私はここ2、3年小説とはいえないが、物語を書いていた。

しかし、投稿するには値しない会話が多い作品に危機を憶えていた。


市外の豊富な蔵書を求めていくと、

ある本に出会った。


丸山健二著 朝日新聞社 「まだ見ぬ書き手へ」1994年七月一日 第一刷発行。


私は衝撃を覚えた。

「人生は暇でしかないとうそぶくあなた」

文中に書いてある言葉はまさに私なのである。


私は21年生きてきた中で、何か物足りなさや、不満、鬱積、

しかし、それを何にぶつけてよいか分からずに、ただノートに文章を書き殴っていた。


「なんのために生きるのか」

私は中学生のときに当たり前に行われる高校受験に空疎、空虚感を憶えた。


進学すれば食べていけるという一見まともそうに見えるこの理由も私を納得させてはくれなかった。

なぜなら、義務教育は終わったのだから、ただ食べていくためにだけ生きるのなら、高い学費を払ってまで高校に行く必要などまったくないのである。


私は高校生のときに救われた(キリストを信じ、救われ、信仰を啓示により与えられた)が、そのまえに、ある八百万の神を信じる宗教に病気が治るからと、家族ぐるみで入ったことがある。


しかし、ある特定の時間に祈るとよけいに威光があらわれると教えられた。

わたしはそれに、本能、いや、魂が拒否するのを感じた。

いったい、その時間に祈れない人たちは、どうしたらよいのかと。

まるで、金のないやつは病院にかかるなと言っているように私は感じた。

金がないと、治療さえしてもらえないのか。


そして、入会金やら年会費など、家族分のお金はけっこう馬鹿にならない額だった。


私ははじめて、宗教に胡散臭さを感じ、その疑問は、主イェス・キリストをただ唯一の神として信じるまで消えなかった。


「宗教はお金を取る。しかし、救い主であるイェス様は何ら、宗教に関係のないお方です。」

私の行っているキリスト集会で、宣教師をやめられたドイツ人の方が言っていた。



宗教はやはり、偽者だった。

私はあまつさえ、自分にさえ疑問を感じていたが、それは正しかったのだと証明された。


私は初めて、生きる喜びを真に得、

「苦しんでいても、実は喜んでいる」

と聖書にあるような人生と生活を送れるようになった。