長く短い一日の出来事と思うこと

去年の祭りは一人だった。

 

家族は実家に帰って、だから持て余した時間をそんなことに当てたんだ。

 

酒を飲んで、歩いて、耳からリピートする曲を聴きながら、また酒を飲んで。

 

不定期に届くLINEに返信をして、そうやって一人でいることに寂しくなったり、有り難がったり。

 

今年はそんな時間を共有したくて家族みんなで訪れた。

 

何をするにも不自由で、片手間の酒も喉を潤したかどうか曖昧な感じ。

 

でも、去年より笑ってる。いろんな人に声をかけられ、調子に乗って踊る娘を見て、呆れながらも笑ってた。

 

寝る前に娘が、今日は楽しかったねって。

 

もっと飲みたかったし、もっとぼんやり人生や仕事のことを考えたかったけど、

 

こんな日も悪くないなって思った。

 

たいそうなことはしていないこんな日を、絶賛してくれる娘の頭を撫でて、思う。

 

来年もみんなで行こう。

 

僕のちっぽけな空想時間のために使うなんて勿体無くて。

 

君たちが汗だくで楽しげにしてくれるなら、僕の秘密の時間は必要ないのかもしれないね。

年をとれば賢くなるかもしれないけど、今の僕の感覚が正解とは限らない。

 

そもそも、賢いってなんだ?

 

知識と経験を手に入れただけじゃないか。

 

その知識も経験も、質が高いとは言えず、その時その時の僕が下した正当化や美化かもしれない。

 

そんな純度60%くらいのレベルで、何を偉そうに言うんだ。

 

 

 

時々振り返る。

 

そんなことがあって、あんなことを思っていたっけって。

 

頭では記憶していることも、その時は受け流すくらいで。

 

でも、改めて目を瞑って、当時の空気や匂いや音を思い出して感じてみると、さらっと流した記憶の再生とは違うってことに気づく。

 

些細な心の揺れとか、指先に残る痛みとか、余計なものまで半端に蘇る。

 

そしてそれと同時に、今の僕よりも優れていた部分が見つかる。

 

そう、それが感覚というもの。

 

 

 

前だけ見て、今の自分が最良だって顔はやめなよ。

 

鏡で見れば、昔嫌いだったおじさんおばさんみたいになってるよ。

 

ここにあるもの、あったはずのもの、失くしてしまったもの、無くてもいいもの。

 

僕はたまに昔の自分に会いに行って、そうやって感覚を融合させたりするんだ。

 

 

 

 

 

忘れちゃいけない感覚はある。

 

「そう思えていたものが、そう思えなくなった」ってのは、赤信号だよ。

足を引っ張るのが過去だとしても、未来への道を見出すのも過去なんだよな。

どうして済んだことばかりを思うのだろう。

 

もう戻ることはないのに、終わったことに改善策や防止策を見出しても意味はないんだよ。

 

でも、それは不確かな明日以降に投げる思考よりも容易いんだよね。

 

だって、起こってしまったことなんだから。何も分からない、起こるか起こらないかも分からない未来より、なんぼか思考は安易く受け入れるよね。

 

そんなスピードでいたら、あっという間に時間に抜かされていく。

 

昨日まで当たり前だったことが、もうすでに違っている。

 

僕はなんて無力なんだ。

 

今もなお、起きたことに目を向けている。

 

当人は先に進んでいるというのに。

 

僕に力があればって話じゃない。怠惰が招いた結果だから、シンプルに僕は僕を全うするしかない。

 

いつかなんて常套句を聞くたびに、僕はね、辛くなるんだ。

 

人生はいつだって不意にステージを上げてくる。

 

僕はまだ追いついていないよ。

夏の匂いが窓から香り、温い風と煌々とした灯りが狭い部屋を照らす。

 

その窓際に硬いパイプベッドがあって、僕は、その時期は毎晩そこから通りを覗いていた。

 

そんな時に聴いていた曲。

 

今となってはどんな想いかも具体的に思い出せないけど、ずっとずっと遠い場所にいる相手と、それと同じくらい遠い目標を見つめていたんだと思う。

 

さよならをしたのは唐突で、一般的な別れよりも、どちらかといえば感情的に寄り添った終わりだった。

 

そう、「いつか必ず迎えに来るから」。

 

そんなことを言ったわけじゃないけど、心には思っていたんだ。

 

それを言うのと言わないのでは全然違っていて、今思えば、そんなくだらない格好つけも可愛く思える。

 

結果的に僕らは交わることはなく、とても客観的に見れば互いに離れたと言うより、僕が離れて行ったんだと自然に思えた。

 

あの頃はそれまでの過程について、自分の情けなさとか不甲斐なさとか、そんなことに悔やんでいたけど、大人になればそれが言い訳でしかなかったことをとても残酷に割り切って理解できる。

 

本当に「大切」ならば、平穏な日々を壊したりしないし、それに耐えうる強さがあったのなら、迎えに戻ってこようとは思わないし、そんなスタンスで相手を不安にさせたりしない。

 

僕はあの夜、何か見えないものに向かって頑張って、その先にまた彼女と過ごすことを目標に、さらにもっと感傷的に窓から夜を眺めていたけど、違うんだよ。

 

何も誓っていないし、単純に自由になりたかっただけ。その環境に身を置くほどの強さもなかっただけ。

 

だから相手を利用して、不確かな未来を利用して、僕は僕が傷つかないように自由になる道を歩いたんだ。

 

それを悪いとも思わないし、それを後悔しているわけでもない。

 

今となれば、そんな右往左往が愛しいと思えるし、その先に答えはないけど、なんていうか、この曲を聴くと、当時を思い出すんだ。

 

何も難しいことはなかった。ただ、君をちゃんと傷つけて、その罪を背負って自由を選べばいいだけだったんだ。

 

懐かしいね。

まるで時間が無限かのように振る舞って生きているくせに、時折、その有限さに気づいて足掻いている。

 

けれどその癖を正すことはできず、意思決定や現状維持や後回しの癖に胡座を描いて座ってるんだ。

 

もう二度と手に入らない、一生分の涙を流すくらいの後悔がなければ、こんな当たり前のことに気づけない。

 

そんな僕らは怠惰で懸命な生き物なんだ。

 

「今じゃない」を繰り返した先に待つのは、無言か脱力か振り向きか。

 

さぁね、機会はいつでもどこでも転がってるさ。

一喜一憂で日々を過ごすのは個人事業主だけなのかもしれないし、それはそれでいいんだ。

 

でも、もう少し上にって思うなら、僕の中で少しくらいは我慢っていうか、辛さを経験しなくちゃいけない。

 

それは自分の一番したくない仕事。自分の一番嫌いな仕事。

 

まぁ、子供みたいに嫌だってずっと逃げていたけど、ここいらでそのゲートをオープンして行こうかなって思う。

 

それはお金のためでも家族のためでもなく、単に挑戦心が決めたことかもしれない。

 

行こうか。そろそろ。

久しぶりに折りたたみ携帯の電源を入れた。

 

それは中学の頃、高校の頃、大学の頃。

 

でも、昔と違うのは、僕のための時間ではなく、子供の遊び道具のため。

 

暇を持て余した子供達に、僕は自分の昔の携帯電話を渡した。

 

嬉しそうに、そして乱暴に扱っている。

 

いいんだ。もう使うことはない。壊されてもいいさ。

 

でも、ふと手に取ってコンセントを探してみた。

 

驚くことに繋がるんだよ。

 

あ、そっか。まだ僕はその記憶と繋がれているんだ。って思った。

 

そんなことに意味なんてほとんどないけど、なんか安心した。

 

写された子供の僕を一瞬見て、すぐ電源を切った。

 

それは精神的に見るのが辛いからではなく、これは、今は子供のおもちゃだからさ。

目の前にいたと思っていた人が、実はそこにはいなくて、じゃあ僕は誰を愛していたんだって思う。

 

僕が思っていた「君」はそうではなくて、でも、君は君で、

 

僕が勝手に作り上げた影にしか過ぎなかった。

 

あれもこれも思い出を黒塗りするなら、いっそ存在しなかったってことにしようよ。

写真を見た時、その笑顔に懐かしさを感じた。

 

そういえばそんな時に記念に写真を撮ったっけ。

 

今となればそれが最後になるなんてあの頃は思わなかった。

 

シャッターを押す前に戻れるなら、強く抱きしめて

 

感謝を、謝罪を、さよならを、

 

伝えたかったな。

 

そして強く目に写したかったな。