私は救われれば、何の苦労もなく、苦しみを覚えることもなく、ばら色の人生を送れると、そのとき初めて魂を満たす充足感に打ち震えながら、そう思っていた。


しかし、レポートとテストの重圧で私は鬱病を発症した。


19歳のとき、最良のカウンセリングの先生に出会えた。

「私が病気になったのは、私のせいでもなく、ましてや誰のせいでもない」

先生はそういった。


私は、遺伝や自分が弱いからという潜在的要因、つまり先発的要因で鬱になったのではない。

家族依存という、両親の育ってきた環境要因や、現在の家庭的要因、夫婦のコミュニケーション不足。

母との密着型親子共依存、

父の仕事による精神的不在、支配的母、逃避する父。

アトピーへの差別。学校や、社会への不信と疑問。

人間不信。

イェス様を信じても、神は信じ信頼できても、長年人間の醜さを見てきた私は、今日まで、いや、今もまた、人間が信じられない。

傷つきたくないから、信じない。

家族は大好きだが、心から信じていない。

本心をいえるのは、真に私を理解してくれ、魂の交流ができるのは、

カウンセリングの先生だけだ。



親に傷つけられ、長年妹や、そして父、母をも心配し、心を痛めてきた深い悲しみ。

それが憎しみから恨みへと変わった。いろいろなものが憎かった。いや、今も憎い。

私は全てを憎んでいる。

なぜ、自分だけが、と、不公平を今も自分勝手に感じる。

妹を見ていると、よけいに憎む。

私は妹を愛し、大好きだが、他方で、憎み、忌み嫌っている。

同じように育ち、そして同じような環境、学校、同級生が与えられているのに、

妹は不登校になることもなく乗り越えてきた。

彼女は今大学に通っている。

それが一番許せない。私は憎悪と激しい嫉妬を憶える。

私が手にしえなかったものを彼女は持っている。

父の愛と母の愛情を感じる以外は。


自分の身勝手さ、醜さ、汚さ、いやと言うほど見えるがどうしようもできない。


「私は罪深い」


人間の罪の本質がまさにそこにあった。

私はここ2、3年小説とはいえないが、物語を書いていた。

しかし、投稿するには値しない会話が多い作品に危機を憶えていた。


市外の豊富な蔵書を求めていくと、

ある本に出会った。


丸山健二著 朝日新聞社 「まだ見ぬ書き手へ」1994年七月一日 第一刷発行。


私は衝撃を覚えた。

「人生は暇でしかないとうそぶくあなた」

文中に書いてある言葉はまさに私なのである。


私は21年生きてきた中で、何か物足りなさや、不満、鬱積、

しかし、それを何にぶつけてよいか分からずに、ただノートに文章を書き殴っていた。


「なんのために生きるのか」

私は中学生のときに当たり前に行われる高校受験に空疎、空虚感を憶えた。


進学すれば食べていけるという一見まともそうに見えるこの理由も私を納得させてはくれなかった。

なぜなら、義務教育は終わったのだから、ただ食べていくためにだけ生きるのなら、高い学費を払ってまで高校に行く必要などまったくないのである。


私は高校生のときに救われた(キリストを信じ、救われ、信仰を啓示により与えられた)が、そのまえに、ある八百万の神を信じる宗教に病気が治るからと、家族ぐるみで入ったことがある。


しかし、ある特定の時間に祈るとよけいに威光があらわれると教えられた。

わたしはそれに、本能、いや、魂が拒否するのを感じた。

いったい、その時間に祈れない人たちは、どうしたらよいのかと。

まるで、金のないやつは病院にかかるなと言っているように私は感じた。

金がないと、治療さえしてもらえないのか。


そして、入会金やら年会費など、家族分のお金はけっこう馬鹿にならない額だった。


私ははじめて、宗教に胡散臭さを感じ、その疑問は、主イェス・キリストをただ唯一の神として信じるまで消えなかった。


「宗教はお金を取る。しかし、救い主であるイェス様は何ら、宗教に関係のないお方です。」

私の行っているキリスト集会で、宣教師をやめられたドイツ人の方が言っていた。



宗教はやはり、偽者だった。

私はあまつさえ、自分にさえ疑問を感じていたが、それは正しかったのだと証明された。


私は初めて、生きる喜びを真に得、

「苦しんでいても、実は喜んでいる」

と聖書にあるような人生と生活を送れるようになった。

ブログネタ:何度も見たくなるドラマは? 参加中
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私が何度も見たいと思うドラマは
椎名吉平、石田ゆり子出演のものだ。

私が中学生のときだったから、もう6年以上前にはなるかもしれない。
フジテレビ系で、放送されたのだが、なぜか再放送がない。

だから、余計にみたくなってしまうのかもしれない。

「手に入らないものは余計に欲しくなる。」

椎名吉平演じるのは結婚詐欺師である。
石田ゆり子演じる刑事は彼に目をつけて、お金を彼に払った人たちに「あなたはだまされているのだ」
と教えに行く。
しかし、彼と関わった女性たちはなぜか被害届もだそうとせず、
「あの人は私を救ってくれた。」
そう言うのである。

彼は、騙す、というより、その女性を幸せにした料金をいただいている、という感覚だ。
その彼女も自分を訴えることはない―、彼はそれを知っているのである。

彼がターゲットの女性を選ぶとき、
大多数の人間の通りなどから、直感で選ぶ。
そして目当ての女性を見つけると、

「渇いている―」

椎名吉平はそういって、その女性の理想の恋人を、天才的な嗅覚で見抜き、怪盗百面相のように、無限の仮面を持ち、彼女の王子様になるのである。

そして、彼女が精神的に満たされたとき、
彼はお金を請求し、突然に姿をいつも消すのである。
風のように、消えていく。

しかし、不思議なことに、その刑事だけは彼のねぐらを見つけてしまう。
レンガ塀の趣のある建物のビル風のものに、彼は住んでいる。


そして、数々の女性を幸せにしてきた彼だが、
ついに足がつく。

彼は取調室の中でも慌てることもなく、平然としていた。
しばらくして、被害届は取り下げられた。

石田ゆり子はそれが気に入らない。
彼につっかかっていく。

「渇いている」

彼はそう言うと、彼女が刑事なのも全く構わず、
彼女に関わっていく。

そして、なぜ、彼は詐欺師なのに、彼と関わりお金を払ってきた女性たちは、
幸せそうで、椎名吉平の正体を知っていても、なお、彼を自由にするのか―。

石田ゆり子はやっと分かる。

そして、彼女は彼に関する全ての容疑を取り下げ、
椎名吉平を解放するのである。

そこで歩き去っていく彼の背中に向かって、女刑事は大きな声で言う―

「いつか、あなたのこと、つかまえてやる」

詐欺師は振り返り、ただにっと微笑んだけだった。
黒いトレンチコートの背中が通りに消えていく。

ほんとうに風のように―


さて、
「あなたのことをつかまえる」
とは、逮捕することなのか、
それとも、彼を自分のものにするのか―

それは私達の価値観や人生に、任されている。

私は想像する。


10年後、彼はまた刑事のいる街に戻ってくる。
まるで彼女に捕まえたがってもらっているように―

彼は拘置所に留置される。
彼らしくもないミスに、女刑事は驚く。

「わたし、あなたのこと、ずっと待っていたのよ。」

彼はそっと彼女を抱きしめる。

「愛しているわ…」


そして、彼は釈放され、二人は恋人同士になる。

「きみだけが、本当の僕を見つけた。
 きみが、あの最初の日、僕のねぐらを見つけたように―」

二人はほほ笑みながら、今度は春の麗らかな日差しの中で、
桜が散る中去っていく。
今度は風は吹かない。
詐欺師は安息の地を見出したのだ。



これが私の考えるハッピーエンドだ。
愛し合う男女は結ばれ、幸せになってほしい。


現実は別れがあり、愛することが辛くてやめたくなるときがある。
だが、人間はあいさずにはいられない。

それは、孤独だからだ。
人間は一人で生まれ、一人で死んでいく。


私もいつか、永遠の伴侶を見つけたい。
いまから、結婚について、
主イェス様に祈っているところである。