引き続き、前回の話の続きである。
神武天皇(イワレヒコ)が即位してから、タカクラジはなぜか越後国(新潟)に派遣されることになった。
タカクラジはニギハヤヒの次男で、本来は第2代天皇に即位するべき人物だったので、イワレヒコとしては大和から排除したかったのかもしれない。
高倉下(タカクラジ)の別名は、
天香山命(アメノカグヤマノミコト)という。
タカクラジ(天香山命)を主祭神とする神社に、新潟県の「彌彦神社」と「魚沼神社」、そして愛知県瀬戸市と名古屋市守山区の「尾張戸神社」がある。
タカクラジの長男が「尾張連」を名乗り、代々「尾張氏」として尾張国を領有してきたので、愛知県の神社にも祀られているのである。
尾張連は新潟県から愛知県に拠点を移したことになるが、長野県を縦断することになる。
必然的に、タケミナカタの信濃王朝を経由することになるが、その時に両者の接触はあったのだろうか。
なぜ、そのような疑問が生じるのか……。
それは、それ以前に不可解な謎があるからである。
西暦220年頃、タケミナカタがタケミカヅチに追われ、出雲(島根県)から諏訪(長野県)に亡命した。
だが、『日本書紀』にはタケミナカタが登場しないのである。
そこで検証と考察が必要となる。
ここから少し複雑な話になるので、要点を書き写したり、系図を書きながら理解を進めていただきたい。
まず、『古事記』や『日本書紀』では親子が同名で記されていることが多く、それを見極めて区別することも必要である。
また、他の古史古伝や神社伝承学も考慮に入れる必要があり、多角的な視点からの分析が求められる。
『先代旧事本紀』や新潟県糸魚川市の伝承によると、タケミナカタは大国主と高志沼河姫(コシノヌナカワヒメ)の間に生まれた子で、姫川を遡って諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったとされている。
高志とは越国(新潟県)のことだが、『古事記』によると、オオクニヌシが高志国に出かけてヌナカワ姫を娶ったという。
『出雲風土記』においても、タケミナカタは高志国のヘツクシイの子とされている。
ヌナカワ姫とヘツクシイでは名前が違うが、当時は複数の別名を持つのが普通だったので、「高志国」という共通点から同一人物だと仮定して問題ない。
それらの記録を踏まえると、タケミナカタはスサノオの血を引いておらず、新潟で生まれて諏訪に移住したことになるのだが……。
ここでもう一度、話を戻そう。
西暦220年頃、タケミナカタがタケミカヅチに追われ、出雲(島根県)から諏訪(長野県)に亡命した。
これはアーリオーン情報に基づくもので、『古事記』の記録とも一致しているが、上記の検証結果では全く違う話になった。
この矛盾した話の整合性を取るためには、想像を交えた推理が必要となる。
もちろん単なる想像ではなく、その後の謎を氷解させる根拠のある推理でなければならない。
私はアーリオーンの話を絶対視しているわけではないが、無視するわけにはいかないので、アーリオーンの話を基に考察している。
その推理の内容を書き出せば膨大な量になるので、結論だけ述べておくことにしよう。
オオクニヌシはスセリ姫との間にタケミナカタを生んだが、「大国主」は役職名なので、オオクニヌシ亡き後は、タケミナカタが大国主となったことになる。
話がややこしくなるので、ここからはタケミナカタを「オオクニヌシ2世」と表記する。
そして、西暦220年頃、日向との後継者争いで日向軍が出雲国に侵攻した。
タケミナカタ(オオクニヌシ2世)は出雲国から脱出し、越国まで逃げてヌナカワ姫と結婚したしたのではないだろうか。
越国(新潟県)といえば、忘れてはならない重要な話がある。
その約21年後の西暦241年頃、タカクラジが神武天皇に新潟に派遣されたことである。
そして、タカクラジは「尾張連」という子を生んだが、妻の名前は明らかにされていない。
タカクラジは、タケミナカタ(オオクニヌシ2世)とヌナカワ姫との間の娘を娶ったのではないだろうか。
タケミナカタは「諏訪大明神」の名で知られているが、「出雲族の族長」と呼んで差し支えない人物である。
尾張連もスサノオ→ニギハヤヒ→タカクラジの直系で、本来は第3代天皇としての資格を有する「出雲族の族長」であった。
当然ながら後者の方が別格の格上だが、両者ともに正統な「出雲族の族長」と呼べる人物である。
神社伝承学によると、尾張氏の移住ルートは、タケミナカタの出雲から諏訪までの逃亡ルートと重なっていることが判明しているという。
これは一体どういうことなのか……。
考えられることは1つ。
タケミナカタは新潟から諏訪に移住した。
その後、冒頭にも書いたとおり、尾張連が信濃王朝を経由する際に、タケミナカタの子孫と合流し、2系統の出雲族が併合したのである。
そのように考えると、その後の不可解な歴史の謎が氷解することになる。
つづく