一人の人間の中には、女性性と男性性のどちらもが同時に存在している。

しているけれど、本来の女性性、本来の男性性からは、あまりに離れてしまっていることが、多い気がする。

女性性という元々のエネルギーは同じでも、人によって現れ方が違う。

現れ方が違うだけで、元を正せば同じエネルギー。


そして私は、女性だからといって、本来の女性性の全部を一人で体現する必要はないと思う。
(それが自分らしいと思う人は、そうしたらいいと思うけど、私の場合は、それをすると自分らしくならないので、しないでおこうと思ている)

よく言われる、男性が外、女性が内。
それはただの見せかけで、全然本質ではないと、私は感じている。

もっと自由でいい。

自分が自分で居続るために、男性性と女性性があるんだと、思うから。

もっと自由になろう。

女性だから~~とか
男性だから~~とか

そんな訳のわからん枠組みに縛られていては、本質的な自分らしさから外れてしまう。


もっともっと、自由になろう!!

本来は、自分の気持ちを本当に大事にしていて、心から自分らしく居る時、

そばにいる周りの人たちにもそれが伝わり、そこにいる全員が気持ちいい感じになるのだろう。


ただ、大事にしたいけれど大事にできない・・という状態の人で、

自分らしさに戻る準備がまだ出来ていない場合は、それを大事にしている人を見た時


心がざわっとして、素直に受け取れないこともあるのかもしれない。


時に自分らしくいると、周りからは受け入れられないこともあるけれど、それはそれ。

それは相手側のこと。


自分らしくいることに、自分自身で責任をとっていけばいい。

世間的な常識や周りの価値観とずれる場合もあるので、その分、強さや覚悟もいるけれどね。


何はともあれ、自分らしく居ることの方が、やっぱり大事だ。

私は、生まれてすぐからずっと、動物全般(虫・犬・猫・その他すべて)が大嫌いで苦手でした。

小さいころから20代前半までは、ただ苦手なだけかと思ってましたので、さほど気に留めていませんでした。


でも山が好きで、山登りしたい外で楽しいワークもしたいのに、動物嫌いだと、出来ないよぉ・・。


どうしたものかと、色々なセラピーを受けたり自分で自己内観したりして、分かったことは、


「人が今まで動物に対してしてきた事が、あまりにむご過ぎて、そのことに強い罪悪感を感じている」


ということ。


人類代表で、ごめんなさいと本気で思っていました。


だから、動物嫌い!という感情を感じることで、動物たちから距離を取っていたんです。


本当は、誰よりも大好きだから、嫌いだった。。。



そのことに気付いて、やっと少し動物たちへの苦手意識がマシになりました(まだ今だにダメな動物もいるけれど)



そして、昨日。大きな気付きを頂きました。



動物だけではなく、私は、昔から人間も嫌いなんです・・・(苦笑)


人間なんて、何で生きているんやろ・・・ってずっと思ってました。


昨日、その事に深いところまで向き合ってみた所、なんと!!

動物と同じ理由で嫌いだったことに気付きました。


人間たちにも、ずっとずっと、ごめんなさいって謝っていて、いっぱい請け負い過ぎていて、そこからくる強すぎる罪悪感から、まるで身動きが取れなくなっていました。


本当は人間も大好きだからこそ、嫌いにして、罪の意識をかぶっていた・・・。


昨日は、そこに気付けて、本当に気持ちがラクになりました。


全存在と共鳴したいという思いが、前々から感じていましたが、本当に嫌いやったら、そんな事なんて、考えもしませんしね・・・。



あ~~~この気付き・・・・すごく大きい。


私は、もう請け負い過ぎるのをやめにしようと思います。

そしてこれからは、本当は人間が大好きなんだって、もっともっと強く感じていきたいな。。。。。



ありがとう!!



音は、快にも不快にもなるな・・・と思う。


たとえ音楽は好きでも、あまり興味のないジャンルが大音量で流れていたら、私の場合は、雑音・・というより騒音になってしまう。



先日、ある野外イベントに友達たち4人で参加した。


行ってみたら、爆音で音が鳴っていた。デジタル音で、私のあまり興味のない分野の音楽。


ベース音が、体全身にビンビン響いてきて、不快極まりない。



最初の1時間程度はなんとか我慢できた。


ご飯食べ終わって、ちょこっとブースを観て、ビール飲んで椅子に寝っころがって。



でも、一緒に来た3名の友達が、私の居る椅子に荷物を置いて、いつの間にかどこかにいなくなっている時間が数十分続き、


帰ってくるのを待っている間に、だんだんと、あまりの音のうるささに我慢が出来なくなっていった。


それでも私は、限界まで我慢した。



もうこれ以上はダメ!となったとき、ようやく3人の姿を見つけて


友達たちの荷物を持って、彼らのもとに走って行った。


「自分の荷物は、自分たちで見ててくれる?

私はもう限界やねん!音のないところにいるから、帰るとき声かけて!!」


と言って、その場から離れた。


離れたといっても、見える位置にいないといけない・・と思い、イベント会場から少し離れた、まだ音の聞こえる場所に数分間、座っていた。


がしかし・・・まだ音は聞こえるので、不快感は全くとれない!!


「そうや!!もっと離れていって、付近を適当に散歩でもしとけばいいんや!!」


やっとその時、そう思い、音が全く聞こえなくなる場所まで、歩いて避難した。




あとで考えて思ったところ・・・


別に、限界まで我慢する必要はなかった。


でも、あのとき私は「あの場所にいなきゃいけない!」と強く思い込んでいて、とことん我慢したのだ。。。。。



我慢した理由は


1.騒音・・もとい、大音量の音楽

音が大きいと、絶対に聞こえてくる。聞け!という強制が、その場に居ろ!というエネルギーと似ている。


2.お金を支払って入場するしくみ

お金を払った人しか入れない空間になっていて、見えない囲いがある。

再入場はできるものの、せっかく、そこそこの金額のお金を払ったし、その場にいないと、もったいない・・という思い。


3.友達たちの荷物

別に頼まれた訳じゃなかったけれど、友達たちがその場から誰も居なくなったので、私が荷物を見とかなくては・・という妙な責任感。

もし、その荷物を持って、私がその場を勝手に離れたら、その人たちも困るだろう・・という思い。


4.タクシーでの移動

車がなかったので、最寄駅からタクシーを使って相乗りで来た。

私が、先に帰ってしまったら、友人たちは、タクシー代が高くなってしまうし、帰る時は一緒でないといけない。


5.罪悪感

私の状態の悪さのせいで、早く帰るのは、まだ、そのイベントを楽しみたい友人がいるなら、申し訳ない。



トータル的な感想は・・・


基本的に私は、一人行動が好きなので、とっとと一人で帰れるなら、その方がラクだったのかもしれない。

一種の「不快な囲われた空間」に居るのが苦痛なんだろうと、思う。


そしてもう、そういう空間に居続けることが、出来なくなって来ている・・という事実。

自分にとって居心地のいいところにしか、自分は居たくない。そういう自分の心に嘘がつけない(つく必要もない)



そして思うのは、「圧倒する強制的なエネルギーには屈するしかない」

という反応を、無意識にしてしまう・・ということ。


屈しかけて、限界まで我慢して時間はかかったものの、自分の気持ちにようやく従える行動をとることができた・・・という点は、良かったと思う。



騒音のせいで、私の中の何かが、強制的に壊れた。

潜在的には、壊れることを望んでいた自分もいたのだろうし、上記のことの気付きにもなったので、


結果的には、たくさんの気付きを頂けたことに感謝!



ふぅ~~~

それにしても、音さえなければ、めっちゃ良い場所やってんけどな・・・苦笑)


それにしても、果たして何人の人が、あの空間を快として感じていたのだろうか疑問だ。

(もちろん、好みは人それぞれやから、何人かは、いるとは思うが・・・・)




昨日、自分のシンボルマークを作ってもらったので、携帯の待ち受けにして、携帯を触るたびに観ている。。。


観るたびに、圧倒的なエネルギーを感じて、ドキドキドキドキ・・


作ってもらってから、まだ間がないけれど、常に観ているので、自分に少し、重さがついた感じがする。

「ど~~~ん。どし~~~~~~~ん。」みたいな。

私は全存在の共鳴・・「統合」をしに、この世に来た。

なので、そのために自分の内にある鋭さを、もっと外に出して放射していこうと思う。
.隠していても、どうやら漏れていて、分かる人には分かるようやしもう隠す必要もない


シンボルマークのおかげで、より深い深い自分の核に触れることができた



ありがとう~~~~~~~~~~~~!!