それから私は喜び勇んで「死にたい」を連発し、

母や父、そして祖母も受け入れ態勢を作り、私はすこしの不満でも遺憾なく爆発させました。



そして、薬と、環境が好転し、ついに、

カウンセリングの先生との対面が叶いました。


しかし、他愛もない話はできるのですが、自分の傷やいやなことなど、言ってしまえば、鮮烈にフラッシュバックし、傷を生々しく思い出してしまうことに、恐怖を覚え、本当に心の傷を話せるようになったのは、今年に入ってからでした。


やはり、先生との信頼関係を築くのにも時間がかかりました。

私はこの先生だけは、人間で信じられました。


そして、集団の「言いっぱなし、聞きっぱなしの」AC(アダルト・チルドレン)の会にも参加するようになり、本当に自分を許せ、周りの環境が変わっていくのを今、感じています。

現実の私の生きる世界に、仲間と言う初めての概念と、存在ができようとしています。




私はそんなことを、小説に書き記したいと思います。

そして、丸山健二先生の「まだ見ぬ書き手」への私達に向けたエッセイの中で、

「あなたには一生筆を握ってもらいたいのです。一作ごとに腕を上げてゆき、一作ごとに高みを目指す冒険心を培い、年齢に似つかわしい深みのある凄い作品を書けるような、息の長い書き手になってもらいたいのです。そして最後には、誰もがあっと驚くほどの、当人も仰天するほどの圧倒的な作品を残してこの世を去ってもらいたいのです。」

私はまず、県隣の病院へ両親とその紹介してくれた方と行きました。

父や母が交互に、主治医となった先生に、寝ないことや、衝動的なお金の使い方など普段の私とは違う様子を話す中、話がひと段落付くと、私達にこう、話してくれました。


「自分の持つお金の範囲内で使っているのだから、いいじゃないですか。

私の知っている方では、2億という収入では払えそうもないマンションを契約したり、2千万単位の高級車を買う契約を結んだかたを知っていますよ。」


父と母はきょとんとした表情でそれを聞いていました。


診察室をでた私に父は言いました。

「そうだよな。絵里香は貯金の範囲内でお金を遣っていたよな。」

私は初めて、一条の光を見出したのでした。


そして、カウンセリングへもまず母が第一号として行きました。

あとから聞いたのですが、母は先生に会った最初に、私のことではなく、

「夫との関係が辛いんです。」

そう、泣いて言ったそうです。


当時完全な欝状態に入っていた私は「死にたい」と言っていました。

しかし、お前、何を言っているんだ。本当に死ぬつもりなのかという、受け入れられない家族の目つきに、私は悲しみを覚えていました。


私はなにもすぐにでも自殺したいわけでも何でもない。

死にたい衝動と死へたいする憧れと奇妙な陶酔感に本能が警鐘をならし、非常に恐れていたのです。

私はむしろ、自分を殺したい衝動を抑えるために、「死にたい」

ただ、「生きたい」と魂が叫んでいたからそう言ったに過ぎないのです。

そう、慢性的な気分の激しい落ち込みと、満足に歩けず寝てばかりいる自分から、

逃れたかったのです。

その手段としての「死」だったのです。



母はカウンセリングから帰ってくると、私に言いました。

「えりちゃん、先生から伝言。

死にたいといっぱい、思う存分に言っていいよ」


ああ、この人だったら、私のことを分かってくれるかもしれない、

人間で初めての、同じ星にすむ同種族の人が見つかった、

私は本能で潜在的にそれを感じていました。



私はここで告白しますと、

母の支配的な中で育ってきました。


父は仕事が忙しく、育児、子供のことは全てまかせきりで、私も小学生の頃は休みの日以外、父と話した記憶があまりありません。

そして母は本来のあるべき夫婦の姿、何でも話し合い、二人で決めていくという基本的な関係を見出せず、母は次第に父へ目を向けなくなり、私へと特に向いていったのでした。


アトピーという過酷な重度の病気もあり、私を、もう一人の自分のように、

そして私にはまるで糸が付いていて、その先の木の持ち手を母が持ち、まるで全てを支配しているように感じていました。


私はアトピーで小学生までは、友達が食べているおやつなど添加物と名のつくものは一切食べさせてもらえませんでした。そして、心配という名のもとで、洋服も、小学生まで母の選んだ服を何の疑問もなく着、その、支配的な関係に何の疑問も持ちませんでした。


しかし、思春期を向かえ、決定的な決別を決意するきっかけの核となったのは、私が19歳のときでした。

当時は満足な医者を見つけられず、薬もひどくなったら飲むと言う状況でしたので、私の鬱病は悪化しました。

夜もろくに寝ず、日中も寝ない。24時間ほとんど起きている時期がありました。


母は、私に寝なさいといいましたが、気分が最高潮に上がり、ハイだった私はそれを頑として受け付けず、跳ね除けました。何と言っても分かってくれない母に、私は苛立ちを感じました。

そして、私はハイになったときに見せる、母には心配であったろうまなざしが、私には異常と見る、理解できないと言う目に本能的に感じられました。


そんな中で満足に母や父に、自分が本当に感じてきた両親への子供としての疑問をいっても、何ら真に分かってはいない、という鬱積にまみれていきました。


ちょうど、そんなときに集会の方から病院と、別の方から個人でやられているカウンセリングの先生を紹介されたのでした。