑ろにされたことが気にかかってたんだ。

 

何かに反発しては尖った言葉を投げたりもした。

 

でも、歳取ったんだな。

 

自分の勝手な敵意のせいで、子どもたちの楽しい時間を奪っちゃいけないって思うようになった。

 

いや、実際はもっと穏やかで、もっと自由に思えるようになった。

 

それぞれが新たな家族を持ち、そこには騒がしい子どもたちがいて笑っていた。

 

もうそれでいいのかもしれないし、失くしたものを嘆くよりも受け継ぐことの方が十分に意味があって、

 

平和なんだと思えるようになった。

 

例えばそんな青さも愛しく、そして少しだけ申し訳なく思いながら

 

僕は「大きく寝息を立てた未来」を抱えて帰路についた。

 

また集まろう。

もしも時間を戻せたら…そう思ったことは何度もあったけど、

 

大人になればなるほど、その空想に意味がないことを痛感するから

 

しなくなるもんだな。

 

でも、ちょっと想像してみた。

 

例えばさ、大学卒業で地元に戻らないで埼玉にいたらって。

 

あの時はどう考えても選択肢になかった道だけど、今ならそれがいいなって思う。

 

もっとあいつらと遊びながら仕事しても良かったし、そんな中で今の仕事につながる知識をつけることもできた。

 

後悔はしてないけど、もっと楽しめたと思うんだ。

 

な?そう思うだろ?

 

あの頃の続きはないけど、あの頃を続けることができたなら、延長線もアリだったよな。