永守重信のことは、いままで何度も書いてきた。
ボーイが、経営者でもっとも信頼できかつ尊敬できるのは、
永守だけである。
私は「一番以外はビリだ」と
思って生きてきました。
二番でもいいなんて言う考え方は駄目です。
それから、異端者を評価しない会社も問題です。
ちょっと変わった人間が世の中にないものを生み出している。
(語録:「二番でいいわけがない。一番以外はビリと同じ」)
永守重信のことは、いままで何度も書いてきた。
ボーイが、経営者でもっとも信頼できかつ尊敬できるのは、
永守だけである。
私は「一番以外はビリだ」と
思って生きてきました。
二番でもいいなんて言う考え方は駄目です。
それから、異端者を評価しない会社も問題です。
ちょっと変わった人間が世の中にないものを生み出している。
(語録:「二番でいいわけがない。一番以外はビリと同じ」)
タイトルは、5・1の日曜日の朗読個所からの引用です。
基督が復活後に弟子たちの前に現れたときの言葉であります。
(ヨハネ伝20ー29)
以下、大正改訳聖書(1917年)よりの引用です。
20:21イエスまた言ひたまふ
『平安なんぢらに在れ、父の我を遣し給へるごとく、
我も亦なんぢらを遣す』
20:22斯く言ひて、息を吹きかけ言ひたまふ『聖靈をうけよ。
20:23なんじら誰の罪を赦すとも其の罪ゆるされ、誰の罪を留むるとも其の罪と
どめらるべし』
20:24イエス來り給ひしとき、十二弟子の一人デドモと稱ふるトマスともに居ら
ざりしかば、
20:25他の弟子これに言ふ『われら主を見たり』
トマスいふ『我はその手に釘の痕を見、わが指を釘の痕にさし入れ、わが手を
その脅に差入るるにあらずば信ぜじ』
20:26八日ののち弟子たちまた家にをり、トマスも偕に居りて戸を閉ぢおきし
に、イエス來り、彼らの中に立ちて言ひたまふ
『平安なんぢらに在れ』
20:27またトマスに言ひ給ふ
『なんぢの指をここに伸べて、わが手を見よ、
汝の手をのべて、我が脅にさしいれよ、
信ぜぬ者とならで信ずる者となれ』
20:28トマス答へて言ふ
『わが主よ、わが神よ』
20:29イエス言ひ給ふ
『なんぢ我を見しによりて信じたり、見ずして信ずる者は幸福なり』
以下は、都知事に再選された石原の産経への寄稿文の一部である。
まったく同感である。ほかに報道されているように、電力消費に関し
自販機の存在とパチンコ業界への批判が陳述されている。
享受してきた平和と安寧なるものが危機に晒されている今、
被った被害の復元に努めるだけではなしに、私たちはもっと
根源的なものへの反省と修復を志すべき時に至ったのではなかろうか。
それは国家存立のために絶対必要な国防という要因に関する安易な
他力本願や、そのすり替えに享受してきた薄っぺらな繁栄、
そしてそれを促進してやまない我欲、物欲、金銭欲、性欲の氾濫と、
それにおもねり続けてきた政治の安易なポピュリズムを淘汰
する決心をしなければ、この国の真の復興、復活などありはしまい。
石原慎太郎 「国家再生のために」(5・2付 WEB産経より)
すこし長い文章だが、重要なパラグラフであるため引用しておきたい。
コメントは差し控える。
原発誘致が悪魔との契約だと腹をくくっていた人が、地元にいるわけがありません。
けれど人びとは、ふるさとを奪われ、家や田畑を奪われ、仕事を奪われました。人生を奪われました。子どもたちの未来まで奪われるのではないかと怯えています。
原発は棄民棄土を担保にしなければなりたたない、ろくでもないしろものです。担保を差し出させられるのは、原発を推進したい国家や企業ではありません。
悪魔と契約するファウスト伝説と違って原発という悪魔と契約する国家や企業が汚いのは、リスクを支払わされるのが契約した者ではなく、そうではない人びとだということです。
それが最初からわかったうえでの、悪魔との契約だということです。しかもそれを、原発を誘致した地域こそが悪魔と契約したかのように、はした金を地域に落として偽装していることです。
原発を推進することで真の利益をあげているのは、地域の人びとではありません。国家と原発の関係には、二重底の下に隠された暗黒の事実がわだかまっています。
(4.23付 http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/より)
いちにちづつズレて来ており、読者には申訳ないのですが
きのうは Jesus Christ の受難日、すなわち十字架に
架けられ殺された日でした。
ここでは、あまり宗教的な内容には踏み込まない事を
前提と云うか、お約束ゴトにしておりますので、
基督の十字架上の死のイミなどには言及致しません。
日本語訳は、讃美歌への意訳と逐語訳のふたつを
挙げておきます。(前にも載せましたが)
音楽スタート(←クリック)
O Haupt voll Blut und Wunden,
Voll Schmerz und voller Hohn,
O Haupt, zum Spott gebunden
Mit einer Dornenkron’
,
O Haupt, sonst schön gezieret
Mit höchster Ehr’ und Zier,
Jetzt aber hoch schimpfieret:
Gegrüßet sei’st du mir!
Du edles Angesichte,
Davor sonst schrickt und scheut
Das große Weltgewichte,
Wie bist du so bespeit!
Wie bist du so erbleichet!
Wer hat dein Augenlicht,
Dem sonst kein Licht nicht gleichet,
So schändlich zugericht’t?
血潮したたる 主の御頭(みかしら)
とげに刺されし 主の御頭
悩みと恥に やつれし主を
我はかしこみ 君と仰ぐ
主の苦しみは 我がためなり
我は死ぬべき 罪人なり
かかる我が身に 代わりましし
主の御心は いとかしこし
懐かしき主よ、計り知れぬ
十字架の愛に いかに応(こた)えん
この身と霊(たま)を とこしえまで
我が主のものと なさせ給え
主よ、主のもとに 帰る日まで
十字架の蔭(かげ)に 立たせ給え
御顔を仰ぎ 御手によらば
いまわの息も 安けくあらん
(讃美歌136番 )
おお主のみ頭よ、血に染み傷つき、
痛みと嘲笑に満たされた、
おお主のみ頭よ、茨の冠で
飾られ、嘲られ給うた。
おお主のみ頭よ、至高の栄誉と
飾りで装われるべきなのに
今は、こんなはずかしめを受けておられる。
私の祝福をお受け下さい!
あなたの尊いみ顔よ、
どんなに大きな世界権力も
その前に恐れおののくべきなのに、
何のゆえに、こんなにも唾を吐きかけられ、
何のゆえに、こんなにも青ざめておられるのか。
どんな光もくらべることのできない
あなたのみ顔の輝きを
こんなにも傷つけたのは誰か?
(川端純四郎訳)
「洗足」ガクエンという学校法人が、川向うのK市にあります。
女の子専門の学校で小学校から中高、さらに音楽大学もあります。
川に沿って走るJR・N線とT急との乗換駅から徒歩で行ける距離で
JRの車窓からよく見えます。敷地はかなり広く、環境も抜群なのでは
ないでしょうか。(行ったことはありません)
ところで、何故にガクエンは「洗足」という名を冠したのでしょうか?
昨日は聖木曜日で、ヨハネ伝13章1~15節が朗読されました。
この日は、その内容(以下の本文を参照)から「洗足の木曜日」とも
称されています。
場面は、最後の晩餐 ー イエスが明日自分が磔刑にあうことを
自覚して、弟子たちに下記を施すところ;
(イエスは)それから、たらいに水をくんで弟子たちの
足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、
再び席に着いて言われた。
「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。
そのように言うのは正しい。
わたしはそうである。
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、
あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、
模範を示したのである。
(ヨハネ13・1~15より抜粋)
「足を洗う」とは、たがいに愛し合え、という意味なのですね。
互いに足を洗い合えるような謙虚にして慈愛に満ちた気
持ちを持ちなさいと教え諭されたのです。
謙虚とはえらぶらず人の意見を聞く心、慈愛とは他人をやさしくいたわる心、
この二つの心をはぐくむこと、すなわち「謙愛」の心を育むこと
(上記学園の建学精神:HPより)
別に宣伝するつもりはありませんが。。
何度も書くが、栓をヒネれば湯が出る、タッチパネルを押せば
糞の後、ケツも洗える。シャワーは朝からら浴びたい放題。
朝シャンなんていって、起きてすぐお出かけ前に頭洗いするんだとよ
。
便利すぎるんだよっ![]()
今回の地震は、原発に依存しきっていたわれわれげ現代人に対する
しっぺ返しなのだ。まだ、そうとらえるべきだ。
ボーイがチビの頃、内風呂があるのは、お大尽の家と決っていた。
四五歳の頃、建増しして風呂場を作ったが、毎回ーおよそ一日置きー
というわけにはいかなかった。
最初のころは、にちようびだけだったんじゃなかっただろうか![]()
昔は風呂を焚くというのは、ほんとうに重労働だったんだ![]()
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まず、薪を用意しなきゃなんねぇー。
父親の風呂の準備の最初は、この薪を割るところから始まる。
その前に薪に火をつける紙も用意しておく。
あとは石炭をくべるんだが、これも家庭用の釜だから
こまかく砕いておかなきゃいけねんだ。
でっかい塊だと釜にはいんねぇーんダよ![]()
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もっとも、おいらはチビだったんで、みんな両親がやったんだが。
とくに寒い時期なんか、さめちゃいけねぇーとばかりに、
家族が次々とはいらなきゃならんのでせわしないこと![]()
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途中であっためんのも、おいどうだっ?なんて中の様子を聴きながら
石炭をくべてやるんで容易でない。
お湯だって、すすぎは、頭は四回、身体は三回ってだいたい
決ってた。じゃなきゃ、湯がなくなっちまう。
うちの子供たちは、そんなことは知りゃしねーから
好きな時間に入りたい放題で、湯もバカバカ使うんで
腹立ってしょうがねぇーんだ。
たかがシャワーなのに、三十分もはいってやがるんで
怒り心頭に発するのだっ![]()
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水道代、ガス代、電気代もなあーんにも気にしちゃあ
いねんだ。
ボーイはというと、シャワーなんかなるべく低い温度で
身体洗ったらすぐ出てくるんだ。冬で長くて十二三分、夏は
水シャワーが殆んどだからガス代ゼロ円だよ。
原発事故は、こうした豊か過ぎる生活に慣れきっている
われわれに根本的な転換を求めているのだ![]()
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エネルギーは無限ではないことを!
何でも節約しろってんだ!!