なあ息子よ、お父さんは子供のころから面白いことしかしてこなかった。そう言うと、ちょっと語弊があるが、まあ、面白いことを中心にいろいろやってきた、と言い換えたほうが分かりやすいかな。
面白いと思ったことは、飽きるまでやった。飽きるまで、ってところが、この話の味噌なんだ。
どこまでやったら飽きるかは、人によって違う。お父さんの飽きるポイントと、お前の飽きるポイントは、たぶん違うだろう?
違うことは比べようがないが、お父さんはお父さんなりに、飽きるまでやったんだ。
面白いことを、遊びという。
これ、とても大事なことだぞ。
勉強にしろ、スポーツにしろ、たとえば、大人になって社会人になってからする仕事にしたって、面白ければ遊びなんだ。人間を意味する「ホモ・サピエンス」は「英知ある人」という意味らしいが、「遊ぶ人」を意味する「ホモ・ルーデンス」という呼び方もあるくらい、人として遊ぶことは大切なんだ。むしろ、ルーデンス無くしてサピエンス無し、と言えるくらい、遊びから物事をつきつめて考える様になるものだ。
ルーデンスを究めれば、おそらく、そのルーデンスが孤高へと続く道をひた走り、誰もまねできない境地にまで高まるのだろう。そうなったとき、その人は王になるのだ。
今は王政の世の中ではないので、王とは何か、君にはわかるまい。お父さんだって分からない。
今風に置き換えれば、そうだな・・・歴史的なプロ野球選手だったり、天才的レーサーだったり、最高賞をとる小説家だったり、ノーベル賞をとる科学者や人道主義者だったり、つまり、テレビに出て皆から褒められるような人、褒められることがニュースになる様な人、それらの人々は、王に近いんじゃないかな。
好きなことをし続けて、ほかの人と比べることなく突き進んで、誰をも近づけない孤高の存在になるのだ。
お父さんを見ろ。
お父さんは、誰かに褒められているか?
テレビのニュースに出ているか?
ちがうだろう。
お父さんは、お父さん以外の何物でもない。
話の冒頭を思い出してくれ。
お父さんは「面白いと思ったことは、飽きるまでやった」と言った。でも王じゃない。
今から思えば、飽きるのが早かったんだ。富士山で喩えるなら、五合目まで登って満足してたみたいなもんだ。五合目までなら車で行けばよかった、そこから先が佳境なのに、ってな。
遊びのうわっつらしか舐めなかったから、その核心にある快感を知らずに終わってしまったんだ。そういうのを「中途半端」というんだ。
中途半端が良いか悪いかは言わない。でも、後悔はするぞ。
息子よ、面白いと思ったら、とことんやれ。そして、簡単に飽きるな。一線を越えれば、つらくなる時だってある。でも、それを乗り越えたとき、味わったことのない快感に包まれ、見えざる高峰を制した様な最高の気分が味わえると思うぞ。
最高じゃないか。
せっかく生まれてきたんだ、とことん遊ばなきゃいかんよ。
お父さんはそれをせずに歳をとってしまった。
お前には、何でもいいから孤高の快感を味わってほしい、と思うんだ。
何でもいいから飽きるまで遊べ。でも簡単に飽きるな。真剣に遊べ。
妻の誕生日に、俺は仕事三昧で、おめでとうすら言うことを忘れていた。
朝から大切な仕事があったし、夜は夜で稼ぐために残業することを選んだのだ、必然的に、朝から晩まで仕事のことだけ考えて行動したんだ。
でもそれは言い訳で、妻や子供の為に仕事して、仕事の為に費やす時間が妻や子を悲しくさせるなら、極端な話、俺は仕事を辞めたほうがいいのかもわからない。
でも、それはきっと妻が望まない。
嗚呼、浮き世は難しい。
・・そんなことを思いながら、思い悩む時間の5分10分を無駄にする。
この5分10分の無駄で、3か月先、1年先、5年、10年先に大きな影響があるなら、今から何か対策せねばならないはずなのだ。
つまり、あれこれ考えるより先に、何か始めなきゃいけないってこと。
だから俺は残業するのだが、それが妻を悲しくさせるなら、俺は身の振り方を(以下エンドレス)
初めてサーフィンと出会った子供のころ、あたりまえの様に水遊びしていたショアブレイクの波すら、この世のものとは思えぬ大いなる恐怖に感じたものだった。
遠く、リーフあたりの大波に乗る兄たちを、恐ろしいカタストロフに立ち向かう勇者の様に感じたものだった。
自分もいつかは勇者になれるのだろうか。
今、巨大な波に立ち向かうことが日常となり、世界中のビッグウェーバーと肩を並べるプロになり、兄弟のなかでも一番のライダーとなった彼だが、あのころの兄たちの様な勇者になれたかどうか、彼自身、よく分からなかった。
どんなに高い目標を成し遂げても、その先にはさらに高い目標があり、その目標にはすでに誰かが登頂の旗をたなびかせているのだ。
いつまでたっても、自分を「カタストロフに恐れをなす弱虫」の様に感じていた彼だが、あの恐ろしい高みに立つ誰かだって、恐怖に打ち勝ったからこそあそこにいるのだ、ということを、経験のうえで学んだのは、彼なりの成長だった。
人の心の中は色んな要素があって、表現すべきもの、表現してはいけないもの、玉石混交だ。でも大抵は生身の人付き合いの中、人間関係の中で精査され、ゆっくりと外に向かって伝えられていくものだと思う。
しかし、人間関係の希薄なインターネットの中で、しかも誰が誰だか分からない匿名の状況の中で語られるものには、精査という概念が殆ど無い。
だから、自分の欲求に貪欲でストレートで、行き着くところを見失いがちなのだ。
俺は、自分を特定できる署名をしない限りネット上に精査を欠く表現をするまいと決めた。
見てきたのだ。
人それぞれに護らなければならない領域はある。それを踏み越え、いつ誰を傷付けてしまうかなんて、誰にも分からない。考え方は色々あるだろうが、人はちょっとした言葉に支配されるものなのだ。
汚い、暴力的な言葉を使えば、それは実生活に即、具現化されるだろう。匿名で書き込まれるネット上の犯行予告。そのうちの何%が実行されたのだろうか。そしてそれらは、犯罪であった事すら認識されず、時間に飲み込まれ消えてしまう。インターネットが普及してから何年が経つのか分からないけど、それら消えていった悲しい事件の数々を、俺はいっぱい目撃してきた。
名前も知らない子犬のプルーは、当時中学三年生の、前髪をぱっつんぱっつんに揃えた田舎の小娘だった。話題には参加しないのにいつまでも退室せず、ライブカム映像を公開して愛くるしい笑顔、どこまでも深い黒い瞳を、俺たちに送信し続けた。
会話を楽しむ、という感じではなかった。何故ニコニコするばかりの映像を送りつづけるのかなんて分からなかったし、そもそも理由が無ければ参加しちゃダメなんて規約も、俺らのチャットルームに限ってはなかったし、まあ厳密に言えばチャット運営サイドには幾つかの禁止事項があったかも知れないが(当時はそんなもの誰も読まなかった)今となっては思い出から推測するしかない。
彼女はほぼ毎日、朝が来るまでチャットに参加した。彼女には普通の中学生としての学業があった筈だが、徹夜のチャット参加を、誰もが当然の事の様に捕らえていた。烏合の衆の如く集まる参加者達の無遠慮なリクエストがあったのだろう、彼らは、プルーが接続していない日にはメッセージを送って参加を促していたのだ。
プルーなら来るよ、誘われれば来る。絶対来る。あいつはネットジャンキーだから来て当然。何処からともなく飛んでくる思い込みの激しい勘違いメッセージに、それでもプルーは従順だった。例えそれが見当違いな内容でも、メッセージは犬笛であり、忠実な子犬のプルーは何をなげうってでも駆けつけなければならなかった。
今時の中学生特有の長い脚、やせっぽちの、しかし捕らえようの無い無垢な美しさを秘めた発展途上のプルーの白い肢体が、柔らかな質感を伴ってブラウザの向こう側のライブ映像にクネクネと動いたのは、物見遊山の参加者達が彼女を煽ったからだ。恥ずかしがりながら命令されるままポーズをとり、脱ぎ、全てを見せる。そんなライブ映像が見れると聞きつければ、どんなに固い男だって即刻見にやって来る。
プルーの公開映像には常時500人が張り付き、今脱ぐか今脱ぐかと手ぐすねを引いて待っていたものだ。500人が一斉にプライベートメッセージを送信した。
名前も知らない子犬のプルーは、俺のプルーではない。誰のプルーでもない。だから、裸を見せたいなら納得するまで見せて良かった。でも、見せる事が原因で自分を傷付けてしまうなら、見せるべきではなかった。
プルーからボイスメッセが飛び込んできたのは、いよいよ夏も本番の8月上旬、たまたま俺も休みで、ネットの友達とバカな話をしていた昼下がりの事だった。 俺は友人達との会話を切断し、プルーと一対一で話した。
中学三年生のプルーはへべれけに酔っ払っていて、何を喋っているのかさっぱり理解出来なかったが、ただ「死にたい」と繰り返していたのだけは聞き取れた。
それ以来、プルーを見ることは無くなった。事情通の話によると彼女は死なず、16歳で結婚してすぐに妊娠し(いや、16歳で妊娠してすぐに結婚したのかも知れない)若いお母さんをやっていたらしいが、その後は分からない。
チャットで裸の映像を公開する様な女の子は、きっと純情過ぎるのだ。どうしていいのか分からないから脱いで、喜んでもらうんだ。喜んでくれるなら、わたしを愛してくれるかも知れない。そんな女の子を出会い系の手法で口八丁で騙して食って、コンビニのサンドイッチの包み紙を捨てるみたいに、ポイッとそこらへ捨てちゃったりしたらダメだよ、そりゃあ泣くだろうし死にたいとか言うだろう。
友人がmixiの招待状を送ってきたのが事の始まりだった。
招待されたのは良いが、何かを書こうなんて思わなかった。
書くことなど無い。
無いんだ。
朝6時に起床、7時に家を出て、通勤のコースは毎日同じ、8時半にはデスクに座って、昼になれば社員食堂で日替わり定食を食う。
午後3時に無機質な喫煙所で缶コーヒーを一本、大体夜9時まで残業して、10時半に家に着くと、途中のコンビニで買った弁当を食って、風呂上りにビールの350ミリ缶を一本飲んで寝る。
楽しみは年一度の社員旅行。
こんな日常サイクルの中で何を書けと言うのだ?
招待されてから一ヶ月、何も書かないで巡回だけしていると、不意に招待してくれた友人からメッセージが届いた。
「ログインしてるなら何か書けよ」
書かなきゃダメなのか?
書くことが無いから書かないのだが、招待された手前、何か書かないと友人に悪い様な気がした。
なので、mixiニュースの「日記を書く」を利用した。
言葉遊び感覚でニュースを斬る俺のスタイルは、たちまち注目を集める事となり、足あとのカウンターはグルグル回った。俺には直接関係の無い事実だが、だからこそ面白おかしく文章をひねり出すのはた易かった。
マイミクが増えた。
そうやって俺はニュースをネタに日記を書き、マイミクを増やしたが、それがだんだんと義務めいて、いつしか疲れている自分に気がついた。
俺は何のためにmixiをやっているのだろう。
俺とは何だ。 ひとごとに首を突っ込んで下らない文章をひねり出すしか能のない間抜けか。
人の事は良く分かるのに、自分の事は分からない。
無頓着だった。
その日から俺はmixiニュースをネタにするのはやめた。
やめたやめた!!
一ヶ月間沈黙した。
書くことを辞めようと決意した訳ではなかった。
ニュース以外でネタを晒そうと努力したが、何も思いつかなかったのだ。
それから一ヵ月、俺は日記を再開した。
○月○日
今まで俺は自分の事を書かなかった。
書きたくないから書かなかった訳じゃない。
それは理解して欲しい。
書けないのだ。
毎日同じ事を繰り返すばかりの判で押したような毎日、どこに目を見張る様な事件があるだろう。
それでしばらく考えてみた。
俺に起こる変化は数少ない。
全く無いと言ってもいい。
だけど、これだけは日記になりうると判断したので、今日からはそれを題材に日記をつける事にした。
マイミクの皆様、うんざりしてマイミクを切るような事はしないで欲しい。俺はまじめだ。
ひとつの事物を注意深く観察すると、そこから見えてくる世界がある様な気がするのだ。
今日から俺は、自分が今日一日に排泄した全てのウンコの事を日記に書こうと思う。
毎日同じウンコばかりしている訳じゃない。俺が同じ顔をしていても、ウンコの表情は日々微妙に違っている。
子供を産んだことは無いが(産めるはずもないのだが)ひょっとしたら子供を産む感覚と似ているのではなかろうか、とも思った。
まことに恐縮だが、俺のウンコの表情を共に見守って欲しい。ウンコの思い出を共有して欲しい。
俺はつまらない男で居たくない。
俺は役立たずのウンコ製造マシーンなんかじゃないんだ。
○月○日
最悪だ。
昨晩酒を飲みすぎたせいか、朝一番に下痢だった。便意で目が覚めた位だ。
ウンコ日記の初日に下痢の事を書くなんて、俺はつくづくついていない。
粘性が強く糸をひいていたのか、水面に漂うブツは小さな人魂の様な姿をしていた。
出社し、腹の調子が悪いまま昼飯を食って午後一時半、又もや強烈にもよおした。
やはり下痢だったが、朝に比べればまだ落ち着きを取り戻しているようだった。
何を食った残骸なのかは分からないが、粒状のものが多く含まれていた。
昨晩食ったものを忘れる事は多少あるが、ウンコを見ても思い出せないようでは自分の脳年齢を考えて何かトレーニングをしなければいけないかも知れない。
ニンテンドーDSを買おうかと思う。
○月○日
昨日とはうって変わって便秘だ。
人の体は不思議だ。
朝から20分30分、トイレに篭ったが、血管が切れるほどふんばって出てきたものはピンポン球大のものが一個きりだった。
昨晩の弁当は焼肉大盛り弁当だったのに、出てきたピンポン球は水に浮いていた。
という事は、昨晩の弁当が化けて出てきたものではないという事だ。
きっとそれ以前に食った野菜か何かだろう。
その日一日で出したブツは、それ一個だけだった。
○月○日
便秘は今日も続いた。昨日より悪い。
一日成果なし。
出さないでいると気持ちが悪いが、もよおさないのだから仕方ない。
○月○日
昼過ぎ、会社のトイレ。俺は驚愕した。
もの凄いブツが出てきた。
その先端は真っ直ぐ排水溝に向かってもぐり込んでいたので正確な事は分からないが、1メートル近い長さがあったのではなかろうか。
しかも太い。
俺はこんなものを体内に内蔵していたのかと思うと感慨一入であった。
ケツを拭いて、流そうと思ったが、あまりの見事さに見とれた。
美しい一本グソである。
10分は見ていたと思う。
それで、これを流さず次回このトイレを利用する誰かに俺の素晴らしいブツを見せ付けてやろうと決意した。
俺はケツを拭いた紙を、新たに取り出した紙を使ってそっと取り除き、隣のトイレに流した。
ぱっと見は「1メートルの巨大ウンコをしてケツも拭かずに出てきた奴がいる」と思わせるオブジェだ。
いや、もしくは「完璧な脱糞」を連想させるだろう。
馬の脱糞の様に、ゾウの脱糞の様に。
俺は想像した。
今日の午後、社内で噂が広まるだろう。
1メートルのウンコをして紙も使わないツワモノがこの中に居る、それは誰なんだ、という噂だ。
そしてそれは予想通りの展開となった。
隣の席の高橋が現場で目撃した惨状を俺に教えてくれた。
日記をつけ始めてすぐにマイミクが減り始めた。
数人のマイミクは嫌悪感をメッセージに託してよこした。
ある人は罵詈雑言の限りをつくし抗議した。
返信はしなかった。
メッセージを寄せたマイミクは大抵すぐマイミクで居る事を辞めた。
当初130人は居たマイミクが12人まで減ってしまった。
自ら削除する訳でもなく急激に1/10以下にマイミクを減らせる人物が居るだろうか。
それでも俺はウンコ日記を辞めなかった。
それから数ヵ月後、俺はまだウンコ日記を続けていた。
マイミクは一旦、一桁台にまで減ったのだが、不思議な事に再び増え始め、既に900人を越す勢いである。
ウンコ日記を称えるコミュニティすら出来ていた。
今や俺はウンコスターだった。書籍化の話まで出始めた。
当初、俺を招待した友人は「招待した俺は一定期間お前をマイミクから外せないんだから、そのクソ日記を辞めるか退会してくれないか」と懇願していたのに、今となっては手のひらを返した様に俺の日記にコメントを書きまくっている。
彼はすっかりエスカレートし、明日からはウンコの写真も掲載する事にしました、と告知した。
春休み前の、よく晴れた穏やかな日だった。校門から少し外れた道端で、痩せた中年男が隠し笛を吹いていた。就業のベルが鳴って10分後には、午前中だけの授業を終えた小学生たちが男を取り囲んだ。程よく人垣が出来上がったころを見計らい、男は口中に含んだ小さな笛で、口をあけず無表情に、子供たちのよく知る様な曲を意気揚々と演奏した。
聴衆はみな押し黙って、見事な演奏を聴いた。
ひとしきり演奏すると、男は何も言わぬ無表情のまま、最前列の男の子に未使用の笛を手渡した。男の子はそれを口の中に含み、こわごわ音を出してみた。
最初の一吹きで見事な音が出て、男の子は少し驚いたような表情をした。彼はすぐに口の中から笛を取り出し、男に返そうとしたが、男は「もう少しやってみろ」とばかり手をあおり、男の子はもう一度口に含んだ。
またもこわごわ音を出すと、綺麗に音階を演奏することが出来た。これに気を良くした男の子は、自信にあふれた笑顔で、皆が知るところのテレビのテーマソングを演奏した。男の子の少しあとに続いて、男も演奏に加わった。
その一部始終を見ていた子供たちはそれぞれ、かけ足で家に帰り、貯めていた小遣いを握りしめると、校門そばの道端に戻ってきた。
男の稼ぎは上々だった。
おおかた笛が売れてしまうと、男は荷物をまとめ、物陰に隠れていた、笛を吹いた例の男の子を連れて、その町を後にした。
笛を買った子供たちは全員、音さえ鳴らすことが出来ず、唾液にまみれた笛は大概打ち棄てられた。
真っ直ぐ被ったハンチングがわざとらしいな、いかにもベテランだと言わんばかりのくたびれた背広に、真新しいチェック柄のハンチングは不釣合いだった。刑事はひとしきり書き物を終えると「じゃあ、お手並み拝見といきますか」と、ドアノブの下の小穴に懐中電灯の光を当てた。
「こりゃあまたこれ見よがしに、こーんな穴なんか開けちゃって久しぶりに見たよ」
「・・・空き巣というものは普通、ドアに穴を開けてサムターンを回して侵入するんじゃないですか?」
刑事はまたもや目だけ動かしてギロリと睨むと
「あんたの言う普通ってのはどの普通だい?そんなのはマスコミが夕方のニュース用にでっち上げた御伽噺だぜ?」
と言うと、懐中電灯の明かりを消しながら「しょうがねえな」と、吐息まじりに一人ごちた。
「大抵の空き巣は穴なんか開けねぇよ。証拠が残ったら逃げるいとまもなく追われちまうだろ。だから証拠を残さないように侵入するんだ」
「でもどうやって・・・」
「見せてやる」そう言うと刑事は背広の左ポケットから小型のドライバーセットを取り出した。
ドライバーの芯の部分を持ち、柄を俺の目の前でブラブラと上下させながら
「お宅のドアノブは旧式だから余計分かりやすい。こんなドアノブなんて、カギを掛けても掛けてなくても同じ様なもんだ。ほら、ここの上と下に」と、ドアノブの金具部分の上下を指差して「ネジがはまってるだろ?」と説明した。
「こいつを外すと・・・」ドライバーでネジを外すと、いとも簡単にドアノブは外れた。
ドアにぽっかりと大きな穴が開いて、穴の中にはカギの構造物が剥き出しになった。
「わざわざドリルなんか使わなくても、ちゃーんと穴が開いているんだ。そして、見ろ。この溝だ。普段カギが通過している溝なんだが、」と言って、いくつか並んでいるシリンダーの溝を、右手の人差し指で一直線に揃えた。
「これでドアは開く。簡単だろ?」
刑事は、ドライバーをジャグリングよろしく片手で器用に回転させながらしたり顔だった。
★
「ところで、何を盗まれたって?」
ドライバーをポケットに仕舞いながら刑事は尋ねた。
「それが・・・現状維持しておかないといけないかな、と思って、まだ家の中に入っていません」
刑事は肩をすくめ両手の人差し指で俺を指差し、ハスな目線で「ユー、いいコ」とつぶやいた。
部屋に上がると、真っ先に自室の机の引き出しを開けた。
一段目の引き出し、通帳は入っている。印鑑も無事だった。
二段目の引出し、カギを回し、中を確かめた。現金から時計から、貴重品はそのままの状態で収納されていた。
三段目の書類にも変化はなかった。
箪笥の中、クローゼットの中、冷蔵庫、床下収納、キッチンの引き出し、トイレの小物入れの奥までくまなく見て回ったが、盗まれたものは何もなかった。
今朝会社に出た時と同じ様に、テーブルの上には飲みかけのコーヒーカップ、一本だけ吸殻の残った灰皿。椅子に掛けたバスローブ。
何も変わっていなかった。
「これじゃ窃盗事件にならねぇな、まあせいぜい器物損壊だ」
いつ出したのか、ポケットにしまった筈のドライバーを左手の人差し指と親指で挟んで、柄の部分を右の手のひらにパシパシと打ちつけながら刑事は言った。
「でも、あきらかにカギを壊されて」
「だから!」
刑事は声を荒げた。
「盗む気があるなら、とっくに盗まれてんだよココんちの場合は。さっき見たろ?いかに簡単にカギが開けられるか、あんた見たろ?」
「はあ」
「もし盗みだってんなら、何を盗まれたのかはっきりさせなきゃ意味ねーじゃねぇかよ。違うかい?」
「はあ」
「・・・ちっ。またかよ」
★
また、ってどう言うことだ?
「あんた最近、大切なものを無くしちゃいないかね?」
「いいえ?何故ですか?」
「ドアに穴を開けた人物は、意外と身近な人間だったかも分からんぜ?」
刑事は答えを断言するかの様に、俺と目線を合わせないで、うつむき加減に言い放った。
「俺達は、こんなふうに開けられたドアの穴の事を『未練の穴』って呼ぶのさ。気付かせたいから穴をあける。それだけの事だ。もしくは、盗むべきものは全て盗んだから、親切で穴を開けたのかも知れない。いつかあんたが思い出すのを期待して、ね」
「何言ってるんですか、あの穴はサムターン回しですよ?」
刑事はうつむいたまま「じゃ、ちょっと来い」と、俺を玄関に誘った。
「見ろ、穴はドアノブの下、肝心のサムターンはドアノブの上に付いてるじゃねぇか」
★
「ちょっとした事でもいいから、思い出したら連絡してくれ」
刑事は俺に名刺を渡すと、足早に深い闇へと消えていった。
暗闇の先を見つめ、以前にも彼と話した事があったかも知れない、と思った。
そして、ひょっとしたら名刺をもらった事も。