古代日本に封印されたルシファー「天津甕星」 | 日本イルミナティ協会

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引き続き、前回の記事の続きである。
 
 
 
天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である。
 
別名、天香香背男(あめのかがせお)
 
 
 
『日本書紀』に唯一の悪神として登場する星神で、「金星」「蛇」で象徴されている。
 
 
まさに「日本のルシファー」だが、初めに言っておくと、私は天津甕星の子孫である。
 
 
天津甕星(天香香背男)は知名度の低い神だったが、『君の名は。』に登場したことで近年は少し知られるようになった。
 
 
 
『日本書紀』に記されている天津甕星に関する内容だが、Wikipediaの説明を借りよう。
 
 
『経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかった。
 
そこで倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。
 
第二の一書では天津神となっている。
 
経津主神と武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。
 
「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。
神威の大きな星を示すという。
 
平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。
 
星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。 
 
しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。
 
これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。
 
全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。
 
茨城県日立市の大甕神社は、建葉槌命を主祀神とする(一説には素戔嗚尊とも)。
 
同神社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。
 
大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。
 
葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。』
 
 
 
 
天津甕星は謎の多い神(人物)で、両親も出生地も年代も不明である。
 
 
しかし、最後まで朝廷に服従しなかったということから、「出雲族の最後の族長」と呼べる人物だったといえるだろう。
 
 
上画の本によると、天津甕星は「物部氏」の末裔だという。
 
 
物部氏とは、ニギハヤヒの長男「ウマシマジ」を祖とする氏族だとされているが、これにも大きな疑問がある。
 
 
ニギハヤヒが生まれる以前から、日向国に「物部」という地名があったからだ。
 
 
また、「物部氏」を初めて名乗ったのは、ウマシマジの4代目子孫である彦新川尊の弟「物部十市根尊」だが、彼は日向族の垂仁天皇から物部姓を賜っているのである。
 
 
それは兄の彦新川尊が垂仁帝宰相だったからだが、おそらく日向族の娘と婚姻関係を結んで物部姓を賜ったのである。
 
 
そこに日向側(朝廷)の何らかの意図が働いている限り、単純にウマシマジの子孫を「物部氏」とは呼べないのである。
 
 
また、私の研究では、天津甕星は物部氏ではなく、「尾張氏」だということが分かっている。
 
 
すなわち、天津甕星はタカクラジの子孫なのだが、タケミナカタの存在も大きく関わっているのだ。
 
 
 
まず、愛知県の尾張大国霊神社の宮司家である「久田氏」が、天津甕星を祖神としていることである。
 
 
私の姓のルーツを辿ると尾張が発祥であることが判明しているが、日本で初めて「久田」を名乗ったのが尾張大国霊神社の宮司家なのである。
 
 
故に、天津甕星は尾張氏ということになるのだが、「久田」という姓にもルーツがあるのだ。
 
 
初めて久田姓を名乗った尾張大国霊神社の初代宮司は、岐阜県久田見村の鴨神社から派遣された禰宜で、その地名に因んだ姓なのである。
 
 
 
さらに「久田」という文字を辿ると、諏訪大社の摂社に祀られている「御佐久田」という祭神に行き着くのだ。
 
 
御佐久田と書いて「ミシャグチ」と読むのだが、これは蛇神だとされている。
 
 
短絡的に考えると「ミシャグチ=天津甕星」だが、その推理はおそらく間違ってはいない。
 
 
長野県の民話によると、諏訪大明神(タケミナカタ)も蛇の姿で登場するが、タケミナカタと天津甕星には共通点が多く、同一視されることもあるほどである。
 
 
タケミナカタは「フツヌシ」と「タケミカヅチ」から逃れてきたが、天津甕星も「フツヌシ」と「タケミカヅチ」に東国に追いやられている。
 
 
また、タケミナカタは『古事記』には登場するが『日本書紀』には登場しない。
 
 
一方、天津甕星は『日本書紀』には登場するが、『古事記』には登場しない。
 
 
それ故に同一神(同一人物)だとする説もあるが、同一人物ではないことは確かである。
 
 
既に述べたとおり、天津甕星は尾張氏だが、タケミナカタと同一視される何かがあるのだ。
 
 
 
タケミナカタの妻は、諏訪大社の下社の主祭神・ヤサカトメである。
 
 
前回の記事では、タケミナカタ(オオクニヌシ2世)は新潟でヌナカワ姫を娶ったという仮説を発表したが、先に述べたとおり、ヌナカワ姫の子も「タケミナカタ」とされている。
 
 
つまり、父の名を襲名した「タケミナカタ2世」だと考えられるのだ。
 
 
そして、諏訪に移住してからヤサカトメを娶ったのであろう。
 
 
タケミナカタ(2世)とヤサカトメの間に生まれた子の数は、文献や各地神社の由緒によって違うそうだが、およそ25人の子がいたとされている。
 
 
その中で土地開発の功を立てた13人の子が「ミシャグチ」と同一視され、諏訪地域内にあったおよそ40のミシャグチ社の殆どが、タケミナカタ(2世)の御子神を祀る神社として記録されているのだ。
 
 
つまり、ミシャグチとは「タケミナカタ2世の子」ということになるのだが、ミシャグチと天津甕星が同一神であるならば、ヤサカトメは尾張氏でなければならない。
 
 
つまり、ヤサカトメは尾張連の娘だった可能性があるのだ。
 
 
しかし、年代からすると、タケミナカタ(2世)は死んでいるであろう年齢である。
 
 
従って、ヤサカトメの夫のタケミナカタは3世くらいの人物だったと考えられる。
 
 
また、尾張連の養子に入って、後継者になったことも考えられるだろう。
 
 
いずれにしても、2系統の出雲族が併合して「天津甕星」が誕生したと考えて間違いないであろう。
 
 
 
重要なことなので繰り返すが、「タケミナカタ」は出雲国におけるスサノオの後継者のオオクニヌシの後継者で、国譲りを余儀なくされるまでは出雲国の王であった。
 
タカクラジはニギハヤヒの正統継承者として本来は第2代天皇になっていた人物で、その後継者の尾張連が「尾張氏」の祖となった
 
その2系統の偉大な出雲族が併合し、後継者として選ばれたのが「天津甕星」なのだ。
 
 
 
従って、大和朝廷(日向政権)は何としても天津甕星を征討するべく、「唯一の悪神」のレッテルを貼って執拗に東国まで追撃を続けたのである。
 
 
そして、天津甕星は常陸国(茨城県)で討たれ、大甕神社の宿魂石に封印されたのである。
 
 
 
さて、スサノオはルシファーであり、艮の金神(鬼)と呼ばれているが、古代日本におけるスサノオは「出雲の偉大な王」として葬られている。
 
 
その後継者であるニギハヤヒも、歴史や功績は抹殺されているが、「大和の偉大な王」として三輪山に手厚く埋葬されている。
 
 
いずれも「艮の金神」とは呼べない人物像だが、その末裔にして出雲族の最後の族長だった天津甕星は、金星や蛇で象徴される「日本のルシファー」であり、東国で封印された「艮の金神」と呼べる唯一の人物なのだ。
 
 
その子孫である私は、当然ながら「天津甕星」を祖神として祀っているが、それが日本イルミナティ協会における「ルシファー崇拝」なのである。
 
 
 
つづく