音は、快にも不快にもなるな・・・と思う。


たとえ音楽は好きでも、あまり興味のないジャンルが大音量で流れていたら、私の場合は、雑音・・というより騒音になってしまう。



先日、ある野外イベントに友達たち4人で参加した。


行ってみたら、爆音で音が鳴っていた。デジタル音で、私のあまり興味のない分野の音楽。


ベース音が、体全身にビンビン響いてきて、不快極まりない。



最初の1時間程度はなんとか我慢できた。


ご飯食べ終わって、ちょこっとブースを観て、ビール飲んで椅子に寝っころがって。



でも、一緒に来た3名の友達が、私の居る椅子に荷物を置いて、いつの間にかどこかにいなくなっている時間が数十分続き、


帰ってくるのを待っている間に、だんだんと、あまりの音のうるささに我慢が出来なくなっていった。


それでも私は、限界まで我慢した。



もうこれ以上はダメ!となったとき、ようやく3人の姿を見つけて


友達たちの荷物を持って、彼らのもとに走って行った。


「自分の荷物は、自分たちで見ててくれる?

私はもう限界やねん!音のないところにいるから、帰るとき声かけて!!」


と言って、その場から離れた。


離れたといっても、見える位置にいないといけない・・と思い、イベント会場から少し離れた、まだ音の聞こえる場所に数分間、座っていた。


がしかし・・・まだ音は聞こえるので、不快感は全くとれない!!


「そうや!!もっと離れていって、付近を適当に散歩でもしとけばいいんや!!」


やっとその時、そう思い、音が全く聞こえなくなる場所まで、歩いて避難した。




あとで考えて思ったところ・・・


別に、限界まで我慢する必要はなかった。


でも、あのとき私は「あの場所にいなきゃいけない!」と強く思い込んでいて、とことん我慢したのだ。。。。。



我慢した理由は


1.騒音・・もとい、大音量の音楽

音が大きいと、絶対に聞こえてくる。聞け!という強制が、その場に居ろ!というエネルギーと似ている。


2.お金を支払って入場するしくみ

お金を払った人しか入れない空間になっていて、見えない囲いがある。

再入場はできるものの、せっかく、そこそこの金額のお金を払ったし、その場にいないと、もったいない・・という思い。


3.友達たちの荷物

別に頼まれた訳じゃなかったけれど、友達たちがその場から誰も居なくなったので、私が荷物を見とかなくては・・という妙な責任感。

もし、その荷物を持って、私がその場を勝手に離れたら、その人たちも困るだろう・・という思い。


4.タクシーでの移動

車がなかったので、最寄駅からタクシーを使って相乗りで来た。

私が、先に帰ってしまったら、友人たちは、タクシー代が高くなってしまうし、帰る時は一緒でないといけない。


5.罪悪感

私の状態の悪さのせいで、早く帰るのは、まだ、そのイベントを楽しみたい友人がいるなら、申し訳ない。



トータル的な感想は・・・


基本的に私は、一人行動が好きなので、とっとと一人で帰れるなら、その方がラクだったのかもしれない。

一種の「不快な囲われた空間」に居るのが苦痛なんだろうと、思う。


そしてもう、そういう空間に居続けることが、出来なくなって来ている・・という事実。

自分にとって居心地のいいところにしか、自分は居たくない。そういう自分の心に嘘がつけない(つく必要もない)



そして思うのは、「圧倒する強制的なエネルギーには屈するしかない」

という反応を、無意識にしてしまう・・ということ。


屈しかけて、限界まで我慢して時間はかかったものの、自分の気持ちにようやく従える行動をとることができた・・・という点は、良かったと思う。



騒音のせいで、私の中の何かが、強制的に壊れた。

潜在的には、壊れることを望んでいた自分もいたのだろうし、上記のことの気付きにもなったので、


結果的には、たくさんの気付きを頂けたことに感謝!



ふぅ~~~

それにしても、音さえなければ、めっちゃ良い場所やってんけどな・・・苦笑)


それにしても、果たして何人の人が、あの空間を快として感じていたのだろうか疑問だ。

(もちろん、好みは人それぞれやから、何人かは、いるとは思うが・・・・)