薄い銀色の軽自動車だった。
田舎の人は1人1台なんていうから、
これは彼女専用の車なんだろう。
僕は何度も頭を下げて、
その助手席に乗り込んだ。
「少し用事があったんです、でも…、
変わってもらえたんで」
ハンドルを握りながら、女は言って、
続けて、ちらっと僕を見て、
「どこまで?」
「え?」
「あの、どこまでお送りすればよいのかと」
彼女はスカートの
膝のあたりを伸ばすような仕草をした。
僕はそこから慌てて視線を上げ、
目を合わせ、
「あ、すいません、あの、ここの、」
と、スマホの画面を彼女に示し、
「街の博物館行きたいんです。ここまで行けば、
駅も近いかなと」
エンジンがかかって、
車が砂利敷きの駐車場から走り出した。
しばらく無言のあとで、女は、
「そこなら、」
それが癖なのか、
少しためらいがちな間のあと、
「そこからですと、また駅は遠いです」
「そうなんですか?」
急な勾配の坂を車は降りていく。
僕はさっき、この坂をアリの歩みのように、
汗を流して登ってきた。
「ずいぶん、急な坂ですね」
僕が口にすると、
彼女は少し笑って、
「ふふっ、でも、これ登ってこられたんですよね、」
「そうなんです」
僕はフロントガラスから、
斜めに流れていく森林の光景に目をやった。
木々の合間に、
巨大なデルタ地帯の
川の流れが垣間見えていた。
「あんまりいないですよ、たまにはおりますが、
登山みたいな格好で来られる方
いらっしゃいますがね、
それじゃあ」
彼女はハンドルを握りながら、
少し前かがみの姿勢で、
ちらっと僕を見る。
僕は笑って、
「スーツですよね、」
艶光りしていた黒い革靴は、
泥が跳ねて白っぽくなっていた。
「仕方ないんです、出張で来てたもんで、
昨日まで名古屋いて、それで」
「こんなところにわざわざ」
横顔が綺麗だった。
少し気おくれする気分だったのに、
彼女は滑らかな口調で話を続けてくれて、
会話はとても自然だった。
「こんなところじゃないです。とてもいいところです」
「何もないんですよ、タクシーもないなんて」
どうしてそんなに卑下するんだろうか、
僕は、
「でも、ここで暮らしてらっしゃるんですよね、
そんなことないですよ、まっ平らな大地と、
大きな川があって、」
「名古屋の方のが、遊ぶとこあると思います」
坂が終わりかけている。
雑木に覆われた影が消えて、
道の先には、大きな通りが見えてきていた。
「まあ、僕には、こっちの方がよいです」
それ以上のこと、言っても仕方ないと思って、
僕はそれきり口を噤んだ。

大きく長い橋を渡る。
揖斐川にかかる橋だ。
視線を走らせていく。
川は、少し季節が早いと思われる
アブラナの黄色い花に縁どられていた。

プロジェクト678日目。

 

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「すみません、タクシーなんですが、」
白い頬はわずかに紅潮していた。
走ってきたんだろうか、
それにしては、僕は電話に気をとられ、
足音もなにも気付けなかった。
僕は彼女の作務衣の下の、
ふっくらと膨らむ胸元を意識した。
それを盗み見た気がして、
あからさまに目をそらすと、
「すみません、ちょっと、会社から電話で、」
「いえ、」
奥さんはちらっと

周囲を見渡すそぶりをしてから、
「誰もいらっしゃいませんから、それで…、」
彼女の足が畳に入った。
2歩ほどの距離まで近づいた。
象げ色した、毛玉のついた
地味な靴下が目に付いた。
「タクシー、

どうしても見つからなくてですね、」
申し訳なさそうな顔をしているのだが、
そこには気丈さがあって、
それは、内なる自信から
出るものなのだろうか、
自らの美しさを知る人間に
ありそうな雰囲気だった。
僕は開け放たれた障子窓を通して、
吹き上げてくる涼風を背中に受けながら、
「やっぱり、そうですよね…、」
「岡田さんってとこがタクシー、
以前やってたんですけど、縮小したとかで、
もう2台しか扱ってないとか、」
「ああ、僕もそれ、聞いてました」
女は顔を上げた。

もう、頬の赤みはなかった。
「ご存知でしたか?」
「はい、来る前に断られちゃって、それで、」
もう少し、距離が縮まる。
「そうでしたか、どうしましょう…、」
「すいません、ありがとうございました。
諦めて歩きますんで、大丈夫です」
僕は畳の端に置いていた
ビジネスリュックを手にして、
再び背負いなおす。
「また歩かれますか?」
「はい、大丈夫です。こんな風景」
僕は首をそらして、
また窓からの眺めに目を向け、
「素晴らしいもの見せてもらっただけ、

よかったです」
女は、僕が晴れ晴れした感じで
その言葉を吐いた瞬間に、
なぜか沈思するような表情と、
腕を組む仕草をした。
僕はお辞儀をして、その場をあとにした。
また、床板をぎしぎし鳴らして、
本堂へと歩いて行った。
寺の奥さんはそれをすぐに追いかけてきて、
「ちょっと待ってください、わたし、
送って差し上げられるかもしれませんので、」
「え、いや、それは…、」
「ちょっと待っててもらえますか、」
「はい、」
どういうことだろうか、僕はただ返事をした。
「山門の前のとこ、今、工事してまして、
事務所みたいなもの建ってると思うんです。
今日は誰もおりませんが、
そのあたりで、待っててください」
「はい」
また、僕はただ答えた。

それから、山門を潜り、
待つ間に喫煙所を探してみた。
山を登り始めてから
ずっと煙草を吸っていなかった。
境内にはそれらしいのもなかったし、
だけれど、灰皿が置かれたようなところは
見つからなかった。
僕は崖にせり出した
プレハブの事務所の裏口へまわった。
そこからだと、誰にも見られなそうだ。
煙草に火をつけ、煙を大きく吐き出してみる。
親切心を裏切るみたいに少し感じたけれど、
まあ、ばれなきゃいいだろう、
あの女性が、
山奥の寺の深窓にあって、
坊主頭の旦那さんと

性交を繰り返す肢体を想像して、
なんだか、鼻先がくすぐったくなった。
煙草を吸い終え、足元に落とし、

革靴で踏みつけた。

また、少し待つ。
ここじゃなかったのだろうか、

そう考え始めた時、
山門から女性は現れた。
作務衣じゃなかった。
紺のプリーツっぽい長めのスカートに、
白いブラウス、
その上に薄手のダウンジャケットをはおっていた。

 

プロジェクト677日目。

 

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これを見るために汗をかいたと思えば、
十分に報われた気分になれる
そんな光景が広がっていた。
自然石を配した庭園から、低い瓦塀、
その先には、
ただどこまでも平面が続く、濃尾平野、
そして、いくつかの川筋が見えた。
これを一望したくて、僕は歩いてきた。
休日のこの日、
他の観光客は見られなかった。
静かすぎて怖いくらいだ。
この山上に苦もなく上がってこれる鳥だけが、
時折囀っているのが聞こえてくる。
僕は畳にあぐらをかいて座り込むと、
しばしその光景に見惚れていた。
川から吹き上げてくるのだろうか、
涼風が流れていく。
ずっと歩き続けてほてって汗ばんだ顔に、
それが心地よくひたひたと当たっていった。

パンツのポケットの携帯電話が震えていた。
メールであれば、後でよかったけれど、
振動が止まないので、
僕は座ったまま、携帯を取り出した。
表示は、会社の上司である桐村だった。
桐村は仕事を生活にしているような人で、
休日でも夜遅くでも、お構いなしに電話がある。
僕もあまり気にはしないのもあるかもしれない。
「聞いたぞ、名古屋の件」
繋がると、桐村は開口一番、
電話の向こうで言った。
「ああ…、そうなんです」
僕は庭園のさきの景色から
目を離さないまま答えた。
「どうすんだ?常駐するわけいかないだろ、
柏木くんが行ったら、
こっちどうするかって考えちゃってさ、
それで電話したんだ」
「いやそれは、僕もそんな気ないんです」
「でも先方はえらくお前のこと気にいってるって、
営業言ってたから」
昨日先に帰った営業の山内が、
すでに社内報告をしたんだろう。
それにしても、早いなとは思ったけれど、
「気にいってるって、いったんは個人でしょうが、
業務はそうじゃなくてよいんですよ、誰か適任者あれば、」
「そうなの?」
僕は周囲を見渡す。
こんな場所で話すのが少し憚れた。
しかし相変わらず誰も来る気配がなかった。
「本部長が思ってるようじゃないですよ、」
桐村は本部長だ。
「いや、お前のことだから、
また率先してまとめてくるってやりだすんじゃないかと」
「そんなことないですよ、」
僕は苦笑まじりに否定して、
「帰ったら、適任者探します。
面談も考えてますし、
リモートでもコントロールできるような」
実はそんな人間、
今のところ思いついてもいなかったのだけれど、
そうするつもりではいた。
「帰ったらって、まだ名古屋?」
「…」
僕は立ち上がり、敷戸まで近づいて行った。
揖斐川のゆったりとした眺めを見ながら、
「まあ、名古屋っていうか、」
「なんだ、先方と飲んだのか?」
「それはないですけど」
これから頼むよとは言われたが、誘われてもいない。
マスクの威圧的な目の、サブスクの事業部長の顔が浮かんだ。
「まあ、ちょっと観光して帰ろうと思いまして、」
僕は言葉を継いで、
「濃尾平野っていうか、名古屋からちょっと行ったとこ、来てます」
「のんきだなあ」
桐村が笑いながら言った。
「のんきって、いいじゃないですか、
休みなんですから、」
「お前知らないの?名古屋でコロナ感染者出たって」
「ああ…、」
僕はちょっと考えて、
「知ってます、なんかそれ、聞きました」
「早く帰ってきた方がいいぞ」
「今日には帰ります」

それで、電話は切れた。
僕は細く息を吐き出すと、携帯電話をポケットに戻した。
「あの、」
振り向くと、さっきの寺の奥さんが、立っていた。

 

プロジェクト676日目。


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最後の勾配はさすがにきつかった。

大きなカーブをいくつか登りきるたびに、
角度が上がっていくようだ。
足の、ふくらはぎあたりの筋肉が、
しなるように力を振り絞っていくのを感じる。
額を汗が流れていく。
息は荒くなって、あたりに人もいないのもあって、
僕はノドを震わせ、
声に出して、はあはあ呼吸を吐き出した。
年をとったら、
こんなこと出来なくなるだろうな、
だから今、
このくらいのことはやり続けなきゃならないな、
僕はそんなことを考えながら、
ようやく見えてきた、
寺らしい築地塀を視界に入れた。

諦観寺は養老山地の
突端のような山頂に位置する。
頂上付近にわずかに平地があって、
そこに境内を作っている。
昔の人は、なぜこんな不便な場所に、
あえて建造したのかと考えそうだが、
西洋のトラピスト教会にせよ、
修験道の寺社にせよ、
不便だからこそ、
そこが未開で人をよせつけない場所だからこそ、
あえて築く意味があったといえば、
納得がいくだろうか。
そもそも人々が
集合することを意図していないのだ。
人は集団で生活することを覚え、
この文明社会を
一気呵成に築き上げたというのに、
まるでそれより以前の狩猟生活が、
遺伝の記憶にこびりついて残っていて、
その影響で、
人気のない場所を探し当てたようなものだ。

豪壮でなんの装飾もない裸木の山門を潜ると、
せまい境内の先に、
本堂らしき建物が見えた。
僕の息は大分落ち着いてきていたが、
陽気は暖かく、汗ばんだ身体には、
まだジャケットをはおる気もなかった。

寺務所の窓口に顔を出す。
誰も出てきそうもないので、
大きな声で、すいませんと言ってみた。
すぐに「はあい」という間延びした女性の声が聞こえ、
スリッパをぱたぱたさせる足音が近づいてくる。
出てきたのは、紺の作務衣を着た、
中年にさしかかったくらいの年齢の女性だった。
寺の坊さんの奥さんってとこだろう。
化粧っ気がまるでないが、
下ぶくれの輪郭、白い艶のある肌で、
涼しげな細い目をした、
どちらかというと美人な女の人だった。
「御朱印でしょうか?」
女は寺務所の内側に座り、
案内窓口越しに僕を見て言った。
「いえ、参観したいと思いまして、」
僕が言うと、彼女はパンフレットのようなものを取り出し、
「300円になります。そこから、」
と、本堂の方を指差し、
「おあがりになって、ぐるっと庭園の方まで周ってください」
僕はその白く細い指を見つめながら、
とてもクマに怯えて
山中をさまよった後に見る光景じゃないな、
と思っていた。
それから、僕は言いづらそうにして、
「あの、ここからタクシーって呼べますか?」
山の下まで降りたとしても、
次に行きたい目的地まではまた距離があった。
いっそのこと、
ここからタクシーに乗れたらいいと思ったからだ。
それで、何かに気付いたように、
寺の奥さんは口を丸くすると、
「どうやってここまで来られたんですか?」
「いや、徒歩っていうか、歩いてきました。
それで、帰り道はタクシーないかと」
「あらあ」
女は立ち上がって、
僕の姿を見ているようだった。
タイトなスーツに艶光りした革靴、
どう見ても山登りする格好ではなかったから。
「たまに歩いて来られる方もいらっしゃいはしますが、、」
何か言いたげだったが、
それ以上は聞いてくることはなく、続けて、
「お呼びしておきますね、
去年バスも廃止されてしまいまして、」

僕はお辞儀をして、
境内から靴を脱いで本堂へと上がった。
そこから忍ばせても軋む板敷きを鳴らして、
廊下をゆっくりと歩いて行った。
もう、その先に庭園の光景と、
さらに前方に広がる濃尾平野が見えていた。

 

プロジェクト675日目。


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坂道は急峻になっていく。
アスファルトの道は、
修繕があまり行き届いておらず、
ところどころひび割れていた。
杉の枯葉が散乱し、
葉くずが道路いっぱいに広がっていた。
木々が鬱蒼として、天井を覆っている。
遠くに見えていた寺の甍も
近づくにつれ見えなくなっていた。
イノシシ、クマに注意という看板が立っている。
もし鉢合わせたとして、
何に注意すると言うんだろうか、
僕は息を吐き歩きながら、にやりと笑った。
周囲の藪を睨みながら、警戒心いっぱいで、
おそるおそる歩く自分を想像したのだ。
だけれど藪の中のクマと目があったら、
もう助かることもないだろう。
襲われたら、頑強な爪の猛攻で、
あっという間に頭をかち割れるのがオチだ。
注意というのは、そもそも無防備で
一人歩きなんてするなって意味だろう。
だとしたら、なんでこの位置に
立て看板があるってことだ。
鉄条網でもはって、入れなくすればいいはずだ。
これでは、危険を承知で、行くなら行けばいいと、
軽い抑止をしているに過ぎない。

途中、大分上がってきたところで、
沢の水音が眼下に聞こえていた。
道のすみに寄って、木々の間を覗き込むと、
わずかに白っぽい流れが見えている。
立ち止まって手を腰にそえると、
荒く上がった呼吸を整える。
それから、今来た坂の下の方を見やった。
グーグルマップを見ると、
山道も7割ほど進んできている。
あと少しのはずだが、おそらく、
ここからさらに急峻さを増すだろう、
距離以上にきついはずだった。

僕は現代人の中では
たぶん、健脚の方だろう、
こうした山歩きも
今に始まったことじゃないし、
自分で言うのもなんだが、
足腰は引き締まっている。
ただ、一般的に、
こんなところまで徒歩じゃ来ないだろうという、
世間的な感覚と見比べているにすぎない。
どうせ無理しても
身体はすぐに回復するだろうし、
なにより身体が
悲鳴を上げるわけでもないのだから、
粛々と歩き続けるに限る。

木々のすれあう音が、
頭上高くなびいている。
さざめきがたくさんの重なりの中で、
海岸に打ち返す波の音のように聞こえてくる。
目を閉じたら、
まるで海底で波音を聞く気分になれるかもしれない。
目を開くと、
つづらおりの、
さらに勾配のきつい坂道が続いていた。

 

プロジェクト674日目。

 

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硬い革靴で長い距離を歩くのは慣れていた。
そもそも東京では、
日常的に移動をし、
地下鉄の乗り換えなんかでひたすら歩いている。
国道沿いの道は
ひっきりなしに大型トラックや
普通自動車が走り抜けていく。
狭い歩道ではぎりぎりで車がすれ違っていく。
空は薄い雲が少しづつはがれていって、
太陽が覗いていた。
まだ2月の初旬だというのに、
歩き出して30分も経つと、
汗ばむくらいだった。
僕はマフラーをはずし、ジャケットも脱ぐと、
それをリュックに詰め込んで、
再び歩き出した。

何度も道路で振り返ってみたが、
タクシーは1台も見ることがなかった。
たまらず近隣のタクシー会社に電話をしてみたが、
2台しかなく、それも出払っていて、
何時になるかわからないと言われた。
途中で1件だけあったコンビニでも
タクシーを呼べないか尋ねてみた。
高校生のアルバイトらしい店員は、
ただ苦笑いして
首を傾げるだけだった。
諦観寺は名園のある観光寺のはずだった。
しかし交通の便は悪く、
自家用車での移動に限られるようだ。
僕は全てを諦め、あとは自分の足を頼りに、
5キロ以上の道のりを歩き続けた。

国道をそれて、ようやく、
山道へと続く道に出た。
はるか先、山上に
寺の甍らしい建物が見える。
あそこまで登るのか、気が重くもなったが、
ここまで来て引き返すこともないだろう、
僕は肩に食い込むようになったリュックを担ぎなおした。

途中、まだ山道に入る前で、
杖つき坂と呼ばれる案内板を見る。
古事記に記された
ヤマトタケルノミコトの故事の推定地だった。
滋賀の息吹山で
氷雨にあって風邪をこじらせたミコトは、
この坂を通って故郷大和へ帰って行った。
急峻な坂の勾配に、病んで疲れ果てたミコトは、
杖にすがり、あえぎながら登って行ったんだという。
彼は結局大和に帰ることなく、
ここから数10キロの
三重能褒野で力尽き亡くなった。
道幅の狭い、土面の、
みるからに古道といった坂道だった。
1600年以上前、
ここを通る大和の遠征軍を想像した。
なぜミコトが
馬に乗っていなかったのかはわからない。
もはや馬に乗るだけの
体力もなかったのかもしれない。
僕はスマホで古道を撮影し、
案内板を読んでいた。
もしタクシーに乗っていたら、
この古道も見落としていただろうし、
こうして人気のない場所で、
はるか古代の出来事に、
思いを馳せることもなかっただろう、
そう、気休めに自分を慰めてみた。

 

プロジェクト673日目。

 

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『C/B A corona is beautiful』の全編→

木曽川、揖斐川、長良川が合流する濃尾平野一帯は、
だだっ広い平地が広がる一方で、
すぐに養老山地が迫り、
地形に起伏を与えていた。
川筋にそって、田園風景が続いている。
しかし、こののどかな光景を眺めながら、
僕にはどうも罪悪感があった。
それはなぜか、妻彩花への、
微妙な引け目だろう。
日帰りすると行って、
僕は一晩を名古屋で過ごし、
そうして、今、
濃尾の田舎町をほっつき歩いている。
彼女にはずいぶんのん気に思えたかもしれない。
かもうものか、という気分もあったが、
自分を解放的にさせない一点の懸念が、
気持ちに微妙な影を落としていた。

泊まるつもりはなかったのだから、
なんの準備もしていない。
僕はいつものように
上下のスーツで光沢のある革靴姿だった。

美濃山崎という駅に降り立った。
駅前からして、商店らしいものはなにもなかった。
昨日は名古屋市街の雑踏にいたのだ。
わずか1時間ほど列車に乗っただけで、
生活感も人の営みもまるで様変わりしたようだ。
ここからでも、
名古屋へと通勤している人もいるだろうが。
僕は周囲をひとわたり見渡してみた。
老人が遠くから台車を引きながら歩いてくる。
その動きはゆっくりと緩慢で、
止まっているかのようだった。
路地を抜け、土手へと上がる。
河原は広々としていた。
津屋川が揖斐川と合流するあたりだろうか、
僕はグーグルマップと
眼前の光景を照らし合わせて見た。
視界の先へと目を走らせてみたが、
ここからでは、日本有数のデルタ地帯を
体感するところまではいかなかった。
もう少し高いところに行かなきゃならないな、
背後を振り返れば、養老山地がせまっている。
スマホで山稜に沿った観光地を調べていた。
諦観寺というのがあった。
そこまで行けば、もしかしたら、
川の流れと中州あたりまで一望できるかもしれない。
駅に戻ると、なにか案内板がないかを探してみる。
ところが、どうしたことか、
寺までの定期バスのようなものは見当たらない。
タクシーもなさそうだった。
歩いているうちに何か見つかるかもしれない、
僕は駅を離れ、国道沿いの道を歩き始めた。
 

プロジェクト672日目。

 

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『C/B A corona is beautiful』の全編→
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その晩のホテルはすぐに見つかった。
意外に空いていた。
中国人の観光客が1人もいないからだと知った。
「知らなかったんですか?」
ホテルの受付に立った、
ポマードを塗りたくったような
てかてかしたオールバックのおじさんは言った。
「知らないって、その、あのコロナですか?」
僕はルームキーを受け取りながら聞き返す。
「そうでしょ、だってそうでしょ、
中国じゃすごい騒ぎらしいからね、
あんだけ来てたのにねえ、
1人も来なくなっちゃったよ、
最近街じゃ中国人見なくなってないですか?」
「たしかに、そうですね、」
「これからかきいれ時だったからねえ、
中国人減っちゃったの大変だよ」

部屋に入ると、また、彩花に電話をかけた。
彼女はさっきより落ち着いていたけれど、
まだ怒っているみたいだった。
僕はもうホテルをとってしまったことを伝えて、
明日の夜には帰るからと告げ電話を切った。
まあ、いつものことだ。
ただ、何か明日約束していたら別だが、
それもないのだから、
怒ることもないだろうに、
僕は舌打ちすると、
スマホで名古屋周辺の観光地を調べ始めていた。

翌日、朝早起きして、
列車に乗った。大垣まで北上し、
そこから養老鉄道に乗り換え、
一路海津方面を目指した。
いろいろ悩んだが、
明治村や犬山城は
もう何度か行っているし、
名古屋城には本丸御殿が
再建されたとも聞いていたが、
結局、日本最大のデルタ地帯、
濃尾平野を周遊しようと決めた。

列車は二両編成で、乗客はあまりなかった。
頬杖ついて市街を眺めていると、
駅に近い場所で、
コロナファクトリーと書かれた
大きな看板が目に付いた。
僕は慌ててスマホを取り出し、
そのだだっ広いホームセンターを写真に撮った。
それを、彩花に送信する。
「コロナだって、この店も流行りそ」
そんなこと、メールにして送った。

着信がすぐに来る。
「不謹慎だよ、そういうのやめた方がいいよ」
とある。
まだ、怒っているみたいだ。
僕は、
「お店が不謹慎な名前つけたってこと?」
とちゃかすような返信をする。
「そうじゃないでしょ」
「そっか、ついてないってことだね、
まさかこんな騒ぎになるなんて思ってないからね、
でもよりによってコロナなんて、がっくり…」
僕の冗談は、
彼女をえらく刺激したかもしれない。
それきり彩花からは返信はなかった。

列車はずいぶんと揺れる。
その揺れに身体を任せてた。
窓の右手には養老山地の山稜が、
かなり近くに迫っていた。

 

プロジェクト671日目。

 

――――――――――――――――――――――――――――

『C/B A corona is beautiful』の全編→

山内が東京行きの新幹線のチケットを買っている、
まさにその背中を見ていて、
突然の思いつきだった。
僕はこのまままっすぐ帰らずに、
どこかに寄って行こうと頭に浮かべていて、
財布を胸のポケットに戻していた。
別にあてはなかった。
だけれでも、いっそのこと、
このまま旅にでも出てやろうくらい考えた。

時刻は17時を少し回ったくらい。
いつもなら、定時で帰らせる
課員の進捗なんかを確認している時間だ。
とりあえず、腹も空いてきていて、
新幹線口から繋がる飲食店街に向った。
味仙という名古屋発信らしい
台湾ラーメンの店がある。
以前食べたことがあって、
どうにも辛くて耐えられなかった。
しかし一緒に食べた同僚が、
卵を注文していて、少しはまるやかになると、
食後に言っていたのを思い出して、
いい機会だから、
今度は卵入りで食べることにした。

食べ終わると、
日の落ちた名古屋の街をぶらついた。
そういえば、山内は帰りがけに、
出張もなるべく控えるように
会社から連絡が来ていると言っていた。
僕はそれを知らなかったから、
少しだけ驚いた。
何か、目に見えぬ事態が
進んでいるとでもいうのだろうか。
しかし、街を眺めていても、
その変化はどうにも考えられなかった。
仕事帰りの会社員や、若者たちが、
歩道せましと溢れかえっている。
味仙だって相変わらずの人気店で、
入るのにちょっと並んだくらいだ。
マスクをしている人が心なしか多いだろうか、
いやそれにしたって、
毎年インフルエンザが流行っているわけだし、
そろそろ花粉症なんていう人もいるだろう。

「味仙食べたよ、ほら、こないだ話したじゃん、
辛いやつ、辛い台湾ラーメン」
街中をぶらついている途中で、
彩花から電話がある。
彼女から、何時頃帰ってくるのか聞かれて、
僕は今食べたばかりの
ラーメンについて話していた。
「そんなもんどうでもいいんだけど、」
「いやまあそうだけどさ、彩花も食べたがってたじゃない、
お土産みたいなのなかったけど、今度食べ行こうよ、
すっげえ辛いんだけど、卵入れたら結構行けたよ、
旨みだけ増した感じでさ」
「翔太!」
電話越しの声が大きくなった。
「私ね、そんなこと聞いてんじゃないでしょ、」
「ごめんごめん、なんだっけ?」
「何時頃帰ってくるのかって、
今日、日帰りって言ってたから、」
僕は人が多くて
歩きにくい歩道を縫うように歩きながら、
「ああ…、」
一度言葉を切った。そして、
「今日、泊まって行こうかと思って、
せっかく名古屋まで来たし、明日お休みだし」
太閤口から続く市街には、
ビジネスホテルが立ち並んでいる。
僕はそれらの看板を見上げた。
週末だけれど、
探せば今からでも泊まれるだろう。
「え~、なにそれ」
「なんか予定入ってた?」
「…」
電話は切れていた。
僕はスマホの少し割れた画面を覗き込んで、
1つ息を吐くと、そのままポッケにしまい込んだ。

 

プロジェクト670日目。

 

――――――――――――――――――――――――――――

人類は頂点でいられない。
必ず別の生命体が後から後から出現し、
人類に生命の危機を警告する。
そして、傲慢になった気分を上から叩きのめしてくる。
それは太古、生命が誕生してからの当然の秩序、
丸みしかない世界での整然とした不文律。
たかだか600万年前に森から出てきた人類が
進取の気鋭で替えられるものでもなさそうだ。
そういった意味で、これは美しい世界なのかもしれない。
そして僕らは何か変わったんだろうか、
確かに世の中は変わったけれど、
僕らは変化なく、かえって、
本能を呼び覚まされたくらいだ。

「アセスメントって、貼り付いて、
色々調べてくれるやつだよね」
上役らしい男の声は、
マスク越しでも張りがあってよく通った。
少し甲高い、抑揚がある。
彼は僕が持参した冊子型にした
パワポの提案書に目を落とし、
再び目を上げると、
「これって、常駐してくれるんですかね?
例えば名古屋でも」
それには山内が、
「名古屋ですか?」
「両方かなあ」
上役は腕組みして、僕を見る。
東京の支社も、名古屋の本社も見て欲しいというのだ。
続けて、
「どんな感じになりますかねえ、
東京で1週間、まず実務見て、
それから名古屋でそれまとめながら、
最前線のチャネル動向見るとか、
ですかねえ」
「多分、そんな感じでやってもらうでしょうね」
合いの手入れるみたいに答えたのは大坂さんだった。
僕と山内が話す前から、
具体的なことを話されると、
それはあたかも
決まっていることのように聞こえてきた。
しばらく僕と山内を抜きにして、
提案書のページを
いったりきたりさせながら、
サブスク側だけで、話が進行していく。
もう1時間経ちそうだ。会議は終盤なはずだった。
それなのに、ここからようやく本題に入ったみたいで、
サブスクの社員からは、
次々にどうやってアセスメントしてもらおうかと
意見が交わされた。

結局のところ、僕と山内は、
今後名古屋を行き来し、
BPRコンサルを推し進めることを承諾させられた。


打ち合わせの後、
山内と僕は駅への道を歩いていた。
「マスクすげえな」
信号待ちしていて山内は言った。
「マスク?」
「あいつだよ、マスクしてたじゃん、
あの人なんてったかな、事業部長なんだよね、」
「ああ」
僕は軽い相づちして、
「なんか威圧感半端なかったな、偉そうだったし」
「本社から着たっぽいよ、本社の役員で、
顧問とか、相談役の立場らしい」
本社とは、名古屋の本社ではなく、さらに上層の、
このサブスク会社が分派する前の根元の会社のことだ。
「マスクしてたからかなあ」
青信号に変わって、
また歩き出しながら僕は言った。
「だよな、マスクしてると、表情よくわかんないしな」
僕は大きくて彫りの深い、
その事業部長の目つきを思い浮かべて、
「でも、普段もそうなんじゃないかな、
他の社員も気ぃ使ってる感じだったしね」
「わかるわかる」
山内は軽い笑いをこめて、
「してみると、マスクは有効な効果あるってことか」
「そだね」と、僕。
「マスクしてるだけで強くなれんなら、みんなマスクすればいいな」
「まあ、そんな簡単じゃないだろうけど…、」
僕は言いかけて、ちょっと言葉を切ると、
「たしかに…、股間さらして歩いてたら、
なんか無防備で弱い気なってくるし、」
「はははっ」
山内は手を叩いて、
「うけるこかん、そうだよなあ、弱いとこ出しちゃ、
抵抗できねえしさ」
「口は、弱いってことか、ていうか、口は股間と同義」
山内はもう笑ってばかりだった。
僕も半分笑いながら、
「これは発見だね、マンドリル思い出した」
「マンドリル?」
山内は甲高い声になって問い返す。
僕は、
「マンドリルってすげえ顔してんじゃん、
青とか赤の原色みたいなさ、
あれって、よく見ると、性器にそっくりでさ、」
「マンドリル知らねえ」
「見てみなよ、すっげえ顔してるから、
あれって、なんで性器偽装して、
顔の一番目立つとこぶら下げてるかってことだよ
セックスアピールなんかなあってね、」
マンドリルは、それを誇らしげに強調する。
かえって強さを誇張している。
ところが、
人間はセックスアピールを曝け出すと、
弱くなるってことだろうか、
同じ類人猿で、600万年の間に、
どう変わってきたんだろうか、
僕ら人類の方になにがあったんだろうか、
社会が密で秩序正しくなって、
倫理観が強くなりすぎたせいなんだろうか、
そうなると、肉体的な情感の部分も、
他の生物とは真逆の進化をするってことなんだろうか、

「お、ほんとだすげえなこれ」
スマホでマンドリルの画像を見つけて、
山内はまた笑い出して、
「グロいな、リアル」
「だろ」

名古屋駅にはすぐ着いた。
山内がチケットを取っているのを、
僕はじっと見ていた。
それに気づいた彼は、
「あれ、買わないの?」
「ああ、」
僕は時計を見て、
「もう少し残る」
「別件?」
「いやなんもないけど、明日土曜だしね、」
「それより、どうするよ、BPR」
山内は仕事の話をぶりかえした。
僕は雑踏の中で、少し考える仕草をしてから、
「まあ、なんとかするよ、俺が常駐ってわけいかないから」
とてもじゃないが、名古屋に常駐するような時間はなく、
「だれかアテンドする、それで、
週1回くらいは自分もこれるようにして」
それを聞いて、山内も考えるところがありそうだったが、
「お前じゃなくていいのかね、先方さん、お前のこと、
なんだかんだ買ってる感じだからな、
まあ、、任せるけど」

彼を新幹線の改札で見送ると、
僕は太閤口から、再び街の雑踏へと足を運んで行った。

 

 

プロジェクト669日目。

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人類は頂点でいられない。
必ず別の生命体が後から後から出現し、
人類に生命の危機を警告する。
そして、傲慢になった気分を上から叩きのめしてくる。
それは太古、生命が誕生してからの当然の秩序、
丸みしかない世界での整然とした不文律。
たかだか600万年前に森から出てきた人類が
進取の気鋭で替えられるものでもなさそうだ。
そういった意味で、これは美しい世界なのかもしれない。
そして僕らは何か変わったんだろうか、
確かに世の中は変わったけれど、
僕らは変化なく、かえって、
本能を呼び覚まされたくらいだ。

『C/B A corona is beautiful』の全編→

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