彼は映画を見た帰りに劇場付近の喫茶店に立ち寄った。そこで、今見た物語を咀嚼し、カタルシスを確固たるものにしようと企んだのだ。ところが、たまたま入った喫茶店の、向かいの席に座っていた女性を見とれてしまい、肝心の「映画のカタルシス」どころではなくなってしまった。なぜなら、その女性が単に美人だったのみならず、遠い昔、高校生の頃に付き合っていた、はじめて「男女の仲」となった女性にそっくりだったからである。
ずっと忘れていたさまざまな思いが(たとえば抑えきれないリビドーや、意味のわからない支配欲や、美しいものを穢してみたい衝動などの、混沌とした思い)その女性の存在により、一気に蘇ってしまった。彼は向かいに座る女性を、気取られない様、注意深く観察した。細身の体、肩までの髪、それほど大きくない胸、観察に集中するあまり、自分の席にコーヒーが運ばれてきたことすら分からなかった。
向かいの席の女性も怪しげな視線に気付いたらしく、視線の奥の彼を凝視した。黒目がちな美しい瞳は、無表情に凝視していた。
凝視は、彼に「予期せぬ未来」を思わせたが、残念ながらそれは5秒ほどで解除され、彼女は体ごと横を向いてしまった。彼女にとって怪しげな視線の主は、さほど大きな存在でもなかったらしい。
暗闇に転々と街路灯が続く帰り道を歩きながら、彼は、彼自身の人生という映画の中で、節目節目のクライマックスごと、明確なカタルシスを醸し出すだけのエンドロールを回していただろうか、と自問した。
なぜなら、先ほどの喫茶店で見かけた女性の様な美しい彼女が、過去、いたにもかかわらず、なぜ別れてしまったのか、その原因を思い出そうにも思い出せなかったからだ。
きっとその原因を忘れるくらいの大きな事件があったのだ、だから記憶からすっぽりと抜け落ちているのだ・・・などと考え、理屈で自分をごまかそうとしたが、そう簡単に自分はだませなかった。
映画を見てカタルシスに浸っている場合ではない、俺は自分自身に起きている事件の節目節目に、きちんとケリをつけなければいけないのではないか。そうでなければ、思い出の輪郭はぼやけ、やがて霧散してしまう。これは、自分の存在自体が霧散しているのと一緒ではないか。
だが彼は肝心なことに気付いていなかった。人生は映画ほど単純なものではない、ということ。
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深夜。残業の合間にyoutubeでレッドホットチリペッパーズを見ていた同僚に「レッチリ好きなんですか?」と聞いたら「自分もレッチリみたいになりたかった」と答えた。
「レッチリみたいな、って、どんなですか?」
「温泉みたいな人ってことかな」
温泉みたいな人。
「人は皆、何かに疲れると、休ませてくれるものをもとめるでしょう?自分にとってレッチリを聴いている時間が、休まる時間なんですよ。だから、レッチリは温泉みたいな人なんだ」
そんな風に誰かを見たことが無かった俺は、温泉みたいな人、という喩えが一瞬で気に入った。
「つまり、あなたも『誰かにとって温泉みたいな存在』になりたいと思ったことがあったんですね」
「今だって思ってますよ」
つきつめるところ、人は人からしか癒されないのかもしれない。
人それぞれが温泉なのかもしれない。
俺温泉。わたし温泉。あんた温泉。君温泉。諸君温泉。
それにしてもレッドホットチリペッパーズが温泉とは。イエローストーン公園の間欠泉みたいな激しい温泉かな、それとも、草津温泉の源泉みたいな強い温泉かな、とか、ちょっと考えた。
青い蛍光灯に照らされた深夜の外廊下。自分の部屋へ向かうまでの、ただまっすぐ歩く20秒間。
一日、20秒。86400秒分の20秒。
この貴重な20秒は、悩ましい時間からすぽっと抜けることができる、俺にとって最も貴重な時間なのだ。
今夜は、妻とともに歩むことを決めた日時が内側に刻印された、分厚いデザインの結婚指輪のことを考えた。
今、まさに左の薬指に収まっている、この結婚指輪だ。
なぜ指輪のことを?などは推測しないでほしい。
なぜなんて、つきつめるところ、本人にも分からない。わからないままふつふつと湧いてくるものだ。
湧きあがる思考は1秒ごとに展開し、結果として、指輪そのものの存在よりも、我らの記念碑を作ってくれた「たまちゃん」のことを思った。
大切な指輪を作ってくれてありがとう。
たまちゃんは妻の友人だ。だから俺はあまりよく知らない。知らないが、大切な妻の友人なのだから、やはり我らにとっては尊い存在なのだろう。
たまちゃん、俺たちには、思い出は何よりの財産だから、それをバックアップしてくれて、ありがとう。
鍵を開けて、玄関に入ったら、思い出は何よりの財産、というセンテンスから、幼馴染の石田を思った。
たまちゃんにありがとうなら、石田にもありがとう、だ。
靴を脱ぎながら田村や宮林や長谷川のことを、うがいをしながらマスターのことを、服を着替えながらあの人、この人のこと、そう言いながら、本当は全員の名前をここに記したいが、記しきれないので割愛するが、申し訳ないが、実にいろんな人に支えられているなあ、と感じた、それを感じさせるきっかけとなった今夜の20秒であった。
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今日は弟の誕生日だった。奴も42歳。みんな均等に歳をとる。
弟の誕生日だと気付いたのは、つい今しがた、日付も間もなく変わる時間帯だった。仕事仕事で完全に忘れていた。ただでさえ誕生日など、いい加減歳取ってくると忘れがちになる。
弟が生まれたころの俺は2歳8カ月だったから、当時のことなど、よくは覚えていない。覚えていないけれど、幼稚園に入る前、3歳だか4歳だかの俺は、おむつ姿の弟が(だから、単純に考えれば1歳になるかならないかくらいだろう)ミルクを飲んでいたのを見ているはずなんだ。覚えているんだ。
その時の弟の雰囲気が、小さい弟の姿が、どんなに歳をとっても、ふとした調子で脳裏をかすめる。弟はいつまでも、幼い弟のまま、俺の意識の奥底でミルクを飲んでいるのだ。
最初の印象は、決して消えてしまうことはないだろう。いろんな思い出が、俺と弟の間にはあるが、ミルクを飲んでいた赤ん坊だったころの姿が、すべての記憶のベースになってることは間違いない。
誕生日おめでとう。いくら歳を重ねても、君はいつまでもおまめちゃんだ。
死ぬ夢を、よく見る様になった。
今までだって、死ぬ夢は見てきたが、過去のそれらは完璧な死ではなく、死んで、復活する夢ばかりだった。つまり、肉体に大きな損傷を伴わない死であり、かつ、その死には目を見張る復活力が内臓されていたものだ。
どんなに死んでも生き返る夢。
けれど、今見る「死ぬ夢」に、復活は無い。バイクに乗っていて大型トラックに踏み潰されたり、鮫に頭から食い殺されたり、大口径のマシンガンでミンチにされたり、シュールなところでは、巨大なコンクリート製の高い壁が、左右から迫り来て俺を叩き潰す、とか。そのいずれもが肉体の滅びが決定的な「死」である。ぐちゃぐちゃになって肉体は原形を留めず、意識はぷつりと途切れ、どう頑張っても復活しようのない、完璧な命の消失。
悪夢は、息子が生まれたころから始まった。彼が成長するごと、過ごす時間が長くなるほど、彼をいとしいと思えば思うほど、悪夢は肥大し、さらに見る頻度を増している。
親になったことが、俺を臆病にしているのか。
具体的な死を考えるようになることが、親としての自覚なのだろうか、と、夢を受け入れざるを得ない現実に戸惑っている。
死。
若いころに恐れた死と、今になって想う死は、質を異にするものだ。
具体的なものが分からずにいたから、若いころは、やみくもに死を恐れていたのだ。今となっては、死がもたらす無念を、真っ先に想う。
責任を果たせない無念じゃないかな。
だから、ちょっと考えたんだ、責務を全うすれば、死ぬことは怖くないかもしれない。
とはいえ、全う、ということが、まだ良く分からない。
それが分かるまで、復活のない、完璧に死ぬ夢を見続けるだろうか。


