「すみません、タクシーなんですが、」
白い頬はわずかに紅潮していた。
走ってきたんだろうか、
それにしては、僕は電話に気をとられ、
足音もなにも気付けなかった。
僕は彼女の作務衣の下の、
ふっくらと膨らむ胸元を意識した。
それを盗み見た気がして、
あからさまに目をそらすと、
「すみません、ちょっと、会社から電話で、」
「いえ、」
奥さんはちらっと

周囲を見渡すそぶりをしてから、
「誰もいらっしゃいませんから、それで…、」
彼女の足が畳に入った。
2歩ほどの距離まで近づいた。
象げ色した、毛玉のついた
地味な靴下が目に付いた。
「タクシー、

どうしても見つからなくてですね、」
申し訳なさそうな顔をしているのだが、
そこには気丈さがあって、
それは、内なる自信から
出るものなのだろうか、
自らの美しさを知る人間に
ありそうな雰囲気だった。
僕は開け放たれた障子窓を通して、
吹き上げてくる涼風を背中に受けながら、
「やっぱり、そうですよね…、」
「岡田さんってとこがタクシー、
以前やってたんですけど、縮小したとかで、
もう2台しか扱ってないとか、」
「ああ、僕もそれ、聞いてました」
女は顔を上げた。

もう、頬の赤みはなかった。
「ご存知でしたか?」
「はい、来る前に断られちゃって、それで、」
もう少し、距離が縮まる。
「そうでしたか、どうしましょう…、」
「すいません、ありがとうございました。
諦めて歩きますんで、大丈夫です」
僕は畳の端に置いていた
ビジネスリュックを手にして、
再び背負いなおす。
「また歩かれますか?」
「はい、大丈夫です。こんな風景」
僕は首をそらして、
また窓からの眺めに目を向け、
「素晴らしいもの見せてもらっただけ、

よかったです」
女は、僕が晴れ晴れした感じで
その言葉を吐いた瞬間に、
なぜか沈思するような表情と、
腕を組む仕草をした。
僕はお辞儀をして、その場をあとにした。
また、床板をぎしぎし鳴らして、
本堂へと歩いて行った。
寺の奥さんはそれをすぐに追いかけてきて、
「ちょっと待ってください、わたし、
送って差し上げられるかもしれませんので、」
「え、いや、それは…、」
「ちょっと待っててもらえますか、」
「はい、」
どういうことだろうか、僕はただ返事をした。
「山門の前のとこ、今、工事してまして、
事務所みたいなもの建ってると思うんです。
今日は誰もおりませんが、
そのあたりで、待っててください」
「はい」
また、僕はただ答えた。

それから、山門を潜り、
待つ間に喫煙所を探してみた。
山を登り始めてから
ずっと煙草を吸っていなかった。
境内にはそれらしいのもなかったし、
だけれど、灰皿が置かれたようなところは
見つからなかった。
僕は崖にせり出した
プレハブの事務所の裏口へまわった。
そこからだと、誰にも見られなそうだ。
煙草に火をつけ、煙を大きく吐き出してみる。
親切心を裏切るみたいに少し感じたけれど、
まあ、ばれなきゃいいだろう、
あの女性が、
山奥の寺の深窓にあって、
坊主頭の旦那さんと

性交を繰り返す肢体を想像して、
なんだか、鼻先がくすぐったくなった。
煙草を吸い終え、足元に落とし、

革靴で踏みつけた。

また、少し待つ。
ここじゃなかったのだろうか、

そう考え始めた時、
山門から女性は現れた。
作務衣じゃなかった。
紺のプリーツっぽい長めのスカートに、
白いブラウス、
その上に薄手のダウンジャケットをはおっていた。

 

プロジェクト677日目。

 

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