こんなにいろんなことが解明されている現代ですら、ジンクスの類は数多くある。

あなたはジンクス、好きか?

ジンクスに縛られてどうするのだろう、と、いつも思う。

だってさ、思わないか、ジンクスの矮小性を。

ジンクスったら、ある種の現象だよ?

なぜわざわざ「現象」に縛られなくちゃならないのだ?

たとえば、俺の先輩営業マンはすばらしく勤勉な人だ。でも、数字を残せないでいる。

売れないのはスーツの色が良くないせいだ、とか、朝、家を出るときに左手でドアノブを回さないからだ、とか、なんだとかかんだとか。そんなことにばかりこだわっているけど、そうじゃないだろう。

すべては因果応報、原因があって結果がある。これはゆるぎない。先輩に関しては、数字が残せない原因があるから、仕事の結果を出せないでいるだけのことだ。

そこに気付かず、ジンクスに頼るのは「逃げ」だと思う。

どうしてもジンクスの類にこだわりたければ、こう考えるのはどうだろうか。


「万物には神が宿り、わたしは神々の機嫌を損ねない」


ってね。

俺はジンクスは持たないが、信仰はあるよ。

誰が何と言おうと、神はある。そこかしこに。

だから、俺は俺の神を思う。俺を助けてくれる「俺の」神を思う。

その神が誰なのか、とか、どの宗教の、どの宗派の神なのか、男なのか女なのか、などは関係ない。

ただ「神がある」それだけのことだ。

一日を過ごせるのは、神があってのことだ、と、俺は思いながら行動している。

だから、毎朝、いの一番に神棚に初水をささげながら祈っているよ、助けてください、助けてください!ってね。

そして、一日が終われば、やっぱり神棚の前に行って

ありがとうございます、ありがとうございます!って感謝の言葉を述べつづけている。

その神は、古来の神かもわからないし、先祖かもわからない。

異国の神かもわからないし、宇宙の神かもわからない。

わからない、と言うか、決めていない。

決めていないから、誰だって何だって神になる。

現世で人として普通の生活を送っている、たとえば俺の父であったり母であったり、いや、祖父、祖母であったり、あるいは弟であったり妹であったり、友人だったり、職場の仲間だったり、いやいや、行き交う人々、不特定多数の人々でも、つまり、みんなだ、みんな俺にとっては神なんだ。

もっと言うと、人じゃなくたって神なんだ。

普段使っている自転車やパソコンや、靴や鞄や、言ったらきりがないから言わないけど、全部が全部、神なんだよ。それら「全部」が自分に味方してくれているというイマジネーション、それが俺の唯一の信仰だ。

だから、俺には万物が味方してくれるから、ジンクスなんて無用なのさ、わかったかベイビー!



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