星、またたいているけど、あれを君と見たいんだ。
バルコニーに出て、空をみてごらん?東の空の低いところに、白、赤、青の点滅を繰り返す星があるんだ。
オリオン座の、右足だ。オリオンの右足だけが、twinkle twinkle、点滅するんだぜ。すげえ綺麗だ。
考えきれない遠いところで、漫然と運行している星からの光が、いろんなエフェクトを経て、ここまで届いているぜ。
考えきれない遠いところにあるものから、俺は慰められているんだ。
あれを君にも見せたいんだ。
星、またたいているけど、あれを君と見たいんだ。
バルコニーに出て、空をみてごらん?東の空の低いところに、白、赤、青の点滅を繰り返す星があるんだ。
オリオン座の、右足だ。オリオンの右足だけが、twinkle twinkle、点滅するんだぜ。すげえ綺麗だ。
考えきれない遠いところで、漫然と運行している星からの光が、いろんなエフェクトを経て、ここまで届いているぜ。
考えきれない遠いところにあるものから、俺は慰められているんだ。
あれを君にも見せたいんだ。
すごいよ、もう、無我夢中で駆け抜け感がすごい!日々フルスロットルのニューヨークステーキ
で三京をぶっとばし続けているみたいな感じだ。家庭を持って、それを護りつづけるのは、そんなザップな感覚だ。走り出したら止まらないザッパーだ。
ケニアにホテルを所有する編集者、パリを拠点とする作家、華やかな表舞台で自己の世界を創り発信する二人が、深夜のラジオで対談している。
それを聞きながら俺は、営業車を転がし、転がして、終わりの見えない闇へ続く一本道を、つき進むでもなく進んで行く。
湿度を帯びた、もやっとしたヴェールに包まれた三日月が、西の空の低いところに浮かんで、俺のあとをついてくる。
月には、物心ついたころから、あれやこれやを語りかけてはきたが、はたして今夜、俺には何かしらのことを、語ってくれるか・・・語ってくれるとして、それは俺の内なる声だ、月の意思とは違う・・・そんな類いのセンチメントを、ゴッホも宮沢賢治も、感じたかもわからない。
こんなにいろんなことが解明されている現代ですら、ジンクスの類は数多くある。
あなたはジンクス、好きか?
ジンクスに縛られてどうするのだろう、と、いつも思う。
だってさ、思わないか、ジンクスの矮小性を。
ジンクスったら、ある種の現象だよ?
なぜわざわざ「現象」に縛られなくちゃならないのだ?
たとえば、俺の先輩営業マンはすばらしく勤勉な人だ。でも、数字を残せないでいる。
売れないのはスーツの色が良くないせいだ、とか、朝、家を出るときに左手でドアノブを回さないからだ、とか、なんだとかかんだとか。そんなことにばかりこだわっているけど、そうじゃないだろう。
すべては因果応報、原因があって結果がある。これはゆるぎない。先輩に関しては、数字が残せない原因があるから、仕事の結果を出せないでいるだけのことだ。
そこに気付かず、ジンクスに頼るのは「逃げ」だと思う。
どうしてもジンクスの類にこだわりたければ、こう考えるのはどうだろうか。
「万物には神が宿り、わたしは神々の機嫌を損ねない」
ってね。
俺はジンクスは持たないが、信仰はあるよ。
誰が何と言おうと、神はある。そこかしこに。
だから、俺は俺の神を思う。俺を助けてくれる「俺の」神を思う。
その神が誰なのか、とか、どの宗教の、どの宗派の神なのか、男なのか女なのか、などは関係ない。
ただ「神がある」それだけのことだ。
一日を過ごせるのは、神があってのことだ、と、俺は思いながら行動している。
だから、毎朝、いの一番に神棚に初水をささげながら祈っているよ、助けてください、助けてください!ってね。
そして、一日が終われば、やっぱり神棚の前に行って
ありがとうございます、ありがとうございます!って感謝の言葉を述べつづけている。
その神は、古来の神かもわからないし、先祖かもわからない。
異国の神かもわからないし、宇宙の神かもわからない。
わからない、と言うか、決めていない。
決めていないから、誰だって何だって神になる。
現世で人として普通の生活を送っている、たとえば俺の父であったり母であったり、いや、祖父、祖母であったり、あるいは弟であったり妹であったり、友人だったり、職場の仲間だったり、いやいや、行き交う人々、不特定多数の人々でも、つまり、みんなだ、みんな俺にとっては神なんだ。
もっと言うと、人じゃなくたって神なんだ。
普段使っている自転車やパソコンや、靴や鞄や、言ったらきりがないから言わないけど、全部が全部、神なんだよ。それら「全部」が自分に味方してくれているというイマジネーション、それが俺の唯一の信仰だ。
だから、俺には万物が味方してくれるから、ジンクスなんて無用なのさ、わかったかベイビー!