意識進化の最初のステップ | 日本イルミナティ協会

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前回の記事で、ヨガマスターの荒井秀幸氏が2年間で半覚醒したことを書いた。
 
 
「たった2年で半覚醒できるなんて!」
 
そう思った人もいると思うが……
 
 
荒井氏の父上の荒井義雄氏は、肥田式強健術と気功を熟達し、道教のタオと透視術(米国認定)を習得し、波動サイコメトリー学会も主宰している 。
 

また、ヨーガのクンダリーニ体験をして、「意識の構造は幾何学模様の光である」ということを悟ったそうだ。
 
 
まさに、ヌーソロジーが教えていることと一致している。
 
 
 
 
荒井秀幸氏は幼少の頃から覚醒のための英才教育を受けて育ち、その土台の上で、ヨガの瞑想によって2年間で半覚醒体験に至ったのである。
 
 
釈迦やイエスも35日~40日間の断食瞑想で悟りを開いたが、両者共に修行期間は少年時代にまで遡る。
 
 
私の話をすると、本格的に霊的修行を始めたのが27歳で、31歳で半覚醒したので4年の修行期間だが、実際には10歳から神霊術を始めていた。
 
 
私の経験で話をすれば、半覚醒に至る道程は並大抵ではない。 
 
 
しかし、2013年から覚醒期に入り、2037年までの18年間で人類は半覚醒することが可能なのだ。
 
 
だが、「ボーッとしていて覚醒できるものではない」と、半田広宣氏は語る。

 

 

意識進化のためには幾何学などの理解が必要で、そのための知識と思考が必要となる。

 

 

と言っても、人造教や人間型ゲシュタルト思考では意味がない。

 

 

高次元の知識と変換人型ゲシュタルトの獲得、それと同時に人間型ゲシュタルトの解体が必要だ。

 

 

自我を生み出しているのが人間型ゲシュタルトであるため、人間型ゲシュタルトの解体に伴って自我は自然に希薄となり、感情に支配されることもなくなっていくのだ。

 

 

 

 

 

オコツト情報(ヌーソロジー)が教える意識進化とは、「次元観察子(Ψ)を顕在化させること」である。

 

 

Ψ1~Ψ2 (現在の殆どの人間の意識)

Ψ3~Ψ4 (世間でいう覚醒・悟り)

Ψ5~Ψ6 (私がいう半覚醒)

Ψ7~Ψ8 (現在の釈迦やイエスの次元)

Ψ9~Ψ10

Ψ11~Ψ12

Ψ13~Ψ14 (オコツトがいう覚醒・悟り)

 

 

 

まず、Ψ1~Ψ2をクリアすることが課題となる。

 

 

Ψ1は「空間」、Ψ2は「時間」だが、この時空の概念や感覚を超越することである。

 
 
時空を超越と言っても、この時点では肉体のテレポーテーションやタイムスリップを意味するものではない。
 
 
私は昔から体外離脱体質であったため、自然に時空を超越した感覚を身につけていたが、これは一般論としては語れない。
 
 
人間型ゲシュタルト(3次元認識)による空間と時間の概念や感覚を超えるための、知識と思考力を与えてくれるのがヌーソロジーなのだ。

 

 

 

たまに十牛図について質問されるが、まず「悟り」の定義が問題となる。

 

十牛図とは悟りに至る10段階を10枚の図と詩で表したもので、作者は中国北宋時代の臨済宗の禅僧・廓庵(かくあん)である。

 

まず、廓庵が釈迦レベルの悟りを開いていたとは思えない。

 

禅の無思考瞑想で到達できるのはΨ3~Ψ4が限界であり、第十図はΨ3~Ψ4ということになる。

 

 

 

 

Ψ3は「位置の交換」と呼ばれている。

 

 

主体と客体が逆転するために、「左右が反転」した感覚になるのだ。

 

 

クリシュナムルティなどが主張する「見るものは見られるものである」という世界認識である。

 

 

これが意識進化の最初のステップとなるが、瞑想などの変性意識状態で一時的に体験しても、それは一瞥体験に過ぎない。

 

 

Ψ3が意識進化の最初のステップとはいえ、一般的に悟りや覚醒と呼ばれているものなので、そこに到達するのは容易ではない。

 

 

たが、オコツトによれば、思考によって意識進化が可能だという。

 

 

いや、むしろ、思考なしに意識は進化することができないのだという。

 

 

ヌーソロジーでは「思形」と「感性」と呼ばれているが、思形が先手でなければならないとされている。

 

 

 

▼ヴェーダ聖典の奥義『ウパニシャッド』には、このように書かれている。
「そこには目も届かず、言葉も心もたどり着けない。
我々には識ることも理解することもできない。
どうしたらそれを教えられるか。」
 
 
▼老子もこう言っている。
「道が語りうるものであるとすれば、それは普遍の道ではない。
もしそれが語られるものなら、人はみな兄弟たちに語っていたであろう。」
 
 
▼禅でも体験のみを重視し、同じような主張をしている。
「言葉なし、説明なし、指示なし、知識なし。
ある事について語ったとたん、見当外れになる。」
 

 

 

 

■それらについて半田広宣氏は次のように指摘している。

 

ヌーソロジーのいう「変換人(トランスフォーマー)」とは何か 

 

「変換人型ゲシュタルト」って何?とよく聞かれる。これは一言で言うなら主客一致の意識状態に生み出されてくるゲシュタルトと言っていい。ゲシュタルトというのは認識形態のような意味だから、要は、見ているものと見られているものの分離がない意識状態における認識形態ということにでもなろう。

 

普通は、見ているものと見られているものの分離がない意識状態なのだから、そこに認識なんて起こるはずがなかろう、と考える。だから、生半可な主客一致の思想は、「見るものとは見られるもののことである」とかクリシュナムルティっぽいセリフを吐いて、「真我」などといった大層な表現で思考の停止を強要する。

 

はっきり断言しておきたい。日本人はこの東洋的ボケに騙されてはいけない。実は、そこから本当の思考、Penser du Japon―[日本の思考]が始まるのだ。

 

思考するものと思考されるものの一致において出現してくるもの。それは哲学の伝統では「イデア」と呼ばれる。だから、「変換人型ゲシュタルト」とはイデアの認識形態ということになる。本来の思考とはこのイデアを巡って活動している力の運動のことをいう。

 

東洋的ボケがまずいのは、思考されるものの空間と思考するものの空間の区別が全く見えていないところにあると言っていい。それを一足単に「色即是色、空即是色」なんて言ってしまうものだから、結局分かったような分からないような話になる。こういった曖昧な東洋とはオサラバしよう。仏教の弊害だ。東洋的ボケでは決して西洋的ツッコミは納得しないのだ。

 

その意味で、日本古来の精神は仏教の中にはないと言っていい。Penser du Japon―[日本の思考]は本来、結び(産霊)の思想の中にあるのだ。それは創造空間の思考であり、これはボケることとは何の関係も持たない。

 

わたしたちが物質と呼ぶ客体世界は産霊の結果として出現しているのであり、これらは、創造を思考するものたちの空間が思考されるものの空間の中に客体として出現しているものなのだ。

 

思考するものたちの空間は持続のもとに収縮し、思考されるものたちの空間は延長のもとに弛緩している。ヌーソロジーでいう等化と中和の関係だ。


この二つの空間の関係を認識にありありと浮上させていく方途がヌーソロジーが「変換人型ゲシュタルト」と呼んでいるもののことと思うといい。

 

物質の根底が素粒子という複素空間の構造体で成り立っているのも、複素空間が思考するものの空間になっているからだ。物質とはその意味で、思考するものが思考されるものの空間に自分自身を思考されるものとして表現したものである。

 

見るものと見られるものの間にあるこの仕組みを、もうすぐ多くの人が当たり前のことのように語る時代がやってくるのではないかと勝手に想像している。その時は東洋的ボケも西洋的ツッコミも役目を終え、東洋でも西洋でもない世界が出現してくることだろう。個人的には、その大地のことを日出づる国と呼びたいところだ。

 

OCOTのいう変換人(トランスフォーマー)とは、その意味で言えば、この日出づる国の住人たちのことを言う。それは「地上の事物の本質を私たちの内部に眼に見えない形で再び立ち上がらせることを使命として生きる者たちのこと(リルケ)」だ。世界を「変形(トランスフォルム)」するときがやってきている。その足音は多くの人たちの心の中に声なき声となって響いてきているのではないか――。

 

 

 

私は感性先手で奇跡的にΨ5~Ψ6に到達したが、その後、ヌーソロジーによって理論的な理解を得た。

 

ヌーソロジーは難解だが、私は体験を元に解説しているので、一般の人たちにも解りやすいはずだ。

 
また、関西ヌーソロジー研究会の川瀬統心氏の解説も解りやすい。
 
 
▼短編なので、ぜひ観ていただきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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