はじめに
みなさんこんにちは。本野鳥子です。今回は、「古代への情熱 ーシュリーマン自伝ー」をご紹介します。
「古代への情熱 ーシュリーマン自伝ー」シュリーマン・関楠生訳(新潮文庫)
この本は、ギリシアの詩人、ホメーロスがかつて語った叙事詩「イーリアス」「オデュッセイア」を信じ、長年の努力によってそれらが実際にあったことを示した、シュリーマンの自伝である。
私は最近、「イーリアス」を岩波少年文庫で読んだが、おとぎ話という印象を禁じ得なかった。ギリシア神話の神々、ゼウスやアテナ、アポロンなどがひっきりなしに顔を出して、どうしてもフィクションという印象がつきまとう。日本でたとえるならば、「桃太郎」を信じて、本気で鬼ヶ島を探しに行くようなものだろうか。「古事記」のほうが近いのかもしれない。何にせよ、突拍子もない発想だと思う。
しかし、一見突拍子もないものと思われようと、シュリーマンには確信があった。それは、幼いころに培われた信じる心であったのだろう。
「大人になる」ということは、信じる心を失うことであると、私たちは考えがちだ。無邪気に、何も疑うことなく、あっさりと全てを信頼するのは、子どもだけに許される特権だと、私たちは無意識にすり込まれているような気がする。
だが、シュリーマンは違った。そして、それを突き通し、ついには画期的な発見を歴史界にもたらしたのだから、並大抵のことではない。
たしかに私の心は金に執着してきただろう。しかしそれは、私の生涯をかけた大目的を成就するための手段と考えていたからにすぎない
ともあるとおり、彼は、その発見のためだけに、数々の言語を習得し、資金を稼ぎ、そして発掘へ乗り出した。どこまでもそのためだけに、懸命に積み重ねてきた年月は、彼の粘り強さをそのまま表しているといえよう。
歴史を追いかける魅力を、彼の人生は示しているように思える。長年信じ続けてきたものが、実際に誰の目にも見える形で証される喜びは、何にも代えがたい達成感だろう、と読者の私も感じるくらいだ。
さて、私事になるが、私がこの本を読もうと思ったのは、家にあったから、という理由だけではない。尊敬する上橋菜穂子さんが、ご自身のエッセイ、「物語ること、生きること」の巻末で、読んだ本のリストの中に上げていたからだ。もし、上橋さんがお好きな方がいらしたら、ぜひ一度読んでいただきたいのだが、上橋さんを構成してきたものがつぶさに見れる。どうして彼女が文化人類学の道に進もうと思ったかが、なんとなく分かってくるような気すらするのだ。この「古代への情熱」も、その上橋さんのリストの一部になっているわけだ。
改めてそのリストを見返してみると、この本以外にも、たくさんの魅力あふれる題名が並んでいて、まだまだ読んでいない本もあった。いずれそのリストの本を全て読みたいという欲も湧いてくる。
歴史のおもしろさを、私はまだまだ知らない。シュリーマンや数々の先達のあとを追い、これからもまた、歴史という大海に、船を運びたいと思う。
おわりに
というわけで、シュリーマンの話から上橋菜穂子さんの話になってしまいましたが、お楽しみいただけたでしょうか。次回は、その上橋さんのリストに載っている本の中から何か読もうかな、と思っています。気まぐれで変わるかもしれませんが……。それではまたお会いしましょう! 最後までお読みいただき、ありがとうございました。