はじめに
みなさん、こんにちは。本野鳥子です。今回は、前回に引き続き岡田英弘さんの、「歴史とはなにか」についてお話ししていきたいと思います。私たちが、漠然と抱いている、歴史という観念とは何か、今一度見つめ直してみましょう。
「歴史とはなにか」岡田英弘(文春新書)
なにが歴史かということは、なにを歴史として認識するかということなのだ。
本書は、通じてこの言葉を根底に書かれている。現代に生きる私たちは、歴史を、「現代に生きる私たち」という視点からしか見ることができない。それは、古代の数々の著作を著した歴史家たちもまた同様である。常に、歴史を探るには、そのことをよく分かっておかねばならないのだ。
例えば、司馬遷は彼の著書であり、以降の中国の歴史観を決定づける『史記』を、中国の王朝の正統性、つまり天命が宿っているということを象徴するために著した。だから、それからの中国の歴史観は、徹底的にそれに依っている。それを重要視するあまり、二つの並立する王朝に天命が下っていた、なんて不可思議なことも起こってしまった。そうしなければ、以後の王朝に天命が続かないのである。
また、日本の「日本書紀」も、中国に対抗するために、独自の天命が下って天皇が君臨している、ということにした。このような当時の政治の正統性を主張するために作られたものを、筆者は政治的な神話といい、それに対して純粋な神話、民間の中から生まれた神話は原始的な神話、としている。
このように、数々の事実を理路整然と並べ、説得力に満ちあふれた論理を展開していく手腕には舌を巻いた。嫌でも納得してしまう。
というのは、私が神話が好きだからだ。その成立過程には、人一倍興味を持っているし、また物語としても神話が大好きである。そんな私に、筆者はこんな言葉を投げかける。
神話というのは、いまある事象の起源の説明として、考え出されたものだ。決して古い時代の記憶じゃない。そういうことで、神話が古代の史実の反映だと考えるのは、ごく控えめに言ってもひじょうに危険だ。はっきり言ってしまえば、やめたほうがいい、ということになる。
じゃあ、ホメロスの詩であるイーリアスを手がかりに、遺跡を発掘したシュリーマンはどうなるんだ(「古代への情熱」参照)とか、言いたくなってしまうが、ここに至るまでにとうとうと並べられたいくつもの事例を見るに、悔しいが同意せざるをえない。神話というのは、いくらでも当時の政治権力によって利用されるものなのだ。
結局、私が塩野七生さん(「海の都の物語」 「わが友マキアヴェッリ」など)のような歴史ものを求めるのも、私が求めたい歴史がそこにあるからだ。現代に生きるのは大変だ、でも、古代であれば、もっと楽に生きられたのではないか……そんな幻想を、見いだしているからに違いない。そう考えると、やはり架空歴史小説というのは強い、と改めて思う。
また、現代史の見方も教えてくれた。刻一刻と近づく、国民国家・民主主義という政治体制の限界が、今見えてきている。新型コロナウイルスへの対応を見るに、事実だと思う。それは、歴史を知り、現代から離脱しなければ分からないことだった。私一人の範疇には収まらない、今まで紡がれてきた歴史を知ることで、未来を包む靄を少しでも払えたら良いと思う。
このように、歴史観というものについて、説得力に富んだ説明を提供してくれる本だった。一歩引いた視点から、歴史を見ることができるようになりたい。
最後に、十二国記の話を少し。この本を読んで分かったのは、十二国記というのは、中国の実体のない歴史観を、確固たる事実として異世界に移植している、ということなのだと思う。
どういうことかと言うと、中国の歴史観において、王朝とは、その先に王朝から天帝から下される天命を受け継ぎ、確かな正統性を持って国を支配しているのだ。十二国記を読んだ方なら、この時点でお分かりのことだろうが、十二国の世界においては、それがシステムとして確立している。それをやってしまう小野さんへの尊敬が、また一段と深まった。
おわりに
というわけで、「歴史とはなにか」についてでした。三国志読みたいです。しかし、なぜか迷走して次回はちょっと哲学的な話に目を向けてみたいと思います。ホーキングです。それでは次回もまたお楽しみに。最後までご覧くださり、ありがとうございました!