フランスの大俳優、世界の大俳優、アラン・ドロンが逝去しました。享年88。
びっくりしました。体調が悪いという話は聞いていたので、いつかは…とは思っていましたが、まさかこんなに早くとは。
アラン・ドロンは、もう、アラン・ドロンがいる世界と、アラン・ドロンがいない世界では歴史が変わってしまうぐらいの大スターなのです。
恵まれない少年時代を過ごした後、17歳で軍隊に入りインドシナ戦線に従軍しました。除隊後世界を放浪し、56年パリに戻りさまざまな職業に就きます。その後友人から彼の美貌から俳優業を薦められ、カンヌ映画祭に出向いてみると案の定スカウトマンの目に留まり、大物プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックとの契約を打診されます。しかし、それを破棄してイヴ・アレグレ監督の『女が事件にからむ時』でフランスでデビュー。日本では59年『お嬢さん、お手やわらかに!』で、二枚目俳優として人気を獲得しました。
魅力を決定づけたのは、60年の『太陽がいっぱい』でした。裕福な友人への嫉妬と憎悪から殺人を犯し、殺した相手になりすまして逃げようとする美しい青年主人公の鬱屈した内面を繊細に演じ、衝撃的なラストシーンとともに観客の記憶に鮮明に焼き付けられました。小学生の時、TVで見て、オーバーヘッドプロジェクターで、必死にサインの練習をするシーンが妙に身近に感じられたものです。
58年に『恋ひとすじに』の共演者ロミー・シュナイダーと婚約します。その頃のロミー・シュナイダーは、まだ垢抜けていませんでしたが、ドロンの美男子ぶりは、最高。60年の『若者のすべて』で世界的名声を獲得しました。その後、『地下室のメロディー』『山猫』『さらば友よ』『太陽が知っている』など、数え切れないぐらいの名作に出演。
一方、私生活では、ロミー・シュナイダーとの婚約を解消し、ナタリー・バルテルミー(のちのナタリー・ドロン)と結婚しています。
『ボルサリーノ』では、同じフランスの名優ジャン=ポール・ベルモンドと競演しました。その後も、三船敏郎と共演した『レッド・サン』『リスボン特急』『暗黒街のふたり』『ブーメランのように』などに出演します。
76年の『パリの灯は遠く』では、同姓同名のユダヤ人に翻弄される役で、なんとも驚きのラストでした。
『エアポート’80』では、ハリウッドでコンコルドの機長役を演じました。
98年には、ジャン=ポール・ベルモンドと再共演した『ハーフ・ア・チャンス』に出演。若くて美人だったヴァネッサ・パラディの本当の父親はどちらか、という映画でした。この映画を最後に引退を宣言しますが、2000年以降は、TVドラマを中心に活躍しています。『アラン・ドロンの刑事フランク・リーヴァ』を見ています。
日本での人気はすさまじく、ダーバンなどのCMにも多数出演しています。
聞いた話ですが、日本の女性が、ドロンの大ファンで、彼の別荘を訪れたそうなんです。そこでは、執事さんが、毎日12時に門のところに置かれたプレゼントを回収していました。女性は、呉服屋さんの娘で、ドロンに着物を持ってきて、丁度12時の回収の時に渡したそうなんです。でも、そこを離れがたくて、うろうろしていたら、執事さんが中に入るように、と言ってきました。そして、アラン・ドロンに直接会ったそうなんです。ドロンは、渡した着物を着ており、とてもご機嫌で、親切にしてくれたという話。ああ、ドロンって結構良い人なんだな、と思いました。
また、婚約者だったロミー・シュナイダーが非業の死を遂げた時は、真っ先に家に駆けつけて、葬儀一切を取り仕切ったそうです。情に厚い人だったんですね。
ドロンの一番好きな映画は、『冒険者たち』。リノ・ヴァンチュラとジョアンナ・シムカスとの3人組で、沈没船からお宝を引き上げる話で、パリの街をトレンチコートを着て歩いていくシーンや、ジョアンナ・シムカス演じるレティシアのことを歌った♪レティシアの歌を口ずさむところなど、とにかく素敵な映画でした。男同士の友情にも涙しました。
アラン・ドロンは、イケメンとかハンサムとか、そんな言葉では形容してはいけない俳優だと思います。「美男子」、まさにその言葉が一番ぴったりする俳優だと思います。それも、世界一の「美男子」でした。
とても、心の整理はつかないけれど、病気で苦しんでいたと聞きます。どうぞ、安らかにお休みください。