出井和俊の"日々のレッスン"

"唯一のゴールは過程にある"


と、ジェフ・バックリィというミュージシャンが言っていました。


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※お知らせ

 突然ですが、自宅のパソコンが起動しなくなりました。たぶん2~3週間くらいで復活するかと思いますが、そういうわけなのでしばらくの間は更新ができません。ご了承ください。


(インターネットカフェより)

Knock On The Door Of Midnight

 昨日も寒かったけれど今日ほどではなく、一日中晴れていた。夜、アルバイト先のドーナツ屋から帰る途中、柳の木の生えている川沿いの道を歩いていると、表通りの商店街の灯かりが見えてきて、少しこもったような音でジングルベルが聞こえてきた。向こうからヘッドライトを点けない自転車がやってきてすれ違った。十二月の冷たい風にさらされてすっかり乾いてしまった、唇はひび割れていた。この道を通るようになったのはアルバイトを始めた八月からだったけれど、去年の今頃にここを通ってあのジングルベルを聞いた誰かも、自分の知らない誰かが同じ場所を歩いて想像したことを想像したのだろうか、と想像した。
 ジングルベルの音が近づくにつれて、川を流れる水の音が聞こえなくなっていった。

Since I Left You

 明るいオレンジ色の壁に囲まれただだっ広い食堂には、細長いテーブルが一定の間隔で並び、それぞれの両側に安っぽいプラスチックの青いイスが十脚ずつくらい置かれている。わたしの席からは窓越しに、朝から降っている雪がうっすらと積もっている隣のテニスコートが見えて、いまはそこには誰もいない。

 ふだんは三分の一くらいしか席が使われていないのに、夏休みや冬休みの前になると図書館はとたんに混んできて、空席を見つけられなかった学生は授業のない空き教室で勉強することが多いのだけれど、音楽もうるさくない程度のボリュームで流れているし、静か過ぎると気が散ってしまうわたしには、食堂のほうがかえって集中できる。広すぎてなかなか暖房のきかない食堂の狭い通路を、ハンバーグ定食やレバニラ定食なんかを運ぶ学生たちが行ったり来たりしていて、ときどきシチューやうどんの匂いが漂ってくるたびに、トースト一枚食べたきり朝から何も食べていない私のお腹はぐうと鳴って、ご飯を食べたら絶対に眠くなってしまってきっと勉強どころじゃなくなるに違いないと思いつつ、つい誘惑に負けてしまいそうになる。アイボリーの高い天井に取りつけられたスピーカーからはさっきからずっとボサノヴァ風の音楽が流れていて、その下を飛び交ういろんな声は互いに混ざり合って意味をなくしたざわめきになり、耳を澄ませばその一つ一つを聞き分けることもできそうだったけれど、そうでなければざわめきはざわめきのままあらわれては消えてゆき、飲みかけのコーヒーの横でわたしは、一人でレポートを書いている。


I My Me Mine

 晩ご飯のことを考えながら、夜道を歩いていて、マンホールの上を通ると、さらさらと水の音が聞こえた。突然吠えて人を驚かす犬のいる家の角を曲がると、坂の途中にぼくの家はある。郵便受けにはたいてい朝刊と夕刊が両方入っていて、ピザ屋や寿司屋や探偵事務所や不動産屋なんかのチラシも奥のほうに突っ込んである。隣の家があった場所はもうすっかり空き地になっていて、境目の塀も壊されて腰くらいまでの高さしかなくなっている。大通りの向こう側に昔からある高いビルが見えて、そのてっぺんは飛行機か何かが衝突した跡みたいに半分崩れている、そういうデザインになっている。

Blue Moon Flower

 柴崎友香という人が書いた『ランドスケープ』というみじかい小説を読んだ。
 火事になった餃子の王将に消防隊員が駆けつけているところに出くわしたり、ジュンク堂でフランシス・ベーコンの画集を探していると『銀河鉄道の夜』を探しているヘイデン・クリステンセンに出会ったり、未来の病気のせいで頭の大きさが3倍になった人が雨のなかを歩いている夢をみたり、色々なできごとが起こるけれど大きな事件の起きない、おもしろい小説だった。こんな書き出しです。


 蝉の声で充満したその向こうに青い空を見ると、夏休みだと思う。ラジオ体操をさぼって、寝転がって見ていた空と同じだと思う。季節が一周して、あの空の続きがまたやってきた。


 夏休みの始まる日、わたしにはもう夏休みはないし、ほんとうは夏休みがある人は少数派で、だけどいつまでも夏休みの季節がくる。夏休みの始まる日、玄関を一歩出て、陽炎の揺らめく煮えた空気の先に、屋台の色とりどりのテントが並んでいて、今日は神社のお祭りの日でもあると気づく。屋台は組み立ての途中で、お祭りに来る子供もまだ誰もいないし、昼休みなのか店の人も見あたらない。古くなった木の枠組みとテントが立てかけてあって、赤、黄色、ピンク、また赤、眩しくて目を開けていられない。


 最初から数えて4つ目、空行の次に始まる文章の意味が最初はよくわからなくて、おもしろくて、5回くらい読み返してしまった。「夏休み」という単語が1つの文に4つも入っていて、でもそれぞれが少しずつ異なった様相を帯びている、その視点のズレみたいなものがおもしろい。補足して書き加えるなら、(小中学生にとって)夏休みの始まる日、(大人である)わたしにはもう夏休みはないし、ほんとうは夏休みがある人は(世間では)少数派で、だけどいつまでも夏休みの季節がくる。」という意味だと思うのだけど、こうやって何もかも説明してしまうとベタッとなってしまう、書くことと書かないことの取捨選択の仕方が読んでいてたのしい。

No More To The Dance

 たまたま用事があって神保町に行ったら「青空掘り出し市」というのをやっていて、うずたかい古本の山のまわりに人が群がっている光景をあちこちで見て、そういえば昨夜のテレビのニュースで古本のセールの模様を放送していたな、と思い出しながら、品切れの文庫や、何十年も前の雑誌や、画集、写真集、絵本、○○全集、浮世絵などを売っている店を一軒一軒見て回っていたら、100メートル歩くのに30分くらいかかってしまった。
 そのうちに古本街が終わったのであてもなくぶらぶらとしばらく歩いてゆくと、公園があったりしてだんだんと緑が多くなってきて、千代田区役所を通り過ぎると陽射しを受けてキラキラと輝く千鳥ヶ淵が見えてきた。水は濁った苔の色で、白や茶色の鳥たちが泳いでいる姿がちらほらと見えた。千鳥ヶ淵のまわりを緩やかにカーブを描きながら続いている道沿いには、顔に背広を被って仰向けに寝ているサラリーマンや、絵を描いているらしい女子高生なんかがいて、半袖シャツに短パン姿でジョギングをしている人とすれ違ったりした。
 さらに歩いてゆくと、一度も行ったことがなくて名前しか知らなかった国立近代美術館があって、文化の日だからなのか、「本日は無料で入場できます」という看板が入口に出ていた。中では「ドイツ写真の現在」というのをやっていて、他にも色々あったのだけれど、少しだけ見てからすぐに出てきた。
 駅を探しながら歩いているとやたらと日の丸が目について、祝日なんだと思った。遠くのほうに見えた線路に見慣れた黄緑色の山手線が走っていたので、そっちに向かって歩いていくと、ふと、周りの人たちが手に上着やコートを持って歩いていることに気付いて、そういえば暑いなと思った。
 駅のそばにビビンバの店があったので、中に入って石焼ビビンバを注文した。すると、金髪の西洋人が店に入ってきて、白菜キムチ石焼ビビンバというのを注文していた。店員がそれを運んでくると、ちょっと片言で「アリガトウ」と言い、スプーンでかき混ぜてから、なぜかわざわざ割り箸で食べていた。なんとなく、日本なんだな、ここは、と思った。

Day After Tomorrow

 夜になるのが早いな、と思った。風がだんだんと冷たくなっている。昨日が晴れだったか雨だったか知らない。その他の色々なことも、もう忘れた。明日はもっと寒くなるらしい。そう言っていた。明るい汚れた地下鉄の駅を出ると外は真っ暗で、ライトを点けない自転車が走っていった。背の高い街灯の光はいつもオレンジ色で、やがて差しかかった横断歩道の向かい側にある信号が赤だったか青だったか、いちいち覚えていない。何かを思いながら、歩きながら、家に向かっていた。そういう時に何を思っているのかは記憶に残らないけど、それはたぶん、去年とか一昨年とかその前の年とかも、こういう寒い時期になると毎年感じている気持ちなんだろうな、そう思った。

Do Androids Dream Of Electric Sheep?

 ラーメン屋でラーメンを食べていたらドンブリの縁に小さな虫がいた。店の人に言おうと思ったけれど急がしそうにしていて、その虫も最初からいたのか途中からいたのかわからなかったので、まあ別にいいやと思ってチリ紙でどけておいた。ラーメンを食べている間、虫はずっとテーブルの上でもがいていた。そのままにして店を出た。
 午後5時過ぎの空は暗い紺色だった。線路沿いの道は緩やかにカーブを描きながら隣の駅のほうに向かって伸びていた。曲がり角のところにある交番のなかでお巡りさんがパソコンに向かっていた。横道から自動車が出ようとしていたけど、横断歩道の信号は青だった。

Dance Dance Dance

 新聞の夕刊を見ていたら、バレリーナの草刈民代さんと能楽師の梅若六郎という人の対談が載っていた。
 ぼくはバレエのことも能のことも全然知らないんだけど、ここで二人が話しているのは、昔と比べるとダンサーも能役者も技術のレベルは上がっているが、今の人はそれだけで止まっている部分があり、逆に昔の人はそれに代わるオーラなり存在感なりがあって、技術の背後にある芸術観によって崇拝されている……というようなことだった。


 草刈:能面は顔の角度や身体のしなり方によって表情が変わる。バレエと似ています。バレエでは、同じ形でも方向によって身体の構造が変わる。こういう場合、能では何か表現上の決まりのようなものがあるんですか。


 梅若:全部とは言いませんが、8割方、その演者の身体性、その人の身体のラインに依存していると言っていい。だから、なかなか教えられるものじゃないんです。


 という話もあったりして、バレエや能なら目に見えるぶん一人一人の優劣というか違いがわかりやすいけど、たとえば算数は得意なのに国語は苦手だったりとか、勉強もスポーツも苦手でも音楽や美術だけは得意だったりするのも、よく「才能」という曖昧な言葉を使ってしまうけど、本当はその人の持っている身体(脳とかも含めた)の性質に基づいている部分もあるんじゃないかと思った。
 あと、


 梅若:実は以前に、80歳を超えた日本舞踊家を見ていて発見したことがあるんです。この方の踊りを観察していると、あまり動いていないのによく動いて見える。ある時、「筋肉使ってますか」と尋ねると、「うん」と答える。瞬間的に筋肉を駆使すると、身体に躍動感が生まれるんですね。バレエダンサーならわかると思います。日本の踊りで「身体を動かす」というと、オーバーアクションになりがちです。この筋肉の使い方は、年をとってから有効だと確信してます。


 という話も面白かった。

Hello Goodbye

 円い大きな屋根のついた下りのエスカレーターが遠くにあって、そこを降りたところからこっちの交差点まで続いている水色のコンクリートの歩道の真ん中を、盲人用の黄色い点字ブロックの道が貫いているのが、僕の座っている窓際の席から見えた。目の前にある横断歩道の信号はわりと短い間隔で赤から青、青から赤へと変わっていて、その道路はバスの路線の一部になっているらしく、「○○行き」というバスが数分ごとに横切っていった。交差点を斜めに渡ったところにある通りにはラーメン屋が4,5軒並んでいて、角には幼稚園か小学校があった。反対側の通りにはガラス張りになっている高校か専門学校のビルがあったのだけれど、周りにはそんなに背の高い建物はなかったので、空がすごく広く見えた。
 朝は雨が降っていたが昼頃には止み、午後にはもう雲は散って陽が射していた。風が冷たかったので外にいるとちょっと寒いくらいで、「そのせいで」といえばいいのか「にもかかわらず」といえばいいのか、陽射しだけは暖かかった。建物の中にいると風が吹いているのかどうかよくわからないけれど、街路樹の枝が揺れていたりすると目で見て風を感じられる。しかし、風が吹いていても全然そよぎもしない木があって、その理由は枝が太くて短いからか、周りに風除けになる建物があるからだった。
 辺りを行き交う人たちは文字通り”老若男女”という感じで、背広姿の中年のサラリーマン風、チラシを配っている大学生くらいの女の子、バス停でベンチに座ってバスを待っている老人、小学校帰りと思われるランドセルを背負った子供、近くにある大学の学生らしい男女のグループ、何か喋りながら歩いているおばさんたち、乳母車を押している女の人とそれに乗っている赤ん坊など……それぞれが異なった、自分にしか感じられない一人一人の秘密のような時間の中で、どこからかやってきてどこかへ通り過ぎてゆくのを、ぼんやりと眺めていた。
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