ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回は放浪編、ビーフカツからもその他食べ物からも離れ、1970年代に海外を旅していた頃のことをテーマにします。今回は、トルコの話です。
これまでにインド・ネパール、アフガニスタン、イラン、シリア、レバノンとお話ししてきましたが、中近東の旅のゲートウェイとなったのはトルコのイスタンブールでした。
イスタンブールへは、ブルガリアの首都ソフィアから列車で入りました。ギリシャを通過しますのでイミグレーションは2回。その都度4~5時間停車します。このため、直線距離では600㎞ほどなのですが一昼夜以上掛かりました。
ヨーロッパ側旧市街から見た新市街
列車が着いたのは、ヨーロッパ側の旧市街にあるシルケジ駅。当時もオリエント急行の終着駅として有名でした。
私がイスタンブールで泊まった宿は、シルケジ駅から徒歩5分のところにあったヒッピーご用達の『ホテル・ギュンゴル』。個室もありましたが、貧乏旅行の私は、二段ベッドが10台並ぶドミトリー。1泊8リラ・・・当時の公定レートで換算すると150円、ヤミレートでは80円程度。
ホテルの隣には、これまたヒッピーの溜り場となっていたカフェ『プディング・ショップ』が。中近東やインドから戻った旅人を見付けては情報収集に励んでいました。
トルコは、当時の中近東諸国では珍しく麻薬の取り締まりが厳しい国でした。取引をすると死刑、自分用に所持していただけでも最高終身刑が科せられていました。私が訪れた時にも日本人の若者が一人投獄されていました。
そのためでしょうかプディング・ショップでマリファナやハシーシを吸っているような光景は見られませんでした。もちろん清廉潔白、品行方正な旅人であった私は、マリファナなどには見向きもしませんでした・・・なんちゃって・・・。
プディン・ショップ(左)とホテル・ギュンゴル(右)
ホテルの裏にはトプカプ宮殿が。宮殿敷地内では観光客向けに儀仗兵の行進曲演奏などのパフォーマンスも行われていました。
イスタンブールが東西の接点であるが故、トルコの音楽も中東とヨーロッパのフュージョンのようでした。
人も然りで、街を歩いていると東西の血が入り混じった美女に多く出会いました。この少女は12才・・・末恐ろしい美しさでした。
イスタンブール観光のハイライトは、当時でもアヤソフィアでした。現存のアヤソフィアは、537年にビザンティン帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス1世が正統派キリスト教の大聖堂として再建したものです。
その後13世紀にはローマ・カソリックの大聖堂として、15世紀半ば~20世紀半ばまではイスラム教のモスクとして使用されるという数奇な運命を辿って来た建築物です。1935年からは無宗教の博物館として公開されています。
ビザンティン建築の最高傑作とされるアヤソフィア
高さ55m、直径31mもある巨大なドームは、モスクとして使用された時期にキリスト教のモザイク壁画が漆喰で塗り潰されるなどしたため独特の雰囲気を醸し出していました。
イスタンブールを代表するモスクである『スルタンアフメトモスク』(通称、ブルーモスク)は、17世紀初頭にオスマン帝国第14代スルタンのアフメト1世が建造したもので、世界で最も美しいモスクと評されています。
スルタンアフメトモスク
ミナレットは、礼拝の時を告げる場所ですが、同時にモスクの外観を飾り威厳を示す象徴でもあります。通常はモスクを囲むように配置された4本ですが、ブルーモスクには6本のミナレットがあります。6本のミナレットがあるモスクは世界でもブルーモスクだけです。ちなみにメッカのモスクには7本のミナレットがあります。
こちらは、当時のグランバザールです。工芸品、金細工、土産物、日用品等々あらゆるものが売られていました。
街には水売りの姿もありました。興味津々でしたが下痢が怖くて手を出しませんでした。
トルコの最高学府『イスタンブール大学』の正門。イスラム色豊かでした。
広々したキャンパスで学生たちと話したり、学食でチャイを飲んだり、楽しいひと時を過ごしました。
これまで6回にわたって中近東・インドの旅についてお話ししてきましたが、次回はそこに至るアプローチとしてソ連、ルーマニア、ブルガリアのお話をします。多分6月頃に。
次回は、明日5月18日(火)に番外編。中国ハルビン市の『欧羅巴餐廰』をテーマにします。