『2年生存率0%を生き抜いて』

 

28歳で腎臓の希少がんに罹患。

22年前の発病当時、

一番の希望は生の体験談でしたキラキラ

 

発病からの生還記録を綴っています。

少しでも生きる力となりますように。

 

抗がん剤治療の副作用で髪が抜け落ち、

まだ生えてきていないとき。

 

当時、写真を撮る心の余裕もなく、
退院後、友人の結婚式でのこの写真が
治療時に一番近いです。


前回はこちら

 

 

 

 

 

自慢の子であり続けようとした

 

 

 

2000年4月、

手術から半年後、

退院して4か月後に参加した

ある患者会の講演会をきっかけに、

 

自分のと向き合っていくことになります。

 

がんを作った原因が

 

 

“心”

 

にあるとするなら?

 

 

これはあくまでぼくのストーリーであって、

正解ではありません。

 

 

しかし、そう捉えることによって、

自分がとても楽になり、

がんになる前より

「今の人生のほうがいい」

と思えるようになれたので、

意味があったのだと思います。

 

 

 

1971年5月、ぼくは愛知県西尾市に、
一家の長男として生まれました。


家族は、両親、祖父母、

曾祖母。その後、2人の妹ができました。



物心付くと、
どこにでもある家庭内の軋轢の中で、
ときおり張り詰める緊張感
人一倍敏感に察知し、
心を痛めていました。


祖母は子どもの前で

近所の人たちに

母の悪口を言い、

 

母も祖母や祖父に対し、

冷たい視線を送る。

 

父は何もしてくれない。

 

 

子どもながらに

いつも胸を締め付けられていました。



いつしか、
家族みんなの顔色を伺い、



「今日は、みんな機嫌がいいかな?

    みんな楽しそうにしてるかな?」



と毎日、毎日思い、心配し、



「他人が何を考えているか」



ということばかりを気にするようになっていました。


こんなことも考え、おびえていました。

 


「愛情を注いでくれる人も、友だちも、関係のない人もすべて演技をしていて、いつか誰かが、寝ている間にぼくをどこかへ連れ去って行ってしまうのではないか・・・」



初めて出会う家庭という社会を見て、
人間同士は仲良くなれないものだと

子どもながらに悟ってしまいました。




泣きながら連れていかれた保育園。

昼寝の時間がありましたが、
眠りに落ちた記憶がありません。


いちばん嫌いな時間。

 



自分以外の人間を信用していないぼくが、
たくさんの人の中で無防備に目をつむり、
寝息をたててスヤスヤ眠ることなど

できるはずがありません。


小学校に上がります。

 

 

前に座った男子生徒と

隣の女子生徒にからかわれ、
鉛筆で腕を刺されました。



いまだに残る3本の鉛筆の芯が、

当時の映像をいつでも呼び起こします。


何も言いませんでした。

何も言えませんでした。

 


あのとき、

「やめてくれよ!」

と言っていたら、

その後の人生は

大きく変わっていたかも知れません。



とにかく、

自分を抑えていました。



事を荒立てるなら、

自分が犠牲になっている方がよかったのです。


勉強もできて、

近所や親戚からも

 

“良くできたいい子”

 

だと言われていました。



テストでいい点を取ると
家族の笑顔が見られるので、
それはそれはがんばりました。



親の期待に応え続け、

“自慢の子”であり続ける・・・

 

 

そのことに必死でした。

 

その頃を思って作った歌『大丈夫だよ』

 

 

 

つづく

 



続きはこちら!





現在のはとても元気です!

 

 

 

生還記録・最初はこちら

 

 

 

 

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