若菜だけがお辞儀して去ったあと、
僕はエレベータで階下へと降りた。
木之本はついてきて、
「どうでしょう?検討してもらえますか?」
僕は少し黙ったあとで、
「少し…、考えてみます」
言い方が、淡々としていたせいだろうか、
木之本は、
「難しいですか?ああ見えて、
かなりコミュニケーション能力に長けてます、
お客さんとのやりとりも慣れてますから」
「ああ見えてって」
僕は軽く笑って、
「ああは見えないですよ、
良くも、悪くも、」
「すいません、そういう意味じゃなくて」
木之本は
ツーブロックから垂らした長髪を揺らして、
僕に頭を下げた。
「それじゃあ、ああっていうのは、
どういうこと意味してるんですか?」
僕はのどかの白い顔を思い浮かべていた。
「それは…、少し、なんていうか、その」
適当な言葉のられつ、
それと反する律儀そうな態度、
こういうのに虫唾が走る。
僕はもう何も答えず、エレベーターを降りると、
さっさと次の現場へと足を運ぶため
ビルを出た。
若菜のどかだけではなく、
何人かの候補者に会う必要があった。

都庁前から大江戸線に乗りこむ。
次は東銀座の現場へ行くことになっていた。

せまい車内、席は埋まっている。
僕は座席前のつり革に
つかまり立ったまま、
ただコンクリート面が続く
窓の外を見ていた。
窓には僕の痩せた身体が映っている。
首から上は、
窓の上になって見えない。
真空管の中を通り抜けているような、
空気が押し流されていく音がしている。
穴ぐらを猛スピードで地下鉄が走っている。

ふと、また、
スマホを落とした時のこと、
思い出していた。
「あ…」
僕は思わず、小さな声をあげていた。
あの時ぶつかった女性についてだ。
あれば、
若菜のどかだったんじゃないだろうか、
背格好から顔つきまで、
全てが似ている気がしてきた。
でも、まさかそんな偶然なんて
あるものじゃない。
僕は首を小さく傾げながら、
それでも細部を思い浮かべるべく、
軽く目を閉じてみた。

 

プロジェクト688日目。

 

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彼女が近づいてくる。
僕はその真っ白な顔を見つめていた。
もう一度軽く首を下げると、
のどかはとびきりの笑顔になった。
人の顔つきというものが、
真顔と笑顔で、
これほど異なる印象を与えるものだったのか、
そういうこと、考えてしまうほど、
その笑顔は僕に強い印象を与えていた。

パーテーションで囲われただけの、
簡単な打ち合わせスペースで対面した。
向かいに、木之本とのどかが座っている。
彼女は、
白のスクエアカットのワンピースに、
ベージュのセーターをはおっていた。
後になって、
彼女から聞いて分かることなのだが、
少しうつむきがちになって、
さっきまでの快活そうな雰囲気が
なくなっていたことに、
僕は気づかなかった。

「若菜です、ここで1年くらいでしょうか、
スーパーバイザーとして従事してます」
そう紹介したのは木之本だった。
それから、
木之本がのどかを促すようにして、
彼女は淡々と
自分の経歴を話し始めた。
「大学を出てからは、
最初販売の仕事していました。
技術的なことやりたくて、
IT関連の企業への就職を希望していたときに、
御社とご縁がありまして、」
はりのある声色だった。
平明で、落ち着いた口調だったが、
その奥に
どことなくあどけなさがあって、
それに僕は
妙な気分をそそられるようだった。
好感をもったといってもいい。
肌が白く、
整った顔立ちの美人には違いなかった。
愛嬌のある感じが、
人好きされそうな印象がある。
しかし、だからといって、
名古屋に1人行けるかは、
別な話な気がした。
僕は慎重に、
どういう業務内容かを説明しながら、
彼女の反応を窺っていた。

倒置的な、記憶の感覚があるとしたら、
まさにこの時だった。
僕はふと、数ヶ月前の
ある出来事を思い出していた。
そう、出会いがしらにスマホを落として、
若い女性とぶつかったあの出来事を。

 

プロジェクト687日目。

 

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都庁前で降りて、公園をつっきって、
5分ほど歩くと、
10階建てのビルに到着する。
そこが、僕が名目上管理している
審査運営の事務局だった。
自治体や官公庁には様々な取り巻きがある。
その第一が天下り先になるような団体だ。
さらにその下で民間企業が、
事務業務を執り行うのが、
1つのビジネスモデルとして成り立つ。
それが一般的にいう事務局だった。
僕の受け持つ
現在の課の前任者の時代に、
このビルの2フロアを借り切って
事業を始めたものだった。

場所は知っていて、
うちの課員が管理業務を行っている。
僕は書面上、
毎月請求上は確認していたが、
こうして来たのは初めてだった。

仕事には向き不向きもあって、
僕は会社でのポジション上、
究極のスターターであって、
とにかく仕事の芽を広げたり獲得するまでが
ミッションであり、性質的にも、
獲るまでに情熱を感じるものの、
運用が開始されると、
あまり興味をもてなかった。
そのせいか、
安定的に運営されている案件については、
取り仕切りは、
子会社の運用チームに任せきりで、
めったなことがないと、出向くこともなかった。

ビルに入ると、4階の事務局に出向く。
50人ほどが、電話をしたり、
パソコンに向って、
入力などの作業を行っていた。
それぞれの顔ぶれなんかを見渡してみたが、
知っている人間は1人として見つからなかった。

「お疲れ様です、柏木さん」
背後から声をかけられた。
この事務局の半数の人員を入れている、
派遣会社の木之本だった。
中背の、四角張った顔した、
まだ若い営業マンだ。
ツーブロックにした髪型が、
流行っぽいが、長く垂らした髪が、
妙に清潔感をそぐ風貌にしていた。
「ここも大分安定してますから、彼女抜いても、
全然大丈夫だと思いますよ」
「そうでしたね、」
僕は答えながら、また、
画面に向う
オペレーターたちを見渡してみる。
心の中で、若菜のどか、
という名をよみがえらせ、
履歴書の写真でみた、
彼女の顔を思い出していた。
どの顔
―みな集中して業務をしている横顔だが―、
を見ても、
一致するものは見出せなかった。

普通、こうしたオペレーション業務をする人たちは、
受動的な姿勢で、
業務を間違いなく実行することを、
第一の条件としている。
そのため、おとなしめな性格な人が多く、
例のサブスク会社に出向いて、
積極的にコミュニケーションをする人材が
いるとは思えなかった。
木之本は、
オペレーターの業務テーブルの間に入っていって、
1人の女性に声をかけていた。
それが多分、若菜のどかなんだろうか、
僕は吸い込まれるようにして注視した。
女は立ち上がって、僕の方をじっと見た。
そして、ぺこりと軽く頭を下げた。
僕はつられるようにして、
視線だけはそのままで軽く会釈を返していた。

 

プロジェクト686日目。

 

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会社の定時は9時、しかし僕は
だいたい8時前には出社している。
上司がすでに来ているのもあるが、
課員が集まってからでは、
僕の業務は会話が中心となり、
中々整理できないことも多くて、
文書作成なんかを片付けたいためだ。

今日も朝早くに出社したのだが、
早速、山寺にいる時にも電話してきた上司の桐村から、
名古屋でのサブスク会社への
体制について確認があった。
名古屋で常駐するのは、
1人か2人でよかった。
こちらからの遠隔指示で、
調査内容を積み重ねてくれれば、
そこから判断して、
なんらかの打ち手というか、
改善や効果的な提案に
持っていけると僕は考えていたから。
提案という料理に落とし込むのは、
その次の話で、
外注でドキュメントに強いコンサルでも
使えばいいと思っていた。
まあ、出張するのは、
誰でもいいというわけじゃないが、
僕は桐村に、まだ決めかねているが、
あてはあると答えた。

定時を過ぎた。そのタイミングで、
どこでこの話を聞きつけたのか、
派遣社員を雇っている
ワンフェイス社の木之本から電話がある。
「柏木さん、名古屋の件ですが、
うちの社員でいい人材がいるんです、」
彼はいつになくはきはきした感じだった。
僕は、
「なんか早いですね情報、」
「営業さんからレポート流れてましたよ」
「いやでも、俺の方でまだ募集するとか、
そういうことは」
「だけどですね、どうせ困ってますよね、
柏木さん行くわけじゃなさそうですし、」
まあ、その通りだった。
彼はぐんぐん話を続けて、
「以前、うちから入れてくれた若菜っていますよね」
「ああ…、」
全然憶えていなかった。
「ほら、都庁前の事務局に入れてもらってる、
女性なんですが、」
都庁前の事務局は、
主に官公庁系の事務を司るために設営した事務所で、
僕の担当のひとつだった。
20人くらいのスタッフで運営しているのだが、
そこにはあまり足を運んでいなかった。
「俺が面談したんでしたっけ?」
僕はどうにも思い出せず、そう聞いた。
「いえ、そっかそっかあ、
前任の方がしたんで、
柏木さんにお会いしたことないですね、すみません」
「いい方なんですか?」
「はいもう、遠隔でもいろいろ指示出せると思います」

本当にいい人材なら、
この話はスムーズに動かせそうな気がする。
僕は袖机をあけて、現在の課の人員リストをくくった。
履歴書を見つける。若菜のどか、とある。
かわいい名前だなと思った。
まだ20代の後半だった。
顔写真はリクルートスーツみたいな上半身、
表情はきりっとして―証明写真は誰でもそうだが―、
清冽な印象を持った。
その顔を見ても、
僕はこの時点では、なにも思い浮かばなかった。

 

プロジェクト685日目。

 

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彩花はしばらく放心の態で、
ソファの手すりに首をもたげ、
裸体をさらけ出していた。
さすがに足だけは
音もなく閉じたけれど、
暗くしたリビングの中に浮かび上がる、
その白く光る裸体を眺めながら、
見慣れていた彼女ではない気もしていた。
それは美しさからくるものだろうか、
だが、果てたあとの僕には、
もう胸中を揺さぶる官能は沸いてこない。
僕はソファの下、
フローリングにあぐらかいて座り、
彼女に、
「そういえば、今日の帰りね、
新幹線の中、すげえやばかったんだ」
「どう?」
彼女はささやかな息の合間に言った。
僕は鼻で笑うと、
「乗ったら、ずらっと座ってる人、
みんなマスクしてるんだ
結構壮観な眺めだったよ、
全員だよ、で、してないのは外国人だけ、
きれいにね、外人だけしてないの、あと俺だけ」
「それって、」
彩花は起き上がり、
散らばったスウェットや
ほかの衣類を手繰り寄せ、
胸元を隠すと、
「やっぱり、流行ってるってこと、でしょ」
「そうなんだ」
僕の返答は、何の意味もない。
暗がりでも彼女の顔つきが
曇っていくのがわかった。
「ねえ、翔太はどうしたの?」
「え、俺?ははっ」
僕はまた乾いた笑い声あげて、
「知らなかったから、
マスクなんて持ってないし」
「買ったりしなかったの?」
「買うって、もう乗っちゃってるし、」
キャミソールもスウェットも着られた。
もうそこに、無防備な女はなくて、
「みんなしてたんでしょ、
そういうことなんだよ、わかる?」
僕は仕方なくといったふうに、
「わかるよ、わかってる」
「でも…、笑ってるから」
「俺は、おかしいから笑ったわけじゃない」
僕も立ち上がった。
この返答も、まあ、適当だった。
本当は、深刻そうに見えた
マスクの集団を揶揄していた。
彩花は深く息を吐き出して、
もう何も言わなかった。
僕は彼女の肢体を眺め、
まだ、下着だけは履いていないなと考えて、
その股間に、僕の体内のものが、
さっきまで溢れていたんだとも思った。

プロジェクト684日目。

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※ブログでは規制が厳しいため、
かなりの部分を略します。
僕は表現の美しさと今後の展開に重要な
ターニングポイントだと考えているので、
アマゾンでは全文を掲載します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

彼女は、なにをわからないと言ったんだろう。
この場合、それは感染リスクを避けるためであって、
木へらについた僕の唾液が、
彼女の体内に入ることを
避けたに他ならない。
つまりそれは、
僕を感染者と見なしたことなんだ。
僕は、一瞬かもしれないけれど、
寂しい表情になった。
それを彩花は見逃さなかった。
彼女の身体がぐっと近づいてくる。
僕はそれを避けるように、背中をそらした。
「違うんだよ、わたし、そうするって、
テレビでやってて、」
「…、親しい人でも?」
僕は漠然とした不安を抱いたにすぎない。
しかしこの時、
最近のこの一連のウィルス騒ぎが、
はじめて自らの私生活に近づいた気がした。
僕はそれを上手くは伝えられず、ただ、
「なんか違和感、感じる、
よくわかんないや、それ」
「ちがくて」

《略》

僕は額に滲んだ汗を意識しながら、
この女がなぜ僕を、
これほどまでに切実に欲するのかを考えていた。
たまたま、だろうか、
僕がいるだけだろうか。
女は男のフェイスなんて見ていないし、
冷静でなくなってからは、
見分けなんてつきゃしないんだろう。
だから創造主が神だったとして、
その決め事が、
僕にはどうにも不可解でならない。

 
プロジェクト683日目。
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深いため息が出る。
僕は彼女を追いかけなかった。
どうせ今行ってなだめても、
またやりこめられるだけだったから。
こんなことになるなんて予想していなかったから、
晩御飯も食べていなかった。

僕はしかたなくリビングの椅子に座り、
赤福の箱を開いた。
勢いよくぶつかったわりに、
あまり崩れていなくて、
僕の口元に笑みが浮かぶ。
木べらを取り出して、
まずは餡子だけをすくって
口元に運んでみる。
甘すぎない少ししなった感じの餡が、
舌に沁みていくようだった。
お腹が空いていたのを思い出したように、
立て続けに、3個たいらげる。
冷たい緑茶でもほしいなと思った。
ちらっとカウンター越しにキッチンの方を見たけれど、
メールの返信もなかったんだ、
何も夕食は用意されていないようだった。
また1つ、餅に餡をくるませて一口で頬張る。

足音には全然気づけなかった。
彼女は忍び足しできたのかもしれない。
背後に、彩花が立っていた。
彼女の手が、僕の肩に軽く触れる。
2人が触れ合うのはいつ以来だろうか、
僕はふとそんなことを考えたけれど、
それよりも、わずかな体温が、
彼女が、さっきよりは
少し冷静になっていることを感じさせた。
「美味しいよ、あと彩花の分だから、
一緒に食べようよ」
僕はひとつを上手く木へらに乗せ、
振り向いて彼女の口元に近づけた。
「待って」
彩花は言うと、
キッチンの引き出しから、
小さなスプーンを取り出してきて、
普段は僕の向かいに座るのに、
椅子を引っ張って隣にきて、
「いただきます」
自らまだ箱にあったひとつを取り出した。
「美味しいね」
声はさっきまでのヒステリックを裏付けるように、
抑えられたトーンだった。
僕は、
「伊勢神宮の方だと、
出来立て食べれるお店とかあるらしいんだよね」
「出来立てあったかいのかな」
「どうなんだろう、柔らかそうだよね、
旨いだろうな、今度行こっか」
「わたし、これでも美味しい」
「そうだね…、」
僕は一度言葉を切り、唾を飲み込むと、
「さっき、ごめんね」
彼女は何も答えず、
そばで餅を頬張っていた。
もっとも、
僕には何を謝っているのかなんて、
正確にはわかっちゃいない。
僕はただ、諍いや争いを、
なるべく避けたい気持ちで
いっぱいなだけだった。
「気をつけるよ」
彼女が無言だから、僕は付け足すように、
もう一言を添えた。
「うん、怖いからほんとに…、
翔太がなっちゃったらほんと怖いし、
人に染すとか、もっと怖いでしょ」
僕は横に座る彼女の、
下向き加減の顔を覗き込んだ。
僕は単純だから、
自分が感染するのは
確かに嫌なことだけれど、
人に染すのは、かえって自分が治るようで、
あまり気にならなかった。
だけれど、そんな否定は彼女にはしなくて、
「そうだね、ほんと気をつける、ごめん」
「わかってくれたらいいから」
それで、わずかな間があってから、
僕は、
「この木へらさ、」
餡子のこびりついた
小さな白木のへらを掲げ、
「使わなかったのって、そのせい?」
と漏らした。
彩花は首を上げ、僕をじっと見つめると、
「わかんない」
そう答えた。

 

プロジェクト682日目。

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僕は自分の口元を思わずおさえてみた。
それはそうだろう、
誰もがマスクで口と鼻を覆っている。
低い新幹線の天井から、
まっすぐ続く通路を見渡した。
ま、目を凝らしたって、
空気中には何も見えるわけじゃない。
何かが浮遊して、
―緑色した噴霧状のものを想像したが―、
みながそこから逃れようと、
顔を背けている、
そんなことをただ想像してみた。
おかしなことだが、
マスクをしていないのは、
スパニッシュ系や、東洋人でも
あきらかに日本人ではない観光客に限った。
窓際の座席に座ってから、
彩花に、名古屋を発したことと、
8時頃帰ることをメールする。
一度ノートパソコンを開く。
メールをチェックしようと思った。
しかし、WiFiの調子があまりよくなく、
レスが遅かった。
それをじっと見ていたら、眠くなってきて、
パソコンを閉じた。
彩花からは返信はなかった。

夜8時過ぎ、家に2日ぶりに帰る。
彩花は不機嫌だった。
これは予想していたことなのだけれど、
僕は彼女が好みにしている、
伊勢の赤福を買ってきていたから、
それを取り出して、その目元でぶらつかせてみた。
「柔らかいうち食べなきゃ、
賞味期限けっこう短いから」
「いい加減にしてよ!」
彩花は唐突に手を上げた。
僕の持っていた赤福の箱は、
床に叩きつけられた。
僕はたぶん、情けない顔したと思う。
箱をすぐに拾い上げて、
「どうしたの?食べようよこれ」
「ねえ!」
彼女の声は大きかった。
「なんでわかんないの?」
「なにが?」
引っぱたきかねない剣幕だ。
彼女は僕ににじり寄ると、
上目遣いで、
「今、どういう状況かあなた知ってる?」
あなたと呼ぶのは、
相当怒っている時だった。
「あなたがやってることっておかしいよ、
私、全然理解できない、
ニュース知らないの?
名古屋でね、感染者いっぱい出たんだよ、」
僕は力なく首を振って、
「しょうがないじゃない、出張なんだから」
「泊まったじゃない!」
「まあ、それはさ、」
何も、反論が浮かんでこなかった。
夕方まで見ていた広い川っぱらの光景が浮かぶ。
それで、また押し黙った。

「今ね、すっごく危ないの、わかる?」

「コロナが?」僕の声は小さい。

「いっぱい死んでるの、あなたにわかる?」

「俺は、」

僕は息がつまりそうになって、

大きく呼吸すると、

「俺は…、そんなのならないから」

「なにそれ?」

「いや俺はさ、インフルとかも、ならないし、だから」

「ちょっと、今冗談やめてよ!」

「これ、冗談?」

「冗談でしょ!そんなこと言うのあなただけだから」

「俺、だけなの?どうして、」

「だから!そういうのがダメなんだよ」

彩花は涙目になって叫ぶようにそう口にして、

そのまま寝室の方へ去って行った。

ヒステリックはやみそうになかった。

僕は中で崩れてしまっただろう赤福の箱を

テーブルに置いた。

 

プロジェクト681日目。

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博物館では、
このデルタ地帯の歴史が、
模型や古い写真を使って展示されていた。
それは洪水との戦いの歴史だった。
中州に長く高い土手を作り、
その決壊を恐れつつも、
人々はこの地に住み続けた。
それは何も、
先祖伝来の伝統を意識して、
離れられなかったわけじゃない。
結局のところ、川が荒れ、
上流から肥沃な土を運んでくるのだから、
常に土地は潤い、
豊穣な実りをもたらしたからに他ならなかった。

それから僕は、また、歩き続ける。
少し足に疲れもあって、
駅までの4キロの道のりを、
ゆっくりと歩いた。
途中、鉄橋のせまい歩道を渡り、
川の中心部からの眺めを
ぼんやり見たりしていた。
川が荒れ狂い、
家々が流されていく光景は、
僕の中に文字のようにして残っていたが、
脳裏にその情景を
想起させるまでにはいたらなかった。

陽が暮れかけていた。
川面に移る夕景を見たかったが、
空はだんだんと曇り始めていて、
見れそうもなかった。
日中はあんなに暖かかったのに、
徐々に寒さを感じるようになっていた。
小さな駅舎から、
2両編成の列車に乗り込む。
車窓からどこまでも続く
藍色に染まりかけた田園風景を眺めていたら、
この小さな旅が、終わりを告げたのだと感じた。
あれやこれやと
仕事のことも頭に思い浮かんでくる。
それから、噛み締めるように、
寺の人妻の、はにかんだような、
困ったような、ささやかな笑い顔が思い出されていた。

名古屋に戻る。
駅前は相変わらずごった返していた。
まあ、心配もしていなかったけれど、
やはり新幹線は通常通り動いていた。
10分おきくらいで、
東京へと猛スピードで人を運んでいくのだ。
僕が少しだけ、変化を感じたとすれば、
それは新幹線の車内に乗り込んだ時だった。
すでに乗っている乗客の全てが、
白いマスクで頬を覆っていた。

僕は彼らが吸いたがらない空気を肺に吸い込んで、
一呼吸おいて、あらためて車内を見渡す。
背後から、同じように乗り込んできた人が、
僕のわきを窮屈そうに追い抜いていった。

 

プロジェクト680日目。

 

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「川、広々してますね、揖斐川ですか?」
僕は窓の外を見たまま、
運転席の寺の奥さんに言った。
彼女はええ、と軽く答え、息を吸う音がした。
それで、また間が少し会ってから、
「ほんとうに、遠いですが、大丈夫ですか?」
博物館からは、駅まで遠いというのだ。
しかし僕は、
このデルタ地域一帯を紹介する博物館には、
どうしても足を運びたかったし、
「大丈夫です。今度は平地ですからね、」
「4キロくらいあります」
「大丈夫です」
念をおすように、僕は言った。
車は街中へと入っていった。
市街地らしいが、小さな街で、
それほど賑わっているようでもなかった。
彼女は、
「明日、お帰りになるんですか?」
「いえ、今日の夕方には、東京帰ろうとしてます」
「新幹線…、」
「そうですね、新幹線」
僕が答えると、また少しの間、
静かな車内に、彼女が息を吸う、
ためらいがちな音が聞こえて、
「新幹線、動いてるんでしょうか」
「え?」
僕はそれには
少し驚いた声を上げて、
「とまるってあるんですか?明日台風とか、」
「いえ、ね、あのほら、名古屋でも感染者出たとかで、
けっこう騒ぎになってますし、」
「コロナですか?」
そろそろ耳に慣れたその単語を僕は発した。
「そうです、街を封鎖するとか、
そういうのあったら、」
「そんなことあるんですか?」
名古屋で感染者が出たら、
あの巨大な街を丸ごと封鎖するなんて、
僕にはにわかに
信じることは出来なかった。
「いえいえ、ただそういう噂です。
他のところから人が入らないように、
そういうこともあると、
テレビで言ってましたので」
「まさか、そんなことって」
僕は助手席に深く腰を落とし、
広いフロントガラスから、
あまり人通りのない街中を見た。
「すいません、ただ、あんまりにも広まっちゃいますと、
そういうこともあるらしくて、
新幹線とか止まっちゃうんじゃないかと」
女はさも申し訳ないと言った感じで話を続け、
「ご存知かもしれませんが、
横浜で、大きな観光客船の中で、
いっぱい感染者が出て、
船の中からみんな出れなくなったって言ってましたし」
「観光客船?世界一周するみたいなやつですか?」
「はい、たしか」
「そうなんですね…、」
2月の中旬のことだ。
新型コロナウイルスの集団感染が
大型クルーズ船
ダイヤモンド・プリンセス号で発生していた。
検査結果が判明し、
41人が陽性と確認された。
この時点で、
日本での感染者の数は合わせて86人、
中国に次いで2番目に多かった。
しかしそういう状況を、
僕は、ニュースでなにやら騒いでいると思うくらいで、
記事をまもともに読んではいなかった。

寺の奥さんは、
結局博物館まで僕を送ってくれた。
「ほんとは駅まで
送って差し上げたいんですが、
予定がありまして、
ほんとうに、申し訳ないんですが」
博物館の駐車場で、運転席に座ったまま、
彼女は言った。
僕はシートベルトを外し、
「大丈夫です、のんびり歩きますんで」
それで、見納めなんだと思いながら、
彼女のブラウスから
紺のスカートへと視線を移した。
女はそれに気づいたみたいだ。
さっと顔を俯かせると、
「街に下りてきたの、久しぶりなんですよ」
その言葉が何を意味していたのか、
僕にはすぐにわかった。
僕は笑って、
「ありがとうございました。助かりました」
それだけ言うと、車外へと出て、
ドアを閉めた。
銀色の車が去っていくのを、
お辞儀をして見送った。
軽い恋愛が、
終わったような気分だった。
白くふくよかな女の頬が、脳裏に残っていた。

 

プロジェクト679日目。

 

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