はじめに
みなさん、こんにちは。本野鳥子です。今回は、前回に引き続き、京極夏彦さんの百鬼夜行シリーズについてになりました。第一巻の「姑獲鳥の夏」はこちらから。鳥の剥製が所狭しと並ぶ城で起こる惨劇の真相を、追いかけましょう。未読の方はご注意ください。
「陰摩羅鬼の瑕」京極夏彦(講談社文庫)
風邪を引いて一時的に視力を失った榎木津のせいで、鳥の剥製が並ぶ妙な館で行われる結婚式に招かれることになってしまった関口巽。実は、その館の持ち主である由良昂允は、過去四度迎えた花嫁がことごとく殺されていた。まるでなぞるようにして、同じ惨劇が繰り返される謎。今回こそは、防ぐことができるのか。
今までの中で、一番構図が分かりやすかったこともあって、ぐんぐんとページをめくった。前回は京極堂が万能でないことを痛いほど突きつけられたが、今度は榎木津の能力にも限界があることを痛感する。京極堂が動けないとなれば、榎木津がある程度まで何とかしてくれる、という私の根拠のない安心感が、突き崩された気分だ。あれだけの変人を頼りにしてしまう、というのもおかしいかもしれないが、彼が場の雰囲気を進展させてくれることは確実である。
そしてまた、事件の真相があまりにも物悲しく、毎回このような謎を解き明かさなければならない京極堂の気持ちに、少しだけ触れられた気がした。純粋ゆえにもたらされる悪は、不純からもたらされるそれよりも、その透明さゆえに悲しい。
ところで、相変わらず博識な京極堂だが、本筋とはあまり関係のないところで、ひとつ興味深かったことがある。それは、村という共同体に受け入れられるためには、一度死んで生まれ直す、という過程、儀式が必要だということだ。これは、最近私がひたすら読んでいるローズマリ・サトクリフの作品にも、ケルトの習慣として顔を出す。特に、「太陽の戦士」などでは、この習慣は物語の軸となっているのだ。かたや極東の島国、かたや大西洋のブリテン島と、かけ離れたこの二つの世界に、同じような習慣があるのは、大変興味深い。全く知らなかったのだが、実は世界の各地にこのような習慣は点在しているのだろうか。だとすれば、人間が古来より持っていた習わしとなり、それが移動による拡散で広がったのかもしれない。いずれにしろ、もっとこのことについては調べてみたくなった。
この巻ではないが、「絡新婦の理」でも共通する点があった。もともと人間の集団の中核には、女王がいた、ということだ。サトクリフの「闇の女王にささげる歌」などでも、それは顕著に表れている。あまり意識しておらず、見つけたはいいがすぐに忘れてしまっていた。再びここで思い出して、人間の根源のようなものが感じられる気がした。
このように、京極堂の台詞からは得るものが非常に多い。今までも歴史や文化、民俗学、神話などに興味はあったが、それが一層強まるシリーズである。
おわりに
ということで、「陰摩羅鬼の瑕」についてでした。おそらく次回、「邪魅の雫」を読んで、一旦は京極夏彦さんから離れることになると思います。それでは、次回もどうぞお楽しみに。最後までご覧くださりありがとうございました!