母と子の分離と剥奪 | ***Walk on the light side

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銀河に煌く星たちのように

先週末のザビエの月と土星のセミナーでは、本当にすごくたくさんの気づきがあったのですが、その内のひとつに「拒絶(rejection)」と「剥奪(deprivation)」の違いについて、気づいておく必要があるというのが、心に響きました。

 

月が万物の母であり、すべてのものを生み出し、呑み込んでいくというサイクルを繰り返すとき、土星はそれがきちんと物質化されることを助ける働きがあります。

 

種から命が育まれようとするときに、土星は正しいタイミングで種をまき、水をやり、余計なものを排除して、肥料をやり、きちんと実ることを助けるわけですね。そのタイミングが早すぎても、遅すぎても、うまくいきません。

 

土星は天秤座でイグザルテーション(高揚)となりますが、それは均整のとれた、最高のタイミングでおこなうこと、最高のバランスでやることをうながすためですね。

 

母親はどこかのタイミングで子どもを拒絶する必要が機能として備わっているし、子どもはどこかのタイミングで母親を拒絶する必要があると、いいます。

 

それは例えるなら出産のタイミングであり、然るべきタイミングで母親は子どもを分離させ、子どもも分離しようとするからこそ、ちょうどよく生まれるということになります。

 

そのタイミングを逃すことは自立の機会を失うことであり、双方にとって大きなダメージになりかねません。

 

逆にまだ充分じゃないタイミングでそれが起きるのは剥奪です。まだ親を必要としている年齢で母親がいなくなってしまう。まだ自立できる年齢に達していないのに子どもが奪われてしまう。そんなケースですね。

 

拒絶がうまくいかなかった場合は、分離できないままでいることになるので、どこかで拒絶をやり直す必要があります。剥奪が起きた場合は、その苦しみを癒やす必要があるでしょう。

 

 

この話を聴きながら、いろいろなことが思い出されました。

 

ひとつは息子が小学五年生の二学期のある週末、唐突に「もう抱っことかしないから」と宣言してきたことがありました。蟹座の息子はとにかく、いつもひっついているのが大好きで、同じ水の蠍座の私とは、本当によくペタペタとくっついていました。
 

それが11歳になった頃でしょうか、本当にある日、そのように宣言すると、それから実際にペタペタと触れることがなくなったのです。

 

内心さみしいなと思いつつ、私のほうはいまでもたまに彼の顎を撫でたりするのですが、それを機にわが家のエディプス・トライアングル(夫-私-息子)に変化が生じたきっかけともなりました。

 

また剥奪のケースとして、私の祖母が小学生の頃に母親を亡くしたこと、そしてまた結婚後に最初に妊娠した女児を出産直前の臨月で亡くしたことが思い出されました。

 

両方とも私の生まれるずっと前の話で、あとから聴いたことですが、いろいろ合点がいったものです。

 

というのも祖母は私に対して、ちょっと病的なぐらい過保護で、庭で遊ぶことでさえ「危ない、危ない」といって、いつも怖がっていたのでした。友達と庭で縄跳びしたり、お花を摘んだりすることの何が危ないんだろう?と、私は祖母がいつも玄関で「戻ってこい」と言い続けることがとても嫌でした。

 

今になれば、私の姿に亡くした女児や、さらにその奥に亡くした母の姿を重ねていたのだろうなとわかるので、もっとやさしくしてあげればよかったなと思います。誰かがそれを受け止めてあげるか、理解してあげるかできたらよかったんですけどね。

 

剥奪された母と娘の記憶。

 

祖母は晩年認知症が進んで、いろいろなことが不明瞭になっていったのですが、忘れたいほどの心の傷があったのだということを今なら理解することができます。

 

ちゃんと別れて、ひとりで立って、そしてまたお互いを認め合う。親にも子にも必要なそのプロセスのことを、自分の経験を思い返しながら、噛みしめています。