『2年生存率0%を生き抜いて』

 

28歳で腎臓の希少がんに罹患。

22年前の発病当時、

一番の希望は生の体験談でしたキラキラ

 

発病からの生還記録を綴っています。

少しでも生きる力となりますように。

 

抗がん剤治療の副作用で髪が抜け落ち、

まだ生えてきていないとき。

 

当時、写真を撮る心の余裕もなく、
退院後、友人の結婚式でのこの写真が
治療時に一番近いです。


前回はこちら

 

 

 

 

 

 

“ねばならない教”に入信して

 

  

 

 

2000年1月10日、
退院から約2週間後、
抗がん剤治療の副作用が残る中、


病院以外でできることを探す目的で、
福島県のある歯科医を訪ね、

食事療法の指導を受けます。
 

 


家に帰るなり、
家族に肉や魚は一切食べないと宣言。
母には自分用に玄米を炊てもらいました。



「絶対に治すぞ」


と気合い十分で始めた玄米菜食の食事療法。


外食するときは、
ダシも動物性食品を使っていないところを選ぶほどの徹底ぶり。


 

 

しかし、

父との関係がどんどん悪くなっていきました。



とんかつや唐揚げをむしゃむしゃ食べ、
ビールをあおる父に、こんなことも言ってしまいた。

「痛風なのに、何でそんなもの食べるの?
そんなもの食べたら、俺みたいになるよ」

 

 

 


父の茶碗に、
食べ残したごはん粒を見つけると、

「食べるのに困っている人が世界中にいるんだから、ちゃんときれいに食べてよ」

と、

自分の正義をふりかざし、 

また怒りをぶつけてしまいます。


楽しいはずの食事が、
ギクシャクして

つまらないものになっていきました。


ぼくの心に

「ねばならない」

という観念が強烈に植え付けられました。

 



焼肉屋に入っていくカップルを見ると、

「あいつら病気になるぞ」

と毒づき、

自分の価値観に合わない人を

軽蔑していました。


「自分が正しくて、相手が間違っている」


考えの違う相手に戦いを挑み、
自分の価値観を押し付けていく。

病気をする前と

まったく変わっていませんでした。

 




玄米菜食を始めて数か月が経ったある日、
夕食の時間になったとき、
腸の当たりがキリキリ痛んできました。


“ねばならない教”

に入信していたぼくは、
それでもいつものように玄米を食べました。


どんなときも

玄米を食べ“ねばならなかった”のです。



食べている間にも
お腹の痛みは増してきていました。


やばい、やばい、

めちゃくちゃ痛い。



寝る頃になっても痛みは引かず、
体を横たえるとさらに痛むため、
うずくまって痛みに耐えました。


耐えられなくなったら
救急車を呼べるように、
母に横で寝てもらいました。


なかなか痛みは治まらず、
最後の望みをかけて、

ぼくは仏壇の前で手を合わせました。


「ご先祖様、助けてください」


何とかその当たりから痛みが引いてきて、
このときは事なきを得ました。


おそらく腸閉塞の一歩手前だったのでしょう。

その後、

5度の腸閉塞見舞われることになります。


開腹手術による腸の癒着が原因ですが、
この“ねばならない”という観念が大きく作用していたように思います。
 


家族を巻き込んだ玄米菜食の食事療法は、
結局、半年ほどしか続きませんでした。

しかし、「がんを治す」という

気持ちが衰えることはなく、
すがる対象は別のものに移っただけでした。


決して一つのことに定まることはなく、
あるものに惹かれては冷めてを繰り返し、
次から次へと移っていきました。

それは健康食品であったり、

健康器具であったり・・・。


何を実践したかはこちらに書きました。

 

 


今も何かしら実践していますが、
依存していることはなく、
サポートしてもらっているという感覚です。

現在、玄米菜食は実行していませんが、
妻が野菜中心で作ってくれています。

外食では好きなものを食べます。

 

つづく

 

現在の写真です

image

 

 

 

 

        続きはこちら

 

 

 

 

 

生還記録・最初はこちら

 

やしの木杉浦貴之・現在の活動やしの木

 

 

 

 

やしの木杉浦貴之創刊『Messenger』やしの木

 

 

 

ぜひポチっとよろしくお願いします。

 

にほんブログ村 病気ブログ 腎臓がんへ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 病気ブログ がん 闘病記(完治)へ
にほんブログ村

 


がん・腫瘍ランキング