記録と想い

記録と想い

~記憶がないということ~

解離性健忘症(全生活史健忘症)になって



心が壊れる?ということ

世の中は、僕のようなモノは受け入れない。そう。受け入れない。


顛末編・・・あの頃今読み返してもよく書いたものと 何日もどれだけのどれだけ時間かかって書いたものの よくわからないような・・・そんな中にあった2つばかりの不動産屋は 言葉ばかりは丁寧だと思ったとおりだけど、


たぶん作り話かなにかのお断りで物件は紹介出来ないとのことで。2011年からずっと、詳しくわからなくても肌で?感じるような?感覚がある。隠しもしないあからさまな物言い。でもなんでも・・・


『何も変わってはいない』『何も変わるつもりも無いのだろう』それは思いつつも、あの時から何かしら少しは世の中どうにか少しでも僅かでもなにか・・・と0ではない可能性を0でもないような蜘蛛の糸を・・・なにも無くても掴めるかもと思った自分がバカだった。



別にそこだけではない、ただ今今でのあの生き地獄のような場所から出られるのに、探しようが無い。


住んでる自治体の中には離島もある。考えつく可能性を考えながら、すぐにでも引っ越したくても、どうにもならない。引っ越しの許可は出た。でも実行に移せない。



僕のことと限ってと書いたほうがよいのか?少なくとも僕のような障害者はクズである。どれ程キレイゴトを並べても世の中は出来損ないのことは腹の中では邪魔者以下・いなければ良いのにというのが、本音なのである。


どれ程こっちがなにかをのぞんでも。


それでも全てではないのも知ってる。


圧倒的不特定多数は でも 



常にある『存在するべきではない』という想いと、『命は全うしてこそのものである』という中、なんとか命は全うしようとしてはいる。



では 受け入れてもらえないのに毎日の中、ひとりきりで、まず目の前の日常すら途方にくれている中で、そういう状況の誰もそばにいてサポートしても貰えない中、どうすればよいのか?(福祉の人は居てくれてる。でも月に1度の面談のみである)


いつからか途方に暮れる時間に更に新たな時間が重なっただけの多重の時間がのしかかる。

訳のわからない時。もう10年くらい前。ニ、三行の言葉を書いてブログにアップするのに半日以上かかっていた頃。それでもよくアップしたと思うころの


『顛末編』を読んで貰ってからなら 僅かばかりでも何かを感じて貰えるかもしれない事を


次から書くこと?内容なのだとおもいます。



最近!NHK Eテレで放送されてる『超多様性トークショー!なれそめ』という番組で扱われた《記憶を無くした彼女&初体験を楽しむ彼》の中で、冒頭の説明文?のなか、


字幕表示可能なら書いてあって。『乖離性健忘』について、初めて  初めて、『その頻度や症状は様々です・・・』という説明が入った。


  〇2011年からその前のことは一切わからず、どれだけの扱いをされてきているか?今も。


こういう所にスポットを当てた本気の番組をやる可能性は今のところ日本のテレビではNHK

僅かに可能性を持ってるのかもしれない。


記憶障害をネタ扱いしただけの民放のドラマ(書かれるようなことしかしてない)がはびこる中。


結局他人事。


震災でもなんでも


結局他人事でしかない現実。


テレビは諸刃の剣以上の、どこに真実があるの?という風にしか思えない ほとんど嘘でしょ?


それでも可能性を僅かな可能性をおもうから一応観てる状態。


だから一切のアプローチには応えない。だいたい応えられないのだけど。自分で自分を把握できてないから。


でもあらゆるマスメディア・テレビも民放関係には今後も全く応えることはないだろうと思う。今はどこにも。


パラレルワールドなら有るのかもしれないのか?


以前のねほりんぱほりんの時よりは ほんの僅かにまともな人がからんだのか?



『ありのまま』を普通にキチンと伝える所なんてどこもない。



2024年になったのだろうが、テレビも見ない。ラジオも聞かない。かろうじて許可が下りれば聞けるかもしれないウォークマンのみしか持って行かなかった(よくそれを気がつけた)から、早々の能登周辺の地震なども退院してテレビを見るまで全く知らなかった。(被災された地域の方にはおくやみと、復興へのお祈りをします。)




“自分の世界”はそれどころではなかった。


たしか、1月4日頃くらいから、少しずつ食べたときの味とか?自分は今起きてる?とか、トイレ行きたいとか、感じる?ようになり始めたと思う。


退院まで、部屋の電灯はほとんど普通に点けることは無かった。


スタッフとわかっていても、極力口をききたいとは思わなかった。


言ってる意味は判る分、定時のチェック(検温とか)の時以外は、部屋の中に人が入ることはないし、


自分が何をどうしたいとか、そういうのがわからなかった。


退院が確かに決まってあと数日というくらいに、少しスタッフの人と会話らしいのをしたように思うが、自分からということは無かったと思う。


有難かったのは、入院中の時期が部屋の向きのおかげで日の出が見られたこと位だろうか。


谷間のアパートの部屋では全くない窓からの様子が気持ちを少しでも立て直す助けになったと思う。



当時、今でもふと考えるのは、あの時はもっとずっとひっそり病院の部屋で過ごしたいということ。


それは退院後の流れがあまりにも怒濤の様に今に至っていて、本当の意味では落ち着いてはいないどころか、気持ちの地に足が着いていない感覚。



あの部屋を出られたというのはある意味では落ち着いてるところは確かにあって。把握実感できないまま今も。


入院中に年が明けて色々動きがある中で、引っ越せることが決まったらしい話を聞かされたのは退院の2日前で、現在相談している事業所の人と電話で話したり、外に出たとき?退院後の事でいやでも(この言葉が近い言葉と思う)考えざるをえない状況になっていく。



合計15日間位の日数だが、それでも随分配慮されての入院だったと思う。



退院の日には引っ越せることがハッキリしていたから、部屋に帰るのはものすごくストレスを感じたが、あとは福祉の人なりのどれくらい集中して時間を割いてくれるかによって変わるのだろうということくらいを考えて、部屋に戻ることになる。

 前の部屋はフローリングで実質的なリビングとしての 広さは5.5~6畳分くらいの広さしかなかった。


前の前の何もしない最低な福祉の人間にある事件のあと、『モノが多いのよ あはは・・』って言われたことがある。生活することの何もわからずに誰ひとり教えてくれることも無い中、どうしろっていうのか?・・・という中、僅かに自学?の中で必要ないもの(の判断も出来ない・出来なくても)はとにかく捨てていってもそれでも10年近く訳のわからない生活をしてればモノもどうしても増えてくる。


 最後はおそらく畳1枚分(布団を敷けるくらい)の床しか無くなってきていた。途方にくれる中で


『記録に残せば証拠になる』というようなアドバイスのもとで メモに残したものは今も残しているが、


とにかく聞こえよがし?なのか、明らかに隣との仕切りの壁を通して 怒鳴り散らす叫ぶ声が聞こえてくる。


~「ウルサイ! 迷惑! やかましい! フザケンナ!・・・等等・・~


当時上は2階の新しい人間のドスドスした歩く音というより天井が揺れ、つるすタイプの電灯が揺れ、普通の明るさも無くなっていた上に 


 こちらは物を置くのでも動かすのでも 歩くのでも、トイレを流すのでも風呂なんて湯船は張ることもなく4つの洗面器にお湯を出してそれで身体を洗うのみでしかないのに



『大家』は隣の言葉を丸々信用したらしく、~《風呂がウルサイ 洗濯がウルサイ》 ~なんなの?というようなありえない事で文句を言ってくる。8月以降数日おきに直接来る。


忘れることはない。これが世間の言葉として忘れてはいけない言葉。

➡《『あんた障害者だもんね ・いつでも居るよね・証拠が無いからね・・』》⬅


 それなら監視カメラでも外でも部屋の中でも取り付けてくれていいからしらべたらどうですか?と言えば、『そんな金のかかることできるか?あんたみたいの相手に・・』。



もうこの時点で『無理』だと思ったあの時。


隣と大家からなんにもしてないのに叫ばれ壁を叩くのか?蹴るのか?


おびえるばかりの中 おかしくなっていく体調。


 病院の個室の壁はどれだけ拭い去ろうとしても

床も天井も当然窓のある壁以外の三方全てが恐怖と脅威の存在でしかなく、


体育座り?というような膝を抱えて部屋のあちこちに電灯も点けず4日ほどは過ごすことになる。


食事も運んでもらい、でも部屋の中には入らずに出入り口の所でのやりとり。


僕が受けつけないのである。


みんな同じモノにしか見えず、そんなことは無いと思いつつも、気持ちの中は《『半狂乱》』な気持ちと ハリケーンか台風か嵐が渦巻いていた。


幾らか自分を自覚するようになるのは年が明けて4日位だったと・・・


僅かでも何かしら考えようと出来るようになったのはそれくらいだったと思う。


そこからは 少し前からの医療用のメモ帳に何かしら書き記していく


2023年12月29日即入院が決まった日は自治体も年内最終稼働日。


 診察のあと、主治医の先生が、入院に際しての調整と診断書?を書くのに時間をくれということで、しばらくは待合室で待つことになる。


珍しく受付の人やおそらく病棟のスタッフさんらしい人が診察室を出入りし始めて、暫くしたら

先生に診察室に呼ばれて、だいたいの内容として『これを生活福祉課に持っていってきて。今日持って行けば今日から動きがあるはずだから・・・。その間に入院の準備をしとくから準備して来れる?』というような話で、


展開の早さにこっちが着いて行けなくなりそうだった。


診断書?の内容はあとでだいたいわかることになるが、

〇入院についての内容

〇このまま今の住まいには住ませられない。引っ越しをさせるように


等の事だったらしい。


あの日?その日の自分はもう既におかしくなってたと思われる中、なんとか市役所の該当担当窓口に行って手渡して、そのまま部屋に戻り、頭がよく回らない中、とにかく入院に必要そうなモノをバック等に詰めて病院に戻って。夕方5時を回るか回らないか?という感じだったと思う。


曇っていたような・・正直よく覚えていない。


本来個室など無理なのだが、僕の状況と、病棟の部屋のやりくりで個室に入り、過ごすことになる。


自分以外の人間を全く受けつけないのである。病院のスタッフさんであっても。次回以降に


結果的に最終日まで個室で過ごせたのはとてもありがたい事だったと思う。


入って直ぐ採血などの幾つかの検査をしたと思う。夕食から食べることができた。



ただ、部屋の電気は点けたくなく、スタンドの灯りはどうしても真っ暗では難しいこともあるので、それだけ点けて。



壁がこわい日がこんなにこわいんだという感じで


ベッドに座ってうずくまる感じで、入院が始まった・・・

 相談支援事業所の人とのやりとりの中、

飛び出した?言葉は『もうがんばれない・・耐えられない・・もう無理・・・』


 具体的な言葉はもう出なくて、究極の言葉。それ以外の言葉にならなくなった。


 首から上の異常な熱さ。異様な上がり方をしていくHbA1cの数値。検査しても異常が無いと言われ、慣れない事だらけでいきなり引っ越し後の落ち着かない中、結果 最終的に数値は6.9まで上がり続けた(4月までに)。2023年夏に5.7まで下がって3か月ほど安定しかけていたときから、1か月で0.5以上悪くなったときもあった。HbA1cの数値で0.1ポイントの変動がどれ程の意味を持つかキチンと分かる人には それがどういう事か?わかったようなことをいう人の話は聞くべきでは無い。テレビのデタラメな記憶障害をネタ扱いするのと同じだ。酷いものだ。記憶障害を扱いのデタラメなドラマでも番組でも作るな。酷い迷惑以外のなにものでもない。ふざけた嘘八百の作りもの


・・・・・・


 12月の最終の障害に関わるかかりつけの診察日は12/29だった。


診察の流れは具体的には書かないが、診察室に入った瞬間から先生は何か感じてたのだと思う。


 やりとりがいつも通りにならず、

『もうがんばれない・・耐えられない・・もう無理・・・』そのような言葉がいきなり出る中、

即入院が決まった。


 もう当時の細かいことは覚えていられなかったというのもあるが、先生からのだいたいの言葉は

~“わかった 入院して休もう・・アノヘヤヲ離れよう  病棟の事情もあるけどなるべく長く休めるようにするから・・・引っ越ししたほうが良いね・・”~  大雑把にはそんなようなやり取りの項目だったと思う。


いつまで入院したいかというやりともしたと思う。急な入院は病院にも迷惑だというのはあったし、相談支援事業所の人は、「年末年始に対応できるところが休みになるともしもの時の対応ができないよね・」というようなことは言われていたので、『今日から相談支援事業所とか休みの正月3日まで・・』と話したら、『もっと休もうよ なんとかするから・・』   結果的に12日まで個室でひとりきりの中、部屋の『壁』におびえながらゾッとしながら過ごさせてもらうことになる。


入院しても酷い状態は続いた・・・













これはあとから気がついた話。


 その日夕方から夜にかけて何をどう過ごしていたのか良く覚えていない。


気がついたら外に出たらしい。


 部屋から行くには結構な道のりなのに歩いたのだと思う。


 気がついた?意識を持って「あ」と思ったのは橋の欄干から身を乗り出し、右脚は膝から先は橋の外にぶら下がって両手で欄干を持って、左脚をちょっと勢いつけたら、たぶん落ちてた。


その橋は山間部の。バイパスを渡す橋でそこからの高さは立った状態でウルトラマンや怪獣がスッポリ入るくらいの所。



 2016年に胸の開胸手術をするまでは、幼稚なりに自分の存在は迷惑なだけで生きても生きなくてもよいのではないかというところにおさまっていた。それを手術をキッカケに


『命は全うしてこそのものであって、もうしっかり向きあってこの命を生きる』と決めてはずだった。



執拗な嫌がらせや言われの無い苦情とそれに乗っかってくる大家の対応。


部屋は、だんだんものに溢れてきて、天井は低いし部屋の床も傾いてる。自分なりに工夫はしても息が詰まるような小さな部屋に横や2階の配慮の無い大きな音や声。


何より相談しても一応話は聞いても何もしないしょうがい福祉課。丸投げされた相談支援事業所の人だけが出来ることはないかって考えてくれてはいたけど・・・ 



追い詰められたのだと思う。誰とも話さない独りきりの生活。


訳がわからないなりに糖尿病のHbA1cが順調に下がってくれていたのが、一気に上がってきて、原因のわからない不調が続き始めて



こうして書いてるのが新しい家だから余裕はあるものの、やっぱり当時は


あえて言うならただでさえ抱えた障害の中、不安だらけで目の前の時間を過ごすことすら大変(そう言っていいと思うのではないか?)、今の自分にどうしろというのか?


機能しない存在。張り子の虎の自治体の福祉。


張り子の虎から 丸投げされて大変な思いをしてくれてる相談支援事業所の人達。


その時できそうな事がもう尽きて


あぶなかったでは済まされない状況。


ほんのすこし蹴り出せば落ちて死んだはずの状況から ギリギリでハッとして


今生きている。



あれほど誓ったはずなのに、助けを求めても誰も会話するものすら居らずの様ななか、


踏みとどまれた。


それから数日して相談支援事業所と電話で話すことになる・・


そして事態は動き始めたのだとおもう


 引っ越しは突然だった。そんなつもりは無かった。自力ではとても難しいと諦めていた。


 2023年5月頃に隣に引っ越してきた人からの言われの無い苦情にアパートの大家が乗っかる形で責められた。


 責められついで?にあるとき言われた『障害者だものね(わかりやすく地元言葉は言い換えてあり)』『いつもいるよね・証拠が無いよね・・』踏ん張っていた気持ちが ああいうのを「折れた」というのか?


 何もしないのに身に覚えのないことで責められるなか、何も無くてもただ目の前の時間を過ごすだけでもキツいのに、大家が加担したことで苦情では済まなくなるような状況になる。


 体調がくずれた。ホットフラッシュと同様の様な症状に色んな病院を回る事になる。検査をしてもぎりぎりだが異常は無し。


 結局!乖離性健忘症での障害で世話になってる病院の守備範囲?の中でゼロでは無い可能性を試す形で、定期的な薬を処方され服用することになる。


 コロナ禍になるより前から何かキツい状況の時のみ服用する形での薬は一定量持たされてはいたが、時々用心のために飲む(服用する)ことは有っても大元?の乖離性健忘症(全生活史健忘症)とは離れた部分なのか、ほとんど服用することが無くなってきていたので、糖尿病や喘息他の薬に足す形での薬の量がふえる。


 それでも改善は難しかった。常に鎖骨より上の暑くて息苦しい状態はただでさえ不安なところが※この※今の自分?がおかしくなりそうに意識が飛びそうになるような感覚に、だんだん耐えられなくなっていく・・・元々何年も前からこのブログで書いてきたようなことの中で、既に限界は超えてるのだと思っている。


20231215の夜 それは無意識だったのだと思う・・・・



っていうのがあって・・・・・・・・・・・


植物を一線引いてるところに違和感。


今の僕のなかで



訳がわからないから



でも



ふだん毎日誰も居ない中でね、



感じたことが   このブログだから



そいで、



ホントはすごく入り込みそうなエイリアン👽インタビューなんだけど、たとえば動物とか?植物とか?むきぶつとか?


ちょっと・・・・ひっかかって。



たとえ牢獄(2024の今の時点で色々 観て見てみて!・)でも、



だって今の自分?今の世の中?、的にはそれが全てなんだから。


『輪廻転生』までコントロールしてるのかもしれないけれど、その中で   与えられた中で

それでいいじゃない。


計算?コントロール?      いっこいっこのことに注目していいなら?


考える何かがあると思うし。


『エイリアン👽インタビュー』がすべてでなければ40兆年とかでもそれ以外の世界観でもね


そこからやり直せば良いし。


あらゆるなにかの何かが有るなら、そこからやれば良い。


宇宙の?だいたい“宇宙”?誰も知らないこと。


『全体』????を把握してる存在なんてある?


そーんな中の宇宙銀河系?太陽系第3惑星地球?うんたらかんたら?


トテモでないけど まだまだまだまだわからない世界?



フリーズ・・・・